湖湖と恐ろしい世界
「ありがとう」
目的地へ向かっている途中、ルティアが唐突にそんなことを言う。
その言葉にジエルは驚き、地面に転がっていた小石に足を引っ掛け、倒れそうになる。
「な、何よ。そんなに私が『ありがとう』っていうのは変?」
少し語気を強めていうルティア。
ロアはそんなルティアの顔を見て「どういたしまして」と笑う。
その笑顔にルティアは今更恥ずかしくなったのか、頬を赤く染め視線をそらす。
それは彼女にとっては勇気のいる言葉だっただろう。
彼女たちの過去に何があったかはわからないが、少なからず僕の想像を超える経験をしてきたのだろう。
今までの言動や言葉を聞いていればそんなことは漠然とわかる。
そんな中、今さっき出会った人物。それも魔族と対立する人間に助けを求め、その上、感謝を述べるなんて思考の余地もなく勇気が必要なことだとわかる。
ゆえにロアは彼女の口からそんな言葉聞けたことが純粋に嬉しかった。
信用じゃなくていい。利用されるだけで十分。そんな関係性にも関わらず、聞けたその言葉はいつもの何倍も嬉しく。いつもの何十倍も価値があるものだろう。
そんなことを考えていると森を抜ける。
暗かった世界が月明かりによって照らされる。そしてその月明かりはあるものを照らし出す。
巨大な湖だ。
静かに揺れる水面が月を巨大な鏡のように映し出す。
「龍の住処だ」
「ここが……」
思わず息を飲む。
この湖にはそれだけの何かがある。
どうやら湖自体が龍の魔力を吸収し周囲を異界化させているようだ。そのせいで見たこともない植生が存在している。
そしてそれと同時に龍が住まう場所との連絡橋となっているようだ。
ロアが手を差し出す。
「何?」
ルディアはその手を怪訝な視線で見てくる。
まあ突然手を差し伸べられたらその反応が正しい気もする。
「握って」
「いやよ!」
全力で拒否するルディア。
しかしこれはロアが悪い。どんな人間であっても異性から突然手を握ってと言われれば君の悪いものだ。
「気持ち悪い」など直球な暴言が飛んでこなかっただけ音声である。
だが女性との関わりはもちろん人との関わり自体薄いロアは真剣な視線でルディアを見つめる。
その視線に気圧されてかルディアがロアの手に自分の手を置く。
ロアはその手を握り、引き寄せる。
体と体がゼロ距離でくっつく。
腰に手を回し、耳元で囁くように話し始める。
「いい、今から湖に飛び込む」
「え!?」
混乱極まれり。
ルディアにとってすれば今のこの状況、ロアに抱きつかれ耳元で言葉を囁かれる恥ずかしい状況、冷静に言葉を聞けるわけがない。
「目を閉じて、少し苦しいけど我慢してね」
「ちょ、ちょっと!」
「あと湖の中では絶対、手を離さないで。もし離したら無限に続く亜空間に取り残されて永遠に彷徨うことになるから」
「ど、どういうことよ!?」
「それじゃあ、しっかり掴まっててね!」
ロアはルディアの言葉を聞かず、湖に向かって落ちる。
ルディアが思わずロアの背中に手を回し強く抱きしめる。吸血鬼の握力で抱きしめられたロアは鎖骨と背骨に嫌な音を鳴らしながら25mの無重力体験を感じる。
空中でロアが姿勢を変え、下になる形で着水。
深い湖へと沈んでいく。
少しずつ二人を水圧が潰していく。
うねり、そんな音が聞こえた気がした。耳からまるで定型の持たない触手のようなものが入って来てるような感覚。体の中を這いずり回り脳を侵すそんな嫌な感触が残る。
目を開ける。
水がしみて視界がぼやけるが次第に鮮明になっていく。
そしてそんな視界に映り込んだのは一匹の蛸。正確には無数の触手で形成された化け物だった。
驚きのあまりルディアは空気を吐き出す。気泡が上ではなく下に向かって落ちていく。
その光景を見たとき光が下から差し込んでいることに気づく。
