06 じゃじゃ馬vsハイデン城
数日後、私はヴィクター様に誘われて、ハイデン城にやってきた。
公爵家の城であるその建造物は、堅固な構造の石造りで、たくさんの尖塔や城壁があり、遠目には壮大で威厳がある。
だけど一歩なかに足を踏み入れると、その幽霊屋敷のような状態に、私は思わず立ち尽くしてしまったのだった。
子供の頃に来たときは、とても華やかな雰囲気だったはずなのに、いまはなにもかもが埃を被り、見る影もなくなっている。
かつては色とりどりの花々が咲き誇っていた庭園も、いまでは雑草が生い茂り、荒れ果てた姿を見せていた。
広場の噴水は水が枯れ、苔むした石像が寂しげに首を傾げている。
城の中では壁も窓も薄汚れて、カーテンもすっかり色褪せていた。昔の威厳や華やかさは、完全に失われているようだ。
ヴィクター様は城の状態を見回しながら、また少し申し訳なさげに眉を寄せた。
「あの噂が広まってから、使用人たちが怖がって大勢やめてしまってね。全く人手が足りていない。私は軍事演習で城を空けることが多いし、母もダフネが死んでから、ずっと体調を崩しているんだ。おかげでこんな状態だよ……」
「まぁ……! あの元気だったハイデン婦人が、八年も……」
娘を失ったご婦人の心の痛みは、私には到底計り知れない。彼女の悲しみがこの城全体を包み込み、まるでダフネ様の喪が永遠に続いていくかのように感じられた。
ヴィクター様はその事態に胸を痛めながらも、無力感に苛まれているようだ。
「こんな状態で申し訳ない。だが、君がここに住む日までには、できるかぎり綺麗に整えておくから……」
「いいえ、ヴィクター様! それには及びません。私がこの城を、とびきり素敵に変身させますから! どうか、ご許可をいただけませんか?」
「本当かい? 嬉しいよ」
「ではさっそく、明日から始めますね! これはやりがいがありそうです!」
悲しそうなヴィクター様を元気づけるため、そして私自身が幸せに暮らせる場所を作るため、私は城の改修に乗り出した。
私はまず、ミドルトン家の造園に携わった、たくさんの庭師や職人たちに声をかけた。
私の知り合いの庭師たちも、ヴィクター様の噂を耳にしていたのかもしれない。
だけど私と共にミドルトン伯爵家の庭を造園した功績は、彼らにとっても素晴らしい経歴となっていたようだ。
「エリカ様の頼みなら」と、みな快く引き受けてくれた。
ヴィクター様自身も、ご自分の名誉回復には、懸命に取り組んでくれている。
この場所で直接ヴィクター様の優しさや誠実さに触れれば、みなの噂への恐怖心も、すぐに消えてしまうと思う。
庭師たちは私の指示に従って、城の目立つ場所から改修を始めた。
庭は幾つもあるけれど、やはり入り口に近いフォーマルガーデンや、来客の多いフラワーガーデンは早めに綺麗にしたい。
庭の雑草を取り除き、壁やタイルの汚れを落として、まずは掃除をするところからだ。
壊れていた噴水も改修され、再び水音を響かせはじめる。
城内では職人たちが、崩れた壁や傾いた扉などを直し、大勢の使用人たちが、埃や蜘蛛の巣の除去など、清掃も行った。
色褪せたカーテンが新調されると、城に輝きが戻ってきたように感じられた。
改修が進むにつれ、悲しげだったヴィクター様の表情も、しだいに明るくなっていった。
「素晴らしいよ、エリカ。君がきてからこの城は、すっかり別物になったようだ。どこを見ても君みたいに美しいね」
「ヴィクター様、まだまだこれからですよ? ようやく汚れていた場所を掃除して、壊れていたものを直しただけなんですから。楽しいのはここからです!」
「城が綺麗になるのももちろん嬉しいが、まだ結婚の日取りも決まらないうちから、毎日エリカに会えることが、私は本当に嬉しいんだ。八年分の幸せが私に降り注いでいるみたいだよ」
「まぁ、ヴィクター様ったら……!」
「ところでエリカ。少しだけこっちを向いて、私の顔を見る気はないか?」
「いけません……。ヴィクター様のお顔は私には刺激が強すぎます」
ヴィクター様は、美しく手入れされつつある中庭のガゼボで、使用人たちの目を盗んでは、私に顔を見ろだの見せろだのと要求してくる。
だけど彼の美しすぎる顔は、近くで見ると心臓に悪いのだ。
しかもヴィクター様は、耳元で、やたらと愛を囁いてくる。
城を改修するためとはいえ、こんなにヴィクター様が近くては、私の心臓がもちそうにない。
「私たちはもう直ぐ結婚するんだ。少し見つめるくらいは、許してくれてもいいんじゃないか?」
「いけません。こんな人目のある場所で。ヴィクター様は節度を守ってくださ……きゃんっ」
私が話終わるより早く、ヴィクター様は私の頬に手を当てた。
至近距離で彼と目があって、茹で蛸のように赤くなる私を、ヴィクター様は楽しげに見つめている。
