結華の龍2
少ししてロアは立ち上がる。
ポケットから小瓶を取り出し、龍の顔に近づき、その瞳から流れる涙をその小瓶の中に入れた。
光の粒子が流れるひどく透明な液体。
龍の秘宝もとい龍の涙。龍が死んだ時に流す再生の涙である。
この涙が地面に落ちればそこには新たな生態系が生まれる。枯れた土地でも豊かな土地へと変わり、どんな怪我や病気だろうと一瞬で治す無から有を生み出す万物再生の妙薬だ。
この涙があればレティアの傷も治すことができるだろう。
「それが龍の秘宝?」
「ああ」
「思っていたより少ない量でいいのね。もっといっぱい必要だと思ってた」
張り詰めていた緊張が途切れ、ほぐれた様子のルディア。
その声音は上を向き、口数も増える。
ロアは持っている小瓶をルディアに渡す。
ルディアは小瓶を受け取り天にかざす。そして結晶から放たれる淡い光で透かして見る。
彼女が何を思っているのかわからないがその横顔からは少し安心した様子がうかがえる。
不安が一つ解消されたのだ。そんな表情になるも当たり前と言えば当たり前である。
しばらく眺めロアに返そうとすると首を振られ「持ってて」と言われる。
「そう」と適当な返事をして自分の服のポケットにしまう。
本当は手で持っているほうが確実なのだろうがそのほうが手を滑らせ落としてしまいそうで怖い。
しかしまあ厚手の服のため破れることはないだろうが中で割れたり溢れたりしないよう細心の注意が必要だ。
「それでどうやって帰るの?まさか帰り道がないなんて言わないよね?」
「ちゃんとあるよ、帰り道。というか来た道を戻るだけだよ」
「そう、それじゃあ行きましょう。レティアが待ってる」
こちらとあちらの時間の流れがいくら違うからといってあまり悠長にはしてられない。
頭でわかっていても心が急かせてくるのだ。そうなると精神的にもよくない。
踵を返し、ルディアは元来た道を戻るため足早に歩き始める。
その姿を見て苦笑い気味にジエルもその後に続いた。
ドン、そんな音とともにルディアは横へ押し出された。
龍がいた空間を出る寸前の出来事だ。
最初はロアのいたずらだと思った。勝手に帰ろうとした私への軽い反骨精神だと。
だが違った。
押し出された時、その視界に映ったのは苦悶の表情を浮かべながら後方を見るロアの姿だった。
私を押し出したであろう右手が宙を舞う。鮮血が吹き出しその血が私の頬に当たる。赤く温かいものが頬に触れたのだ。
その時ばかりは世界が遅く見えた。
何が起きたのか。何が起こっているのか。何にも理解できずただただ押された衝撃とその物理的法則に則って横へ突き飛ばされる。
遅く流れる世界の中でルディアは視線をロアと同じように後方へ向ける。
そこにあるべきは龍の亡骸。骸となった龍のみだ。
しかしそこにあったのは身体から突き出した結晶を月光のように光らせ、淡い緑だったその体色を黒銀を混ぜたような深緑へと変貌させた龍である。
体に穴を開けたのに。心臓を消滅させたのに。
そんな言葉が頭の中をこだました。
そうそこにいたのは龍。先ほど倒したはずの龍だ。地に伏したはずの結華の龍ガルバインだ。
「走れ!!!」
そんな言葉とともに世界は加速する。
急速に進み始めた世界に混乱しながらもジエルの発したその言葉の通り走り出す。
出口まで数メートル。しかし結晶が出入り口を封鎖する。
手に黒の残滓を纏わせ結晶に触れようとした時、それは異常なほどまでの力を持ってして弾かれる。まるで磁石が反発するように押し合う力が発生する。
再び結晶の破壊を試みるも見えないない何かに弾かれ叶わない。
目を凝らして見るとそこには波紋があった。何かが波打ち端へ端へと波状する何かがあった。
結界だ。それもついさっき見たものとは比べ物にならないほど強力で強固なもの。
『私は軽んじていた。所詮は下賤で陳腐な下等種族の赤子でしかないと。我々の脅威にはなり得ないと慢心していた。しかしその考えを改めよう。貴様らは我らの脅威と十分になり得る。いやすでに脅威といえよう。油断していたとはいえこの私を一度は死へと追いやった。その事実を誇るがいい。そしてそれを最後の栄華としれ!』
