08 じゃじゃ馬vs過去の陰謀
「エリカ様、この壁の向こうに行ってみたいの?」
キラキラした瞳で私を見あげていたのは、この城に長年住み込みで働いている庭師の息子、ハル坊だった。
「ハル坊じゃない。あなた行き方を知っているの?」
「うん。この奥のお庭はね、もともとダフネ様のお気に入りの遊び場だったんだって。だから、ダフネ様のために、秘密の抜け道が作られていたんだよ」
「秘密の抜け道……?」
首を傾げながら図面を確認してみても、いったいどこのことを言っているのかわからない。
図面上ではこの場所は、フラワーガーデンの一部になっていて、小さな小道や架け橋で別の庭に繋がっていた。
だけど今はどの方角にも壁があり、完全に孤立した空間になっている。
「地図には載ってないよ。トムソンさんも知らないくらいだからね。案内してあげよっか?」
「本当に!? ありがとう、ハル坊!」
ハル坊は誇らしげにうなずくと、私の前に立って歩きはじめた。
彼にとってこの城は、冒険心をくすぐる最高の遊び場のようだ。誰も通らないような細い道ばかりを通って、くねくねと遠回りしながら進んでいく。
古びた絵画が並ぶ廊下を通り、使われなくなった階段を下り、朽ちかけの扉をいくつも抜ける。
そしていつしか私たちは、城の端にある果樹園にたどり着いた。
奥まった場所の茂みをかき分けると、隠し通路の入り口が現れる。
それはツタと苔に覆われた、小さな鉄の扉だった。
ハル坊は手馴れた様子で錆びついた取っ手を回す。扉を開くと、その先は暗闇が広がっていた。
ハル坊は入り口にかかっていた蜘蛛の巣を木の枝で払うと、私を振り返ってニカッと笑った。
「いくよ、エリカ様」
「わ、わかったわ」
恐怖心に震える足を抑えながら、その暗闇に足を踏み入れる。
冷たく湿った空気が肌を刺した。真っ暗な階段を降り、狭い通路をしばらくいくと、また階段が現れた。
私たちはそれをのぼり、小さな扉を開けて外に出る。するとそこは、本当にあの壁の向こう側だった。
「ほらね! 僕すごいでしょ?」
「本当! すごいすごい!」
そこは四方を高い壁に囲まれた、時間が止まったような場所だった。
あちこちで草が生い茂り、壁には蔦が這い、石は苔むして、長い間誰も足を踏み入れていないことがわかる。
しかしそこは確かに、ダフネ様のお気に入りの場所だったようだ。
ブランコなどの子供向けの遊具が点在し、小さな小屋も建っている。
そして庭の端にあるパーゴラの下には、ダフネ様の着ていた小さなドレスや、可愛らしいアクセサリーがたくさん保管されていた。
木箱に入れられているとはいえ、ほとんど雨ざらしのような状態で、それらはどれも汚れている。
それでもその細やかな装飾をみれば、全てが非常に高価なものであることがわかった。
クラリー夫人がどれほどダフネ様を愛していたか、感じずにはいられない品ばかりだ。
「ダフネ様はね、王子様と結婚する予定だったんだって。だからいつも綺麗なドレスを着てたらしいよ。僕もダフネ様に会ってみたかったな。きっとエリカ様みたいに綺麗な人だよね」
「そうね、とても可愛らしい人だったわ……」
ハル坊は目を輝かせながら、古びたドレスの詰まった木箱を覗き込んでいる。
そこに詰め込まれているのは、淡いピンクや優しい黄色の、ふわふわしたレースいっぱいのドレスだ。
そのドレスを眺めながら、私は幼い頃一緒に遊んだ、ダフネ様の姿を思い出していた。
彼女はあの頃、ここにいるハル坊と同じくらいの背丈だっただろうか。
――そうね、そうだわ。ダフネ様はあんなに小さかったけれど、王子妃候補だったんだ……。
次期王座が約束された第一王子の妃候補は、この国のいくつかの大貴族のなかから、複数人選出されていたらしい。
そのうちの一人が、当時まだ八歳だったダフネ様だったのだ。
この妃の座を巡る戦いは熾烈を極め、いまもなお候補者たちの間では激しい競争が起きているという。
ダフネ様を失ったハイデン公爵家は、その競争から退かざるを得なかった。そしてその影響は、他の貴族たちとの交渉ごとなど多くの場面で、先代のハイデン侯爵を苦しませたと聞いている。
この変化は、城の中の寂寥感からも、はっきりと感じ取ることができた。
――あら? なんだか、陰謀の香りがしてきたかも。
――確かダフネ様と王子妃の座を争っていたのは、エルトン公爵家とサーリッジ伯爵家、それから……、そうそう、ヴェルダイン侯爵家もだったかしら。
