07 じゃじゃ馬vsクラリー夫人
「こちらでございます」
黒いタキシード姿のトムソンが、しわがれた声で私を誘導する。
前を歩く小さい背中。ときどき私を振り返るその顔は、まるで真っ暗な空洞のように、窪んだ目がひどく不気味だ。
蝋燭の火が揺らめく通路を、両側に飾られた古びた肖像画に眺められながら進む。
その先は、ヴィクター様の母、クラリー夫人の寝室だった。
どこからか囁くような声が聞こえている。足元の赤い絨毯には、天井から滴り落ちた液体が、黒いしみを作っていた。
なぜだか足がすくんでいる。トムソンも扉の前に立つと、その厳しい顔をより一層険しくした。重い扉の軋む音が響く。
室内は微かな埃の匂いが鼻を突くものの、トムソンによって毎日手入れされているようだった。クラリー夫人は豪華な装飾が施された、しかし古びた椅子に座り、窓から遠くを見つめている。
その視線の先にあるのは、先程の庭の奥にある、あの不可思議な壁だった。
突然冷たい風が吹き込んで、私の背中をゾッとさせる。
「奥様、こちらがヴィクター様と婚約中のエリカ様でございます」
「はっ、初めまして、クラリー夫人。お目にかかれて光栄です」
トムソンが静かに挨拶する。私も緊張を抑えながら、できるだけ優雅に一礼した。
クラリー夫人からの返事はない。彼女はその虚な視線を、ゆっくりと私に移した。
痩せ細った顔に、ボサボサに掻き乱された髪。
充血した赤い目は、まるで別の世界でも覗いているかのように、焦点が合っていない。
しかしその目はしだいに私の姿を捉え、ゆっくりと大きく見開かれた。
なにか恐ろしいものでも見たように、まったく瞬かれることもなく、じっと私を凝視している。
――え!? なんなの!?
その狂気じみた表情に驚き、私が一歩後退りすると、クラリー夫人の身体が、ふるふると震えはじめた。
「……婚約……? あの殺人鬼と……? あなた、本気でそんな、恐ろしいことを言っているの?」
「えっ……!? はい、本気ですが……!?」
それはあまりに予想外の発言だった。
クラリー夫人の震える声には、ヴィクター様への恐怖と、深い憎しみが入り混じっている。
「……エリカと言ったかしら。あなた、なにも知らないのよ……。ヴィクターはダフネを可愛がるふりをして、油断したあの子を切り刻んだわ! 何度も! 何度も! 何度も斬ったのよぉぉぉぉお!」
クラリー夫人の見開かれた瞳から、滝のように涙が溢れだしてくる。
彼女の筋ばった細い指が、椅子の肘掛けを力強く掴み、足は何度も床を蹴る。
髪は振り回されてますます乱れ、古びた椅子はいまにも壊れそうなほどに、ギシギシと激しい音を立てた。
その様子に目を見開きながら、私はやっとの思いで声を出した。
「ヴィッ、ヴィクター様は、そんな酷いことをするような人じゃ……」
「あなたは! あの子の本性を知らないからそんな呑気なことが言えるのよ! あれは私が産み落とした悪魔だわ! あのときあの子は! 血に染まった手を私に向けてこう言ったの。『僕が殺した』、確かにそう言ったのよ!」
「そっ、そんな……」
クラリー夫人は、ますますガタガタと震えながら、汗と涙に塗れた顔で、必死に私に訴えてくる。
「……エリカ、あなたも同じ目に遭うわ。早くこの城からお逃げなさい。あの殺人鬼に切り裂かれ、全てを失ってしまう前に……!」
「ひっ」
恐ろしい形相で、私に逃げろと警告するクラリー夫人。
あまりに強い衝撃に、私の体は動かない。
なによりもこれが、あの人の実の母からの言葉だという事実が、私の胸を激しく締め付けた。
「あぁぁぁぁ! 聞こえてくるわ! ダフネの悲しい叫び声が! あの子はまだ苦しんでいるの! あの殺人鬼のせいで、いまも毎日泣いているのよ!」