パチン。何かが弾けた音がした。それが空気か魔法かわからない。
しかし直感で感じた。この後起こる最悪の何かを。
私の乏しい想像力では考えようもない恐ろしい何かを。
そしてそれは現実となった。
呻きが聞こえた。小さな呻きだ。それが大きな絶叫へと変わったのはすぐのことだった。
声の主はジエルだった。
年変わらない少年の絶叫が脳髄をかき回すように響く。
その状況はまさに異常だった。いや異常という言葉で片付けていいものか。とにかく異質だったのだ。特異だったのだ。その光景がその状況が。
全身から突き出す銀の結晶。まるで複数の剣が体から溢れ出すように存在している。それは剣山のようだった。
背や胸、腕や足からそれは突き出ている。皮膚を破り、血を流しながら。
恐ろしい光景。もちろんその未知の攻撃も怖い。しかしそれ以上に恐ろしいものがいた。
全身を銀の結晶に蝕まれ、絶叫するほどの激痛に耐えながら、その瞳に闘争心を宿す一人の少年。
彼は今何を見ているのだろう。何を考えているのだろう。
そんなことどんなに考えてもわからないがこれだけは言える。
彼は今日ここで死のうとしている。私を救い、妹を救うために。
それはいつしか見た人たちと重なった。
あの人達と同じ目、同じ香り、同じ雰囲気を感じ取ったのだ。
私たちを救うためにその命を投じた気高く儚い大切な人たちと。
また私のせいで人が死ぬ。また私の前で人が死ぬ。
私が弱いせいで彼を殺してしまう。
そんな考えが脳裏をよぎり、鮮明にそして苛烈に記憶を呼び起こさせる。
ロアが剣の柄を強く握りしめ腰を落とす。
龍もまた頭上に大量の結晶を作り出す。
激突必至。戦闘の機運が高まり切った時流れる静かな時間。虫も息を殺す静寂の時間だ。
そんな中最初に動いたのはロアでも龍でもなくルディアだった。
手に纏った黒の残滓を放つ。
それは攻撃とは言えない無差別的行為。撹乱ともいえようその行動は結晶でできた部屋をやすやすと壊して見せた。
抉り削られ消滅し破壊し崩壊し、しまいには瓦解する。その無差別的攻撃は空間内の均衡を崩し天井が崩落、壁がずれるように落ちてくる。
予想外の行動に龍は困惑する。そう思わず二人が隠れる隙を与えるほどに。
それもそのはずこの限られた空間で彼女の攻撃を無差別的に使用すれば天井や壁が崩れ生き埋めになるのは必至。
龍ならばその程度で死ぬことはないが圧倒的質量と体積を持った結晶片は二人の命を奪うには十分すぎる破壊力を持っている。それにそれを行えば自ら逃げ道を断つことと同義でもある。
刹那の時、踏み出そうとするジエル。それは本能的反射的行動。幾日にも及び繰り返されたきた教育と鍛錬によるもの。隙を決して逃さぬ戦士の行動。
反してルディアはある魔法を酷使する。
「飽和しろ。飛散しろ。拡散しろ。斯くして世界は光を失う。光点消失<黒ノ世界>」
その時世界が光を失った。
正確には光という存在がルディアが行なった大魔法により壊れる。
一瞬、一時、龍が作り出したこの世界から光が消えた。完全なる暗黒。それは全ての生物において等しく。龍やジエル、魔法を使用したルディアも例外じゃない。
しかしルディアは記憶していた。周辺の地形について。
ゆえに一人この暗闇の中を動くことができた。
ジエルと龍、両者ともに五感の一つで視覚を奪われたので迂闊に動くことはできない。そのため容易にジエルの手を掴むことができた。
そして手を引き走り出す。
色のない静寂の中。龍の咆哮が二人の鼓膜を揺らした。
低く大気を震わし体を押し出すような衝撃を持つその咆哮にルディアは思わず走ることをやめそうになる。
それは防衛本能なのだろう。蛙が蛇に睨まれた時体を強張らせるのと同じことだ。
弱肉強食の世界で強者には逆らわないそれが絶対的掟である。それは二大勢力として地上を支配する人間と魔族にも言えることだった。彼らも龍を前にした時その関係は捕食者と被食者へと変貌する。
いかに地上へ栄華を誇ろうと龍の前では等しく餌なのだ。
