始まりの戦い
不思議な経験をした。
それは本来、水から上がるという行為を逆さまにした出来事だった。
水面から落ちたのだ。
私たちを引っ張ってきた謎の引力、水面寸前で消滅。その残された加速度と重力にのみが二人を水から落とす。
ロアはその出来事を予期していたように綺麗に着地、ルディアは対照的に尻からスライディングする形での着地となった。
多少の痛みを伴う臀部を撫でながらルディアは立ち上がる。
服は濡れていない。正確には服などの染み込んだ水が天井になる水面へと戻っていく。
そしてその状況を知ると同時に周りの光景に圧巻され感嘆の声を上げる。
それは闘技場ほどある半球状の空間。
壁は7色の水晶でできており半透明なガラスのようだ。所々、壁の水晶とは違う無色透明な結晶が飛び出しており、それがまるで天を刺すように伸びている。そしてある一点を境に水の境界線へと変わり、鏡写しに地面を投影している。
神秘的といえば神秘的。しかし不可解と言えば不可解な世界だった。
「大丈夫?」
ロアが話しかける。
空間に反響したその声が何度もルディアの耳に聞こえてくる。
思わず顔を逸らす。
別に何かやましいことや顔を直視できない理由があったわけではない。ただ反射的に顔をそらしてしまっただけだ。
しかしその行動がロアからすれば機嫌を損ねたように見えたのか、少し負目を感じた様子で口にする。
「ごめんね。先に詳しく説明しておくべきだったね」
その言葉に続けるようにロアは先ほどの化け物について語った。
あれはなんでも空間と空間、境界と境界に住み着く一種の門番だと。
正式な名はなく一般的にも広く知られていない化け物。それを彼の一族は<狭間ノ支配者>と呼ぶらしい。
あの化け物は色々な場所にいていつもこちらとあちらを見ている。しかし干渉はしてこない。どこのものでもない線と線の間に入った者のみに審判を下す。そんな存在らしい。
私は自分に酷く嫌悪感を感じた。
あの時、ロアは私が離れないよう、離れられないよう手を握っていた。それを無理やり振りほどき逃げたのは私だ。
それも湖に入る前、警告を受けていたのにだ。
混乱はしていた。だけど言葉は聞こえていた、理解していた。
手を離すなと言われていたはずなのに離した。あれは私の落ち目だ。そしてその落ち目をしっかりと受け入れ、「ごめん」たったその一言を言えない自分を虚しく感じたんだ。
「さて、そろそろ作戦会議でもしようか」
「え?」
作戦会議、そんな悠長なことをしている暇があるのあるのだろうか?
地上には今のにも命の火が消え入りそうな妹を残し、私は冷静な状態で話せるだろうか?
そんな不安を心の底で抱き、先に進もうとジエルに言いたい。
しかし先ほどの失態があるため、言えずに喉元まででかかった言葉を飲み込む。
だがまるでその光景を見ていたロアはルディアの些細な表情の違いを読み取ったのかこの場所においての時間の進み具合を説明する。
「安心して、ここは異界だ。外の世界とは隔絶されてる。時間の流れも違うし、ここに一ヶ月いようがあっちでは一秒と進まないよ」
「そういうものなの?」
「そういうものなの」
まあここは龍の住処だ。古に生まれ、大戦を生き抜き、世界を見守り続けた最古の魔獣の世界。
私たちの知っている常識や理とは多少誤差があったところで驚きはしない。
ロアが服の胸ポケットから手帳と万年筆を取り出す。
古びた手帳からは少しの魔力の残滓と幾多もの傷が刻まれ、万年筆からは長年使い続けたのか、一部塗装が剥がれインクも掠れている。
ページをめくると書き殴ったような言葉と図、擦れ滲み歪んだ文字がロアの日常を垣間見させる。
所々についた血痕らしき跡が彼の人生の過酷さを物語っているように感じた。
作戦会議は実に短いものだった。
時間にして十分もないだろう。八分ほどだろうか。
基本的に意見を出したのはロアだ。
ルディアには龍との戦闘経験はなく、必然的に龍との戦闘経験があるロアが主体となるのは当たり前のことだった。
もしこの会議というか会話の中で一つ明確な事実をいうのならロアとルディア、二人の相性は非常にいいという事だ。
ロアが出した意見を元にルディアがアイデアを出す。曖昧な部分を正し、細かく修正して、緻密な作戦を作り上げて行くそのさまはまさに相棒と呼ぶにふさわしかった。
一時間ほどだろうか。それほどの時間で一本の作戦を講じた。
あとは実行するのみ、結果は神のみぞ知る。
二人は立った。臆することなく足を前へ踏み出す。
踏み出す足に乗るのは勇気か蛮勇か。どちらにせよこれより死地へ挑む者にあるべきものは敬意のみだ。
そして祈るだけだ。彼らが龍と人間の戦いの歴史としてその命を散らさないことを。
道中道すがら二人はまるでこれより決戦へ挑むような空気を一切感じさせない些細な会話をする。
その会話の中でルディアは聞いた。
「しつこいようで悪いんだけど、何で私たちを助けたの?」
「……さっきも言った通り助けようとした人に助けられるなんて本末転倒でしょ?」
「その言葉が本心じゃないことぐらいわかる。私が聞きたいのはそういうことじゃなくて本当の理由よ」
「あははは、演技力には結構自信あったんだけど」
乾いた笑いでその言葉を濁そうとする。
そしてその言葉にルディアが「わかるわよ。いやってほど見てきたから」と付け加えた。
それは誰のことを言っているのだろうか?妹のことか自分のことか。はたまた自分を取り巻く全てのことか。
