09 じゃじゃ馬vs殺人鬼
――まずいわ、なんとか助けを呼ばなくちゃ。でもここにはだれも来られないわよね……。どうしよう、どうしよう。
焦りがどんどん膨らんでいく。胸が早鐘のように鳴っていた。
頭は真っ白になり、手足の震えもとまらない。
男は舌なめずりをしながら、剪定ばさみを滑らせて、私の首の皮に傷を入れる。鋭い痛みが走り、熱い血が流れ落ちる感覚が伝わってきた。
「痛いじゃない! やめなさい!」
「へへへ。ちょっと威勢がよすぎるが、それにしても美人だな。どうせここには誰もこねー。ゆっくり楽しんでから殺してやるぜ」
「冗談じゃないわ! 助けて! だれか! ヴィクター様ぁぁ!」
男は狂気に満ちた顔で不気味に笑いながら、私を地面に押し倒した。
後頭部を打ち付け、激しい痛みに顔を顰める。
私の胸に手を這わせながら、男はまるで貪るように、私の胸元の匂いを嗅ぎ始めた。
興奮した男の鼻の音が、私の背筋をぞっとさせた。
「いやぁぁぁ! それ以上は本当にゆるさないわ! 助けてー! ヴィクター様ー!」
絶望的な気分に押しつぶされそうになりながら、私は大きな悲鳴を上げた。
だけどこの空間は、本当に時間が止まっているかのようだ。
声が枯れるほど叫んでも、その声は陰気な壁に阻まれて、虚空に消えていくばかりだった。
「たまんねーな、この匂い。興奮してきたぞ!」
「もう、いやぁぁぁあ! 変態! どれだけ嗅いだら気が済むのよ!」
「ガキを殺すのも楽しいが、気位の高いご令嬢の顔を恐怖に染めてやるのも楽しいもんだ。暗殺は俺の天職ってやつさ。もっと泣き喚いて、俺を楽しませてみろ」
「なんて歪んだ男なの!? よくもダフネ様を殺したわね!」
「あぁ。あれは最高だった。ヴィクターの手に短剣を持たせて、その手でダフネを刺してやったのさ。ヴィクターが『僕が殺した』と自白したときは、本当に笑いが止まらなかったぜ」
「よくもそんな酷いことを……!」
歪んだ笑顔を浮かべながら、男は残酷な事実を語る。その非道さに私は言葉を詰まらせた。
ヴィクター様を襲った恐怖と悲しみ。それを思うと、涙が溢れて止まらない。
抵抗する気力が薄れ、身体の力が抜けてしまう。
「お。急に大人しくなったじゃねーか。犯されるよりこっちの方が恐怖が強いか? なら方針を変えてやるよ」
男はハル坊を片手で引きずり、私の前に転がした。
そして狂気の笑みを浮かべながら、私の手に無理やり剪定ばさみを握らせる。
冷たく硬い刃物の感触。その黒い刃先の鈍い光を凝視して、私の身体は凍りついた。
私の手はものすごい腕力で捕まれ、刃先をハル坊の方に向けられる。
「いっ、いや、それだけはやめて……! お願い!」
「んはは。やっとしおらしくなってきたな。俺はその顔が見たかったんだ。よく覚えとけ。その手でガキを殺したのは、おまえだってことをなぁ!」
「いやぁぁーー!」
私は恐怖のあまり泣き叫びながら、必死に身体をよじって抵抗した。
次の瞬間、男の腕が急激に力を失い、背後でドサッと重い音が響く。
「くそ……。殺人鬼め……」
そのうめくような声に振りかえると、周囲に血の海が広がっていた。
あの憎らしい暗殺者が、地面で動かなくなっている。
その隣には、恐ろしい形相で男を見下ろすヴィクター様の姿があった。
血に濡れた剣が、男の体に深々と突き立てられている。
ヴィクター様の目つきは冷酷そのものだ。男の返り血を全身に浴びながら、ものすごい殺気を放つその姿は、まるで本物の殺人鬼のようだった。
「あぁ、そんな……! エリカが怪我を……」
殺気立っていたヴィクター様の顔色が、急速に青ざめ、彼の足元がふらついている。私は慌てて立ち上がり、精一杯の力で彼を支えた。
ヴィクター様の額から冷たい汗がどんどん流れ落ちてくる。