しかし足は止められない。
ここで足を止めてしまえばどれほど楽か。何も考えず捕食されるのを待てればどれほど楽か。だけど私はまだ生きていたい。
その意思と密かに決めた覚悟だけで足を前に進める。
風切り音が聞こえた。
何かが高速で迫ってくる時の音だ。
そしてその音がルディアの左頬をかすめていった。幸い当たることはなかったが風圧で髪が巻き上がる。バタバタと音を立て震える髪に恐怖を感じた。
あれは龍の攻撃だ。龍が結晶を投げつけてきたのだ。多分二度目はない。この幸運は今回だけだ。二度目は確実に当ててくる。
死が間近に迫る恐怖と生き残ってもあの化け物相手に何かできるのかという不安がルディアの心に抱えた感情を混濁させる。
背中ら風切り音が迫る。心臓が激しく鼓動する。
右に避けるべきかそれとも左に避けるべきか。何度思案しても答えは出ない。予想未来の未来はいつだって死を映し出していた。そしてそれは同時にどんな策を要したところで避けきれないことを示していた。
その時、掴んだはずの左腕が離れていく感覚を光のない視界の中確かに感じていた。
「待って!」そう言おうとした時にはすでにルディアの左手の中には彼の腕はなかったし暗闇の中、彼を探す事もできなかった。
次の瞬間、金属音が響いた。金属とそれに準ずるときに発する独特の音。頬に微かな暖かさを感じる。火花でも飛んだのであろうか。それと同時に体の横を何かが飛んでいくのを感じた。それは当たる事なく横を通過し壁に当たり破裂音のような激しい音とともに砕け散る。
少しして足音が近づいてくるのがわかる。
「もう大丈夫、行こう」
そういってジエルはルディアの手を掴んだ。
自分の元に戻ってきてくれた安心感がルディアの心の一端を独占する。
死なないでよかった。この少年はいつだって自分の命を安く見積もっている。だからこそ何をするかわからない。
「一体、どこに向かってるの?」
ジエルが聞く。
いつの間にか先を走るのはルディアに変わってそれにジエルが追随している。
こんな暗闇の中地形を記憶していないジエルが先陣きって走るのはなかなかに難しい事だ。こうなることは必然と言える。
「多分あと少し」
ルディアはそういうことが精一杯だった。
そしてすぐにそこにすぐたどり着いた。
崩れた結晶に囲われた空間。無差別に攻撃した時に生まれた窪みに存在する龍から完全に死角になっており身を隠すことができる場所だ。
ルディアは手荒にジエルを壁際に座らせる。
そして生々しい何かを持たせる。生暖かく少し弾力のある何かだ。気持ちが悪いと気味が悪いを両立されたような存在だ。
「これ何?」
思わず聞かずにはいられなかった。
視界が奪われた状態で何かをされているのは想像以上に不安を駆り立てる。
「ロアの飛ばされた右腕だよ」
「う……!?」
そんなもの今更どうするのだ。そんな言葉が思わず漏れそうだった。
というかあの暗闇の中わざわざ持ってきたのか。そんな驚きがあった。
びりびり、そんな音が聞こえてくる。何かを破く音。そして次に鼻腔を擽る血の匂いが香ってくる。それは微かな風に乗ってルディアがいる方から漂ってくるものだ。
「何してるの?」
「昔聞いたことがあるの。吸血鬼の血にには他の生物を傷を治す力があるって」
ロアは何も言わなかった。
自分を傷つけてまでこの傷を治そうとしてくれている人にそんな事しないでいいというのはもはや侮辱とそう変わりない行為だと思ったから。
「押さえて」そう言われてジエルは自分の腕を右肩に当てる。突き刺すような鋭い痛みが全身に広がる。
その上から暖かい血が滴り落ちてくる。
それは感覚を失った右腕を伝い地面へポタリポタリと落ちていく。
最初は何を感じることもなかった。しかし次第にそれは淡い熱を持ちすぐに傷を焼くような激痛が走った。それは直接神経を焼くような痛みだった。
最初の方こそ比喩的表現での焼くような痛みだったがそれは程なくして本当に火を放つ。その火を見ることはできないが自分の肩が今、燃えているそういう確信を持てる。
炎が揺れると頬に感じる微かな熱量も変化するからだ。