「それでどうなのよ、本当の理由は?」
「そうだね……自慢じゃなんだけど僕の家って結構な名家なんだよ。それこそ王族ですら頭の上がらないそんな家系」
「……すごい家系なのね」
「そう、すごい『家系』なの。それで周りには天才しかいなくてね。二歳で魔神級の魔獣を討伐する兄がいたり、五歳で宮廷魔導師になるは無茶苦茶な姉がいたりで、そんな中で生まれた何の才能も持たない凡才がどんな風に扱われるか、まあ、こんな感じ」
そう言ってロアは袖をまくり、腕を見せる。
そこには数々の傷が刻めこまれており、彼の扱いを物語っている。
「酷い……」
自然と言葉が漏れた。
そして言葉を失う。それほどまでに衝撃的で年の近い少年の腕とは思えなかった。
肉のない腕は皮膚が骨とそのいままでの鍛錬でついたであろう筋肉に張り付くようにできており、その肌にも見ただけでその日の夜は悪夢を見てしまいそうなむごたらしい傷があった。
「悪いね。気持ち悪いの見せちゃって」
「いや、え?大丈夫なの?それ?」
先ほどまで戦っていた人間が言えたセリフではないが。
それ言ってやりたかった。そう言うべきだった。そう言わざる得なかった。
そう言った。
ロアは「慣れちゃった」と軽くはにかんで見せた。
その笑顔にルディアは何も言えなかった。
言葉が見当たらない。
自分が、妹が世界一不幸な気でいた。いや今、彼を見るまでは私の世界では確かに私たちが世界一不幸だった。だけどあれを見てしまったら、あの腕を見てしまったらそう思えなくなった。
彼がどんな人生を歩んできたのか考えたくもない。筆舌したくない。思考を放棄するべきだ。
もし私が彼の立場なら今も生きていられるだろうか。
いや無理だろう。私が今もこうして生きて入れているのはレティアの存在があったからだ。彼女が私をここにこの世界に止めてくれている。
だからあの時、彼女を失いそうになった時、ひどく動揺した。彼女を失った世界を想像し恐怖したのだ。
だから私は孤立した彼の悪夢の中では生きていけないだろう。
だって私は弱い。貧弱すぎる。触れただけで壊れるトランプの塔のようだ。
拠り所もなしに明日を望むことは無理だ。
だからこそジエルに尊敬の念が湧いた。
「それで二人を助けた本当の理由だっけ?」
「うん?あ、そうそう、どんな理由なの?」
彼の腕に方に気を取られ肝心なところを忘れていた。
そんな境遇で育ってきた人間が一体どんな理由で私たちを助けたのかより知りたくなった。
「そうだな。強いて言うなら傷跡を残したかったんだと思う。僕はここにいるぞ。ここで生きていたんだぞって。少しでも誰かの記憶に残ってくれたらって」
悲しい理由。まるで自分の人生に肯定して来る人がいなかったような言い方だ。
いや実際にそうなのだろう。
だからこそそんな理由で自分の命を他人のために捧げることができるのだ。
なら、幸せだったら私たちを助けてくれなかったの?そんな言葉が頭の片隅に浮かび、口から出そうになったが、それを聞くにはあまりにも酷だろう。
傲慢というべきか。
今この状況自体が奇跡なのだ。殺そうとした人間に救われ、助けられ、ともに歩いてる。これ以上を望むのは愚かだろう。
「でもどうだろう。僕は性格が悪いからな……もしかしたら君たちを助けて恩を売ってるだけなのかも。こんな美人さんと友達になれたらいいなって」
そう笑うロア。
もしその言葉がお世辞だったとしても照れてしまう。ルディアはウブなのだ。
そしてその言葉を聞いた時、思う。この人はおそらく理由などどうでもいいのだ。と言うか理由などと言う陳腐で些細なものを持ち合わせていない。
ただ自分の信念と意思に則って生きているだけなのだ。
誰かを助けると言うその行動に適当に理由をつけているだけで、彼はただ単純に人を救いだけだ。自分の目の前にいる人を助けたいだけなのだ。
善性と言うべきか。理想の英雄像を見た気分だ。
もしこの人があの時、あの場に、私たちのそばにいてくれたら、どれほど心強かっただろう。友人としてあの場にいてくれたらどれほどの勇気をもらえたのだろう。
もう少しこの人と早く出会っていたらまた別の道を進むことができただろうか。
そんな考えが頭の中に浮かんで消えた。
もう終わったことだ。終わってしまったことだ。
ふと前を進むロアが足を止めた。
自然と落としていた視線を正面へ向ける。
巨像。巨像だ。自然が生んだ奇跡の巨像がそこにはあった。
言ってしまえば単なる巨大な結晶なのだが、それには何か門番的雰囲気を感じざるおえない。
息を飲んだ。
この先に龍がいる直感がそう告げていた。
冷や汗がジワリと滲む。嫌な汗だ。
後悔はない。妹のためにこの命を賭けるとあの時誓った。その覚悟に決して間違いなどない。
しかし怖い。怖いのだ。
未知なるものに挑む。自分よりもはるかに強大で本来なら足も手もでないそんな存在に挑むのだ。恐怖せずして生物とは言えない。
それが動物本来の危機的能力。本能が怖がっているのだ。
息が浅くなり心臓の鼓動が早くなる。
大丈夫、大丈夫といくら言い聞かせても病むことを知らない。
「……行こう」
ロアが静かに優しく背中を叩いた。
その反動で一歩前に出る。
何かが軽くなった。まるで彼が恐怖や自分の弱さを持って行ってくれた感覚だ。
先ゆくロアの背中を追いかけるように足を踏み出した。
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