「ヴィクター様。あまり揶揄うと、私、帰ってしまいますよ」
「仕方ないだろ? エリカが可愛いくてたまらないんだ」
「もう、知りません!」
私は怒ったふりをして、ヴィクター様から顔を背けた。見なくても彼がしょんぼりしてしまっていることがなんとなくわかる。
だけど私は、この城に来るようになってから、ずっと誰かの視線を感じているのだ。
――ほら、やっぱり見られているわ。
また視線を感じて顔をあげると、恐ろしく厳しい顔でこちらを見ている、執事長のトムソンと目があった。
――怖すぎよ、トムソン……。
ドキドキと高鳴る私の鼓動は、ヴィクター様へのときめきの中に、いくらかの不安を含んでいるようだった。
城の改修工事の計画をたてるため、城内を歩き回っていた私は、いつも視線を感じていただけでなく、ある不審なものを発見していたのだ。
△
「変ね、何度数えても足りないわ。やっぱりこの壁のせいなのね」
広大な城の図面を手に、私は一面の、おかしな壁の前に立っていた。
私が現在造園計画を練っている庭は、季節ごとに色とりどりの花が植えられる、観賞用のフラワーガーデンだ。左右対称に整えられた噴水と低木が整然と並び、美しい幾何学模様を作り出している。
だけど図面上では五十四本生えているはずの低木が、実際には何度数えても、四十八本しか存在しないのだ。
私が植え替えを予定していた花壇も、どういうわけか数が足りない。
どうやらこの庭は、この図面通りに作られたあと壁で区切られ、もとより小さくなっているようだ。
庭の雰囲気に合わない陰気なダークグレーの壁が、異様に高く聳え立っている。
――まさか、この奥って……。
私の胸に戦慄が走る。
『ダフネ様は兄のヴィクター様に無残に殺され、その冷たい死体は、人目に付かない隠された庭に埋められている』
あの恐ろしい噂話を、私は思い出してしまったのだ。
△
あれは私が、この城の改修をはじめたばかりのころの話だ。
私とヴィクター様との婚約を知った使用人の一人が、こっそりと私に進言してきた。
『ヴィクター様は忘れているようですが、ダフネ様は、ヴィクター様が護身用に持っていた短剣で刺殺されていました。
私がトムソンさんによばれて駆けつけたとき、ヴィクター様はダフネ様の遺体のとなりに、血まみれの剣を握ったまま倒れていました。
私はヴィクター様がダフネ様を愛していたことをよく知っています。だから、彼が殺したのではないと、心から信じているつもりです。
ですが状況的に、彼が怪しいのは否定できません。エリカ様、念のためです。どうかお気をつけください。
優しい男が突然豹変するなんて話は、よくありますから……』
彼女はダフネ様の死後もこの城に残った古参の使用人で、普段はヴィクター様とも普通に接しているように見える。
それでも私の身を案じ、彼女は思い切って警告してくれたのかもしれない。
ヴィクター様とダフネ様が倒れているところを想像し、私は少しゾッとしてしまった。
――ダメよ、エリカ。私は噂を信じない。ヴィクター様と、そう約束したじゃない。
私の目に映るヴィクター様は、率直で優しくて、本当に誠実な人だ。
ときどき私への想いの強さに、戸惑うことはあるけれど……。
――だけどヴィクター様が犯人でないとしたら、いったい誰がダフネ様を……。
――そして、この壁の奥にあるものは……?
――そうだわ。どこかに隠し扉があったりして。
ヴィクター様を信じる信じないは別として、私はこの事件の真相が、気になって仕方なくなっていた。
正直言って、知るのは少し怖いけれど。私は意を決して、その壁を隅々まで調べてみることにした。
積み重なった石の隙間に、秘密のスイッチがあったりするかもしれない。
そう思って壁に指を走らせていると、背後から声を掛けられた。
「エリカ様。悪いことは言いません、その壁には近づかないでください」
振り返ってみると、この城の執事長のトムソンだ。
「そうおっしゃるなら、この壁の向こうにあるものを教えてください。このままでは気になって仕方がないです」
「知らないままではヴィクター様と結婚できないと、そうおっしゃるおつもりですか?」
トムソンにそう聞き返されて、私はきょとんとしてしまった。この壁の奥は確かに気になるけれど、結婚から逃げ出すほどではない。
私はとうに、ヴィクター様との結婚を受け入れているのだ。
だけどこれはチャンスかもしれない。私が黙ってトムソンを見つめ返すと、彼は観念したという顔をして、私を通路の先へ案内しはじめた。
お読みいただきありがとうございます!
デレデレ状態のヴィクター様に迫られるなか、不穏な視線を感じたり、怪しい壁を見つけたりするエリカ。
彼女はいったい、なにに巻き込まれようとしているのか。
次回、エリカはトムソンに見せられた光景に愕然とします。