その激痛に耐えて30秒右腕が自分の体に帰還する。
見えないながらにも手のひらを何度か握りその感覚を確認する。
ルディアは一応ということで破った服の端で傷口となった場所を巻く。
そして言う。
「いいロア、勘違いしないで。この腕はあなたが死ぬために治したわけじゃない。あなたが生きるために治したの」
ロアにとってそれはひどく残酷な言葉に聞こえた。
「生きるため」と言うその言葉の重みは人によって違う。
生きる意味を失い。生きる意思を失った人間にその言葉は大岩を背負うがごとき苦痛を与える。
「あなたは私と地上に帰るの。もしそれができないなら私は今ここで舌を噛み千切って死ぬわ」
「な、何を言って……」
「だから代わりにあなたがこの小瓶をあの子に届けて」
理解が追いつかない。これでも自分は聡い方だと自負している。長い間人の顔色を伺い生きてきたためか他人の考えや感情を受け取るのが得意なのだ。
だけど今、目の前にいる彼女が何を考え言っているのかわからなかった。
この後彼女が何を言う出すかすら検討もつかない。
「あなたの過去はなんとなく予想がつくし、多分私の想像よりも辛い日々を過ごしてきたはず。その過去に同情もするし共感もする。だけど私はあなたがここで死ぬことを認めないし、生きることを放棄することも認めない。殺そうとした相手に言われるのもなんだと思うけどあなたはここでこんな場所で死ぬべき人間じゃない。生きるべきよ。生きて帰るべき」
そう彼はここで死ぬべきではない。生きるべきだ。生きなければならない。生きて返さねばならない。
魔族や人間のしがらみなどなく。一人の人として彼を尊敬し生きて欲しいと思う。自分の信念と正義感のためにここまでできる彼を。
その命を他人に賭け救おうする愚かで儚く汚れた美しき崇高で気高いその意思に。
もしこの世界に彼を見る人がいなくても私は見よう。その価値を認められなくても私が認めよう。その存在を記録されなくても私が記憶しよう。
ロア・アストラングという少年を。
ロアは何も言えなかった。
言葉が出なかった。そんな中で必死に言葉を探したがやはり出なかった。
「生きていていい」そんなこと言われたのは初めてだった。人生で初めてだ。
いつもはそれとは真逆の罵詈雑言ばかり、自分はそんな存在なのだとずっと思っていた。その程度の存在なのだと。
生きる意味のないクズ同然の存在なのだと。
周りは天才ばかり自分には何もできないと自己悲観の観念にとらわれそれに疑問を持たなかった。
それでも怖かった。一人が怖かった。生きているのが怖かった。誰にも求められない。認められないその孤独感が世界から自分一人だけを見放し手放し疎外したように思えた。
自分はなんなのだろう。なぜ生きているだろう。なぜここにいるのだろう。なぜ死なないのだろう。そんな自問自答の日々が続いた。
そんな苦しみの日々がたった一言。世界のほとんどの人間からすればなんら変哲のない一言で救われた気がした。
単純な男だ。
それだけで生きていてもいいんじゃないかと思えるなんて楽観的にもほどがある。
それでもなぜかいい気がした。
それだけでこれだけ生きていく希望が持てるなら。
「ロア……あなたが嫌じゃなければ、私と友達になりましょう」
「え?」
「魔族と人間が友達なんておかしいかもしれないけど、私はあなたと仲良くなりたい。あなたともっと話してみたい。こんな場所で龍をどう殺すかなんていう物騒な話じゃなく。天気の話とか好きな色の話とか。好きな食べ物とか好きな景色とか。そんなたわいのない話を一緒にして見たいの」
ロアは静かに笑った。
「初めてだよ。誰かに友達にならないって聞かれたのは。いつも僕は除け者だったから……本当に僕でいいの?」
「あなたがいいのよ。私も初めての友達だから」
今思えば遊び相手はいっぱいいた。だけど友達はいたことがなかった。
そう思うとどこか気恥ずかしい自分がいた。
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