高位貴族たちのいざこざなんて、噂でいろいろ聞かされても、私はあまり興味がなかった。
なにか思い出せないかと考えこんだそのとき、一つの光が視界に入った。
遺品が入れられた木箱のそばに、なにか小さなものが落ちていたのだ。
深い緑色に輝くその飾りは、他のものと同じくらい古びている。
きっと長い間ここに落ちていたのだろう。
随分と重厚なデザインだ。ダフネ様の可憐な装飾品とは一線を画し、私に違和感を感じさせる。
――これは……ブローチ? どう見てもダフネ様のものじゃないわね。
――でもなんだかこの模様、見覚えが……。
「あ、これ、ヴェルダイン侯爵家の紋章だわ!」
私がそのひらめきを口にした瞬間、背後から何かに身体を押さえつけられた。
心臓が凍りつく。熱気を帯びた息が首筋にかかった。
筋肉質な男の腕に、両腕を固定されている。とても逃れられない圧力だった。
まるで鋼鉄のように硬い腕だ。飛び上がりそうになる私に、男はさらに圧力をかけ、その動きを制した。
「はなしなさい!」
私は逃げようと必死に足掻く。だけど男の力が強すぎだ。
動けない私の耳元に、男が顔を寄せてきた。
「……くくく。お前らについてきたのは正解だった。やっとこのブローチを回収できた」
「ブローチ……? さてはあなた、ヴェルダインの暗殺者ね!?」
男は私の手から、紋章入りのブローチを奪い取る。
薄汚い口髭が私の頬に擦り付けられ、生暖かい息と共に、強烈な口臭が漂ってきた。
「エリカ様か。でしゃばる女は嫌いだが、さすがは伯爵令嬢だ。いい匂いがするもんだな」
「変態! 私にこんなことをして、タダで済むと思っているの!?」
「本当に気がつえーお嬢さんだな。まずはおまえで楽しんでやる。ガキを殺すのはそのあとだ」
男のダミ声が耳を震わせる。私の身体はあまりの不快感に硬直していた。
男の発した言葉の意味が、私の心臓を鷲掴みにする。
「ガキを殺すですって……!? ハル坊! ハル坊はどこ!?」
必死に周りを見回すと、近くに倒れているハル坊の姿が見えた。
「ハル坊! 逃げて! 逃げてちょうだい!」
必死に声をかけてみても、ハル坊は少しも動かない。全身から血の気が引いていく。
「ハル坊になにをしたの?」
「くくく。後ろから一発ぶん殴ってやっただけさ」
「なんてこと……! 子供を平気で殴るなんて、本当に最低のグズだわ!」
男への怒りが、恐怖を通り越していく。だけど私も本当にバカだ。
こんな大きな男の接近に、どうして気が付かなかったのだろう。
王子妃の座を巡る陰謀。
私はそれが気になって、あまりにも考えに集中しすぎてしまったのだ。
後悔がどっと込み上げてくる。
「ハル坊! ハル坊、起きて! 逃げなさい!」
「ガキの心配してる場合かよ。俺はおまえを先に殺す気だって言ったはずだぞ」
男は冷たくそう言うと、手に持っていた剪定ばさみを、私の喉元に突きつけた。
「剪定ばさみ!? ずっと庭師のふりをして、この城に住んでいたのね! ダフネ様を殺しておいて、よくも平気な顔で……。しかも少しも仕事しないで! 庭がめちゃくちゃだったわよ!」
「庭なんか知るもんか。俺はブローチを回収したかっただけだ。だがやっと手に入った。この城からも、ようやくとんずらできるってわけだ」
「そううまくいくかしら?」
「ふん。俺は勝手に庭を荒らすおまえが、はじめからずっと気に入らなかった。だが、なにかやるんじゃねーかと、ずっと見張っていた甲斐があったな。
城を出る前の置き土産にちょうどいい。あの不憫なヴィクターに最高の絶望をくれてやろうか!」
――あぁっ! 最悪!
ずっと悲しげだったヴィクター様の顔を思い出して、私は思い切り唇を噛んだ。
私の造園を、何度も褒めてくれたヴィクター様。
私との結婚を楽しみにして、幸せそうに笑っていたヴィクター様。
私はあの人に、これ以上悲しんでほしくない。
――なんとか助けを呼んで生き延びなくちゃ。ハル坊も絶対死なせない。
――もうすぐ職人たちが壁の向こうに来るはずだわ。叫んだら気付いてもらえるかしら。
――だけどここには来れないわよね……。
――どうしよう、どうしよう。だめだわ、なにも考えられない!
焦りがどんどん膨らんで、思考が白くなっていく。私の胸は早鐘のように鳴っていた。
お読みいただきありがとうございます!
ハル坊とについていった先でピンチに陥ったエリカ。
四方を壁に囲まれた庭で彼女は……。
次回、エリカは更なるピンチに見舞われます。