四章・道を繋ぐもの(1)
『ママ、私達のところへ戻って来て……また一緒に暮らそう』
その言葉に胸を締めつけられる。
けれど答えは決まっている。
差し出された右手を見つめ、私は首を横に振った。
「駄目よミナ……まだ、駄目なの」
『どうして? どうしてなの? どうして!!』
癇癪を起こしたミナは右手を振り上げ、私達に向かって振り下ろす。私は咄嗟にモミジを動かし、その攻撃を避けた。アルトライン達も辛うじてかわす。
彼女が動いたことにより、その後方に亀裂が姿を現した。
あれは──?
「そうか、さっきのはそういうことだったのね! ありがとう、あなた達!!」
突然ネットワークとの接続が回復して≪生命≫の力を使うことが出来たのは四方の神々が界球器を覆う“呪い”を切り裂いてくれたからだったのです。
『あの程度の支援しか出来ず、すまない……!!』
身の丈ほどもある巨大な剣を構え、悔しそうに呻くアルトライン。いいえ十分。貴方達がここを守ってくれていたおかげで、まだ私達の世界は残っています。でなければさらに大量の魔素の侵入を許し、とうの昔に滅亡してしまっていたはず。
感謝しつつ決意を固める。
「中へ戻ります!! あなた達もついて来なさい!!」
『しかしスズラン様、それでは界壁の守りが──』
「大丈夫よケナセネリカ、私を信じなさい。いざとなれば封印隔壁を発動します」
『えっ……』
『何故、あれのことを!?』
『スズラン、君は……まさか……』
四方の神々は今の一言で気付いたみたい。
ふふ、ずいぶん時間がかかったわね。
「モミジ、戻るわよ!!」
『はい』
魔素に満ちた空間の中を旋回し先程通って来た界壁の穴を目指すモミジ。当然ミナの影は追撃をかけて来ました。
『逃がさない……ママは、ママは私のだ! 返せ、返せ、返せ返せ返せっ!!』
右腕を伸ばす彼女。伸ばした指先が届かないと悟るや今度は無数の触手を繰り出す。
その時、人影が一つ船尾に向かって走り出し、ホウキを召喚しました。
「ナスベリさん!?」
「今度は失敗しない!」
そう宣言した彼女は甲板を蹴り、空中へ身を躍らせる。
直後、触手が眼前に迫りました。
虚空に浮かんだナスベリの目は、だが眼前の敵でなく彼女と自分の間に浮かぶ別の姿を見つめていた。千年近い歳月、脅威から世界を守り続けた永遠の五歳児。その偉大な背中が瞳に焼き付いている。
森妃の魔女アイビー。
(信じろ私! あの人が信じてくれた、私を信じろ!!)
前回は失敗した。情報神の影に対し記憶凍結魔法を使おうとして、迂闊にも相手の記憶を参照してしまった。脳に流れ込んで来た膨大な情報を処理し切れず危うくこちらが廃人になるところだった。
けれど人は成長する。過ちに学び問題点を克服する。
(私達は失敗を糧に、創意工夫を繰り返す!!)
──かつて大きな過ちを犯し、自身の全ての記憶を凍らせ心までも閉ざした彼女に対し、アイビーは優しく語りかけてくれた。
『辛かったわね……とても悲しいものを見たわね。でも、それでも人は立ち上がる。立ちたいという意志さえあれば、必ず体は応えてくれる。今の貴女は、そのために休んでいるだけ。
私は何人も見て来た。倒れても、挫けても、やっぱり立ち上がってきた人の姿を。失敗を糧に未来を掴んだ若者達を。
だからナスベリ、貴方も自分を信じてあげて。私はそうする。貴女の可能性をこれから先も信じ続ける。必ず、あの時みたいに前を向いて歩いて行ける。お父さんとお母さんを追いかけていた時の貴女は、けっして諦めない目をしていたもの』
彼女がいなければ今の自分はいない。そんな恩師が全身全霊をかけて与えてくれたこのチャンスを今度は絶対逃がさない。
スズランを狙う触手が迫って来た。小さな彼女を捕えるため細く長く伸ばされたその中の一本を、すれ違いざまに右手で叩き、同時に叫ぶ。
「凍れ!!」
解決法は単純。記憶を参照することでダメージを受けてしまうなら、その手順を省けばいい。ただし、この魔法は昔の自分が無意識に生み出してしまったもの。仕組みを解明し不必要な手順を省くためには改めて自己を見直す必要があった。
アイビーの下で学んだ知識と技術を総動員し、記憶を凍らせる元凶となった辛い記憶を何度も掘り返して、どうしてどうやってこの魔法を創ったのか完全に把握したことにより、ようやくそれは成し遂げられた。
『えっ!?』
ミナの影が動揺する。触手の先端から今の自分を形成する魔素が凄まじい速度で凍っていく。ただ凍っているのではなく、魔素の中に蓄えられた記憶が凍る。目に見える表面的な凍結は、その副産物に過ぎない。
(伯母さんの言っていた魔法? 私達には使えないんじゃないの!?)