「なんてことだエリカから血が……」
「ヴィクター様、私は大丈夫です! あなたが助けてくれましたから」
「エリカ……。本当に無事なのか?」
「はい、ピンピンしています」
「よかった……」
大きく肩を撫で下ろしたヴィクター様の顔に、少しだけ赤みが戻ってきた。
「ハル坊ーー!」
「パパーー!」
そのとき庭師の男が走ってきて、倒れていたハル坊を抱き上げた。
ハル坊は父親の胸に顔を埋めて泣いている。目が覚めた途端、血まみれの庭師が倒れていることに驚いたようだ。
少し怪我はしているものの、意識はしっかりしているように見える。
父親が安堵の表情を浮かべている。私もホッとしながら周囲を見渡した。
いつのまにか、庭師や職人、さらにはトムソンやクラリー夫人までが、この庭に集まってきている。
みな、ハル坊が教えてくれた秘密の抜け道を通ってきたようだ。
「みなさん、この抜け道を知っていたんですか?」
「あの抜け道はダフネ様に依頼されて、俺が作ったものなんです」
「そうだったんですね。ヴィクター様を連れてきてくれて助かりました……」
「息子を探していたら、ヴィクター様を呼ぶエリカ様の悲鳴が聞こえたものですから」
私が驚いていると、ハル坊の父親は、まだ少し青ざめながらも、質問に答えてくれた。
この人がヴィクター様を連れてきてくれなかったらと思うとまだ怖くて、体の震えが止まらない。
だけど、諦めずに叫んで救いを求めたことは、けして無駄ではなかったのだ。
そう思うと少しだけ、肩の力が抜けた気がした。
――バカな男。誰も来ないと思って、私の悲鳴を楽しんだりするからよ。
――本当に変態だったけど、変態で助かったわ。
私は足元に倒れている、憎らしい男を睨みつけた。
ヴィクター様に斬られて気を失った男は、目を見開いて失禁している。ざまぁみろと思うものの、まだ苛立ちはおさまらなかった。
「ヴィクター様、この男はダフネ様を殺した犯人で、ヴェルダイン侯爵家の手の者です。これはその証拠です」
私は男が握っていたヴェルダイン家のブローチを取り、ヴィクター様に差し出した。
ヴィクター様はそれを受け取ると、ひどく険しい表情でじっと眺めた。
「……エリカ。私もここにくる途中、全てを思い出したんだ。こいつはヴェルダイン侯爵の家臣だった男だ。
暴力沙汰で追放され、身元を隠してこの城の庭師になった。
うまくダフネを殺せば元の地位に戻してやると侯爵から言われている、あの日こいつは、泣き叫ぶダフネに向かってそう言っていた。
私は全て知っていたんだ。それなのに……」
「ヴィクター様……」
彼は悔しさに震えて、言葉の途中で黙り込むと、唇を強く噛みしめた。
全てを知っていながら記憶を失い、つらい年月を過ごしたヴィクター様。その気持ちを思うと、私もやるせない気分になる。
彼は過去の痛ましい記憶を乗り越えながら、必死にここへ駆けつけてくれたのだろう。
その優しさは、私の冷えきった心を温めてくれた。
「ヴィクター様、こんなつらいことがあった場所なのに、助けに来てくれて嬉しいです。本当にありがとうございます」
「当然だよ、エリカ。君は私のすべてなんだ。なにがあってもかならず来るさ」
「ヴィクター様ったら……」
私の瞳から、また涙が溢れ出す。ヴィクター様の頬にも光る涙が伝い落ちていた。
私たちは互いに寄り添いながら、止まらない涙を流したのだった。
お読みいただきありがとうございます!
ついに過去の記憶を思い出すヴィクター。不憫なヒーローですががんばりました。今回はホラーということて、ヒーロー視点のお話がないのですが、あったらもの凄い葛藤をしてそうですよね笑
次回で最終話です。ラストのエリカもまたなにかと戦います。