部屋の空気を震わせる、クラリー夫人の悲しい叫び。
涙が次々と溢れて流れ落ちていく。
その姿は悲劇そのものだ。
「あぁトムソン! ダフネの庭を、もっともっと囲ってちょうだい! あの殺人鬼が、二度とダフネを殺せないように!」
「奥様……!」
嗚咽とともに溢れ出す、強烈な憎しみと恐怖。そして娘を失った悲しみが、部屋中の空気を震わせて、痛いほど私に伝わってくる。
トムソンが夫人に駆け寄っていく。優しい手つきで背中を撫でながら、彼女を落ち着かせようと声を掛けている。
「奥様……。どうか呼吸を整えて、ゆっくりとおやすみになってください。ヴィクター様は、私がしっかりと監視しております。どうぞご安心なさってください」
トムソンの穏やかな声は、その厳しい見た目からは想像がつかないほどだ。
私はその様子を、呆然としながら眺めていた。
膨大に溢れ出した感情の波。
私はそれにさらわれていく。
まるで砂にでもなった気分だ。
――なんて悲しいの。ヴィクター様……。
――ここまでお母様から憎まれているなんて……。
△
翌朝私は、またあの不可思議な壁の前にいた。
あのあと、トムソンから聞いた話では、ヴィクター様は確かに、ダフネ様が亡くなったとき、『僕が殺した』と言ったらしい。
それ以来クラリー夫人は、ずっとあんな様子だという。
だけどそれを否定しようにも、ヴィクター様は記憶がないのだ。
クラリー夫人がダフネ様の死を受け入れられなかったことから、彼女の死は公表されず、葬式すらも行われることはなかった。
そのことが余計に、ヴィクター様に対する、恐ろしい憶測を生みだしてしまったようだ。
トムソンは悲しい事件の現場を夫人の目から隠そうと、この大きな壁をつくり、庭を囲ってしまったらしい。
そしてこの壁の向こうにあるのは、ダフネ様の死体……、などではなく、トムソンが隠すように運び込んだ、ダフネ様の遺品の数々だという。
『エリカ様。私はヴィクター様の無実を心から信じ、あの方の幸せを願っております。だからどうかご理解ください。
この壁の向こうにある記憶は、奥様にとっても、ヴィクター様にとっても、大変つらいものなのです。不用意に近づいて、刺激することのないように』
私に忠告してきたトムソンは、有無を言わせない雰囲気を漂わせていた。
けれど、私はどうしても、この壁が気にいらない。
事件現場は直接見えなくても、この陰気な壁は存在するだけで、十分に事件を想起させるのだ。
クラリー夫人はあの窓から壁を見るたび、心の傷が開いているのではないだろうか。
それは彼女の精神状態に、良い影響を与えるはずがない。
それにこの壁は、私の幸せになるはずの庭を遮っているのだ。
おしゃれに造園しようにも、この暗いグレーの壁は、ものすごく邪魔だ。
考えれば考えるほど、この家の不幸は全て、この壁のせいのように思えてきた。
――うん、やっぱり撤去一択ね。トムソンには悪いけど、こんな壁がある城では、だれも幸せになれないわ!
――ふふ。業者の手配も済んだし、もう準備ははじまっているの。お庭がもっと素敵になれば、クラリー夫人だって元気になるかもしれないわよ!
一人で小さくほくそ笑みながら、勝手に撤去の準備を進める私。
「エリカ様、その壁の向こうに行ってみたいの?」
そのとき後ろから、だれかが話しかけてきた。
驚いて振り返ると、キラキラした瞳で私を見あげる、可愛らしい少年だ。
彼は長年この城で働いている、庭師の息子ハル坊だった。
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不幸のどん底から、逃げろと警告してくるヴィクターの母クラリー婦人。衝撃を受けた彼女ですが、ヴィクターを信じたい気持ちが強いようです。
次回、エリカは壁の向こうへ……?