対象の記憶を参照せず無差別に凍結させる新たな記憶凍結魔法は凄まじい速さで伝播し効果範囲を拡げ続けた。
止まらない。この術は危険だ!
直感した彼女は自らの意志で右肩から先を切断する。直後、切り離された腕全体が凍結して砕け散った。氷片が溶け銀色の霧が漏れ出すも、それはもはや記憶を消去された無垢な状態の魔素。
瞬間、彼女は認識を改める。あの魔女、あの黒髪の女は自分達“記憶災害”にとっての天敵だと。この世界には赤い女の主以外にもさらなるイレギュラーが存在したのだ。
彼女が新たな脅威に戦慄している間、船は再び界壁の通過を果たした。甲板から跳んだナスベリもホウキを操り無事船上へ帰還する。スズランは苦笑い。
「無茶しますね」
「スズちゃんに言われたくない!」
直後、アルトライン達も姿を消した。転移によって中へ逃げ込んだらしい。
残されたミナは怒りのあまり身悶える。
『ママを……よくも……っ』
拳を握り、肩を震わせ、憎悪の眼差しを目の前の球体に注いだ。しかし、ふと冷静さを取り戻すと、鼻で笑う。
ちっぽけな世界。その気になったら簡単に壊せてしまう。
でも、そうはしない。あくまで母はここで決着をつけたいらしい。だったらそれでいい。付き合ってあげよう。全てを終わらせる前の一時の戯れ。最後の親子喧嘩だ。
『あの女の力には驚かされたけど、所詮は人間一人……』
巨大な彼女の黒い肉体から次々に怪物が生み出される。これまで索敵に使って来た雑魚だけではない。この身を構成する魔素の中に蓄えられていたありとあらゆる“獣”の記憶を再現してやった。多少砕かれた程度がなんだ。魔素など無尽蔵に補充できる。
お前達に勝ち目なんて無い。それを今から教えてやる。
『圧し潰せ。圧倒的な物量と絶対的な力で! あんな奴等いらない。私達に生み出された存在のくせに、逆らうならいらない! ママだけでいい。ママと私達以外何もかも消えて無くなってしまえ!』
押し殺していた怒りを再び噴出させ、彼女は怪物達と共に進撃した。
私達が界壁の中へ戻ると翼を広げたサルビアさんも帰って来ました。甲板上に降り立つなり安心した様子で駆け寄って来る彼女。
「スズラン様、ご無事でしたか!」
「ちょっ、サルビアさんこそ、その怪我は!?」
目を覆いたくなるほどの重傷。普通の人間なら確実に致命傷。でも彼女は傷口を焼いて血を止めたようです。なんて雑な処置を。
「破壊神の影との戦いで、大分やられてしまいました。倒すことは出来たのですが」
「倒せたんですか……」
予想以上に頼もしい助っ人ですね。
(カイを相手に、これだけで済むなんて)
相性が良かったのかもしれません。でも喜んでばかりはいられない。彼等はすぐに復活します。しかも今は最初より倒し難くなっているはず。
(同じ相手と複数回戦ってわかった……魔素でも始原七柱の完全な再現は不可能。でも影を倒せば倒すほど、彼等は“最適化”が進み、少しずつオリジナルに近付いて行く)
戦闘経験が蓄積され、その記憶がオリジナルの彼等の記憶を喚起してしまうんだと思います。だから復活する度に、より本物に近く、強く、賢くなっていく。
「……」
私は両手を何回か握ったり開いたりして悔しさを吐露しました。
「すいません。例の力が使えたら、治してさしあげられたのですが」
「僕もだ……やっぱり、すぐに閉じちゃう……」
私も雨楽さんも再び≪生命≫の力を使えなくなっていました。界球器の亀裂を塞がれてしまったのでしょう。
やはり、あの術を使うしかありませんね……。
「お気になさらず、自前の再生能力がありますので、この程度なら数分で完治します」
「なるほど、流石はナデシコさんの娘」
「恐れ入ります」