ああ、ここはすでに異界なんだ。そんな感想が溢れる。
化け物の触手が体にまとわりつく。水のはずなのに粘度が高く感じるその液体に不透明な嫌悪感を感じながら、ふとジエルの方を見る。
次の瞬間、全身を恐怖が包む。
白い、白い、白い、骨。
肉はなく。
皮膚はなく。
内臓もない。白骨体。
もはやロアの面影などなかった。
そこには命というものを失った人の形をした骨があっただけだ。
正気を失いそうになった。
呼吸が乱れる。
ルディアは冷静さを失いまるでその骨から逃げるように暴れる。
おおよそ腹があったとされる部分に蹴りを入れ、必死の抵抗をする。
ロアだった骨はまるで私を水底へと誘うように襲ってくる。
体を拗らせ骨を蹴り、やっとの思いで骨の呪縛から解放され、水中を漂う。
刹那的に触手がルディアの手足を拘束する。
体を縛り、口を覆い、身動きのできない状態へと変える。
瞬き、一瞬の暗転がある事実を告げる。
そこには必死に手を伸ばしこちらを見ているジエルの姿。白骨体でも不気味な骨でもなく湖に入る前に見たロアその姿のままだった。
水中で声は聞こえないが何かを必死に叫んでる気がした。
視界が反転、逆さまになったルディアはそれを見る。
化け物の瞳がまるで心の底を見るようにこちらを眺めている。
頭にかかった霧が一気に晴れるのを感じた。
私は何を見ていたのだろう。先ほど必死に逃れようとしていたあの白骨体はロアだった。ロア自身だった。
一体いつ、それがルディアを魅入ったのだろう。
幻覚だ。幻覚を見せられていた。幻覚を見ていた。
あの時すでに私は正気を失っていた。ロアはそれに気づき、逃げようとする私を必死に止めようとしていたのだ。
しかし気づいた時にはすでに遅い。
体はどんどんどんどん触手の化け物の方へ向かっていく。
化け物の上を何かが歩いているのを見た。
顔のない人型の影。その表情は苦痛、苦悶、後悔、恐怖だ。
男が女を犯し、女が男を犯す。子供が親を殺し、親が子供を殺す。死体が肉を貪り、肉が死体を捕食する。
そんな地獄を化け物の上に見たのだ。
ルディアはすぐに動く。
もがき、蠢き、逃げようと。
だが吸血鬼の超人的力を持ってしても触手は引きちぎるどころか締め付けが強くなるばかり、悪足掻きすら虚しいものへと変わるだけ。
終わりを感じた。
それでも抵抗するが力の差は歴然だった。
化け物との距離が寸前になった時、ルディアは諦めた。
それは光よりも眩しい一筋の流星のようなものだった。
儚く短い、一瞬で過ぎ去る感動と希望の光。
どんな暗闇だろうと照らしてくれるあかりだ。
その姿を見たときなぜか安心感を感じた。あるはずもない安息と安堵を心の奥底で本人も気づかぬうちに感じたのだ。
その銀燭の剣が触手を切り落とす。
手足を解放されたルディアはとっさにロアの方へ手を伸ばす。それに応じるかのようにロアも手を掴み、自分の元へ手繰り寄せる。
自分の獲物を奪われてか、それとも自分の触手を切られてか、激怒した触手の化け物は水をかき分けるようにドリル状に回転した触手を亜音速で伸ばす。
無数の回転した触手は次第に湖の底に渦を作り出す。
予測できない不規則な渦が二人を飲み込み、視界と行動範囲を狭める。
そこを四方から襲う触手。
ロアは自分たちに当たる触手だけを弾きながら、また重力に従って水底へと落ちていく。
五分の死闘、はたまた三十秒の激闘だったかもしれない。
しかし確実に言える事実が一つある。
世界が揺らぐある一点、理を超えた境界線を超えた時、触手は追ってこなくなった。
それは二人が龍の支配域に入ったことを意味する。
下から光が差す。
そして重力ではない何か別の力で急速に加速まるで引っ張られるように光の方へ向かった。
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