恭しく会釈するサルビアさん。痛々しくはありますけれど、本人が気にしていないならこちらもひとまず見守りましょう。
そう考えた時、アルトライン達も周囲に転移してきました。
『これは……』
『なんということだ』
『惨いことを』
大陸を破壊され海まで干上がった光景を見下ろし、顔をしかめる彼等。
一方、私は思い出します。そうでした、これも確認しておかないと。
「ストナタリオ、環境制御機能は生きていますか?」
『はい、まだ正常に稼働を続けています』
「なら、今しばらくは保ちますね」
ここまで深刻なダメージを受けてしまった以上、この世界の人々が以前と同じ暮らしを取り戻すことは叶いません。辛うじて無事な魔法使いの森と周辺の土地だけで、どうにか生きていくしかありません。それも何年保つことか。人口が増え続ければ遠からず破綻します。出産の抑制で調整を行ったとしても、やはり一時しのぎにしかなりません。
環境制御システムも世界がこのような状態ではいつか必ず致命的な不具合を生じさせる。戦いに勝てたところで、ここはどのみち地獄と化すのです。
(今のままなら、ですが)
モミジを着陸させる私。そして魔力障壁で浮遊し他の皆より一足先に大地へ降り立つと、そこから彼を見上げて呼びかけます。
「アルトライン」
『はい』
「モモハルに伝えて、時は来たと」
『畏まりました』
お披露目の時のように深く頭を垂れるアルトライン。他の二柱も彼に倣います。すると数秒後、私達の背後に聖域に残っていた人々が出現しました。
「えっ!?」
「こ、ここは……本当に一瞬で移動したのか?」
「スズ!!」
驚く人々の中から真っ先に飛び出して来たのは、もちろんモモハル。
「みんな来たよ!」
「ありがとう」
皆さん彼の願望実現能力で転移して来たのです。
(でも、予定より人数が多い)
たしか避難民の三割は不参加だったはず。でも明らかにそれ以上。彼等の疲れ切った顔や傷付いた姿から察するに、聖域でも敵が現れていたようです。逃げるような形で生存者全員がここへやって来てしまったのでしょう。
「大変だったようですね、ユリさん……」
「なに……民には被害を、出させませんでした……」
額に巻いた包帯の下で哀し気に笑う彼女。戦う力を持たない人々を守るため、兵士にはかなりの数の犠牲が出たようです。もしかしてと思い、改めて顔触れを見渡すとナガノの軍人さん達の姿はどこにもありませんでした。
最後まで、戦い抜いたんですね。
命からがら逃げて来た人々は、跪く神々を見て再度驚きます。
「あ、あれは、あの時の……!」
「アルトライン様、ストナタリオ様、ケナセネリカ様だ!!」
「四方の神々も我々と共に戦ってくれるのか!」
一瞬その事実に喜び、沸き立つ彼等。
でも、すぐに気が付きました。神々もまた傷付き、血を流している事実に。
「お母さん……あんな大きい神様達でも、勝てないの……?」
小さな子供の声。その問いかけに母親は答えられず、ただ坊やの体を抱きしめ固く瞼を閉ざします。
「怖くない……怖くないわよ。神様達も、神子のお二人もいらっしゃるからね……」
震えています。無理もありません、こんな状況ですもの。
数え切れないほど繰り返されて来たのでしょう。並行世界や界球器が滅ぶたびに、あの親子のような会話が。諦め、俯き、あるいは空虚な眼差しで空を見上げ、祈る行為が。
でも──
「安心しなさい、そこの君」
代わりに私が答えました。皆の方へ振り返り、優しく微笑みかけます。
ところがその時、逆に人々の表情は恐怖で凍り付きました。視線は私でなくさらにその向こうへ注がれている。
「ああっ!!」
空の穴から数え切れないほどの怪物達が侵入して来ました。
いいえ、それどころか腕が穴を押し拡げ、界壁を割り砕き、強引に上半身を滑り込ませました。
『アハハハハハハ、待ってよママ! かくれんぼなんてつまらない!! ほら、もう見つけちゃったよ!! どこへ行ったって逃げられない、隠れられないんだってば!!』
頭部だけでアルトライン達の倍以上の巨体。それが“崩壊の呪い”の本体。
人々の脳裏には、この言葉が浮かんだでしょう。
絶望。
それでもやはり、私は笑みを崩しません。
「たしかに恐ろしいですね。けれど、心配いりませんよ」
絶望があれば希望もあります。自分で言うのもなんですが幸いなことに、ここには私がいるのです。
「スズラン……?」
「スズちゃん」
「スズラン、さん……」
「もっ、もしかして」
船から降りて来たオトギリ達が私の横に並びました。
雨楽さんが慌てます。
「あの術を使うの? でも、昨日あの術は諸刃の剣だって自分で」
「ええ、その通りです」
一つ疑問でした。これまで千年近く魔素の侵入を拒み続けた界壁が何故先日の戦いでは外から強引に打ち破られたのか。ミナの影が本気を出したというだけでは到底説明が付きません。それだけで崩れるほど脆い壁ではないのです、あれは。
──原因は私。これまでの人生で五回もソルク・ラサを使ってしまったからです。社長にあれだけ言われたのに失念していました。あの術は結界に悪影響を与える。だから界壁、つまり時空障壁に綻びが生じ、そこを敵に突かれたのだと今さらになって気が付きました。
もう一度あの術を使ったら今度こそ完全にこの世界を包む壁は崩壊するでしょう。それどころか界球器そのものの崩壊が早まることになりかねません。残り少ない並行世界まで巻き込んでの壮絶な自滅。
それでも、手はこれしか残されていません。いえ、違います。これだけが唯一この世界も他の全ての世界も救える選択肢なのです。
まったく、なんて不自由な。この“最悪の魔女”ともあろうものが不甲斐ない。
「とはいえ、たった一つでも、私の意志で選ぶことには変わりませんわ」
私は右手を掲げました。人差し指だけピンと立て、この指とまれと言うように。
ゲッケイと戦った時も同じことをしましたね。でも今回は魅了の魔法じゃない。これは目印。ちゃんと見つけてくださいよ。
「スズ……」
「スズちゃん……」
村の皆は私の表情から何かを感じ取ったようです。昨日、自分がヒメツルだと明かした時と同じ顔だと思ったのでしょう。
違うんです。嘘をついてたんじゃありません。
やっと思い出せただけ。
「皆、聞いてください。私の名前を」
「名前?」
「スズラン様、では……?」
眉をひそめる人々。
微笑みながら言葉を続ける私。
「スズラン……そうです、それが私の名前。そして、ヒメツルも私の名前」
「えっ……?」
「ヒメ……って、最悪の魔女?」
「どういうこと、スズラン様はヒメツルの娘だって……」
「スズラン!?」
このタイミングで何を言い出すのかと狼狽えるルドベキア様。その視線の先で私は迫り来る怪物達を背に、はにかみます。
「もう一つあるんです」
そう、私の三つ目の名前。
いえ、最初の名前。
それは──
「マリア・ウィンゲイト。それが私のかつての名。神子ではありません。私が彼女。この世界を創造した女神の魂を宿す、彼女の生まれ変わりです」
とうとうそれを思い出した私は、呆気に取られている皆から視線を外し、敵の方へ振り返りつつ唱えました。
「ソルク・ラサ!」
今回は敵ではなく自分を中心にして発動させます。空に現れた巨大な魔方陣から上下に青い光が伸び、いつも通り天を貫く柱に。
光は周囲の者達も飲み込みました。聖域から転移してきた人々と私達に迫りつつあった怪物の群れを。
怪物達だけが分解され、次の瞬間、人々の耳に聞き覚えの無い声が届きます。
『皆様……レインボウ・ネットワークへ、ようこそ』