二章・世界の始まり(2)
生まれて初めて酔っ払って眠った夜、私は悲しい夢を見ました。
空を覆う灰色。まだ来るはずの無かった破滅の時。
彼女は自分の子供達を車に乗せ、走り出しました。助手席には双子の姉の姿も。
『ママ、私達、どうなるの?』
『大丈夫、パパがきっと助けてくれる──』
彼女の夫は空を覆った灰色の炎から身を守るための研究をしていました。二人の助手の提案と発見を元に着想を得て画期的な計画を立案したのです。
理論上それで世界を救えるはずでした。けれど、あまりにも破滅の時の訪れが早すぎた。計画に必要な装置はまだ一基だけ。しかも未完成の試作品。だから一か八かの賭け。それでも彼女には、他の選択肢など選べなかった。
ついに地表に到達した“滅火”は何もかもを飲み込んで行く。それに触れたものは完全に消滅し歴史からも消え去ってしまう。直前まで在ったものが無くなり、何だったのかも思い出せず、やがては在ったことさえも忘れてしまう。追いつかれたら自分達もそうなる。虚無に溶ける。
自分はいい。でも子供達は、子供達だけはどうしても助けたい。
追い立てられ恐怖に苛まれながら、どうにかその場所へ到着しました。大学にある彼女の夫の研究室。
直径三メートルの球体がありました。何本ものケーブルで機器に繋がれています。
扉を開き、中の狭い空間に入る。未完成でもこれに賭けるしかない。子供達を真っ先に入れ、姉と夫の二人の助手も入らせました。まだ空間には十分な余裕があります。
『君も早く!』
『うん!』
促されて入り、そして振り返った時──扉が閉ざされました。
『あなた!?』
呼びかけても、声はもう届きません。
代わりにスピーカーから彼の声が響きます。
【この装置を自動で動かすことは出来ないんだ。それに誰か一人“核”となる人間が必要になる。しかも、あの“数式”を記憶している人間でなくてはならない。大森君にも時任さんにも、そんなことは任せられない。君もだマリア。子供達のことを……頼む】
『賢介……』
こんな形で別れることになるとは思わなかった。泣き崩れた彼女、夏流 マリアの服の裾を娘のミナが掴みます。
『ママ……』
その瞬間に思い出した。ああ、そうだ、この子達を産んだ時、いつも同じことを誓った。何が起きても必ず守り抜こうと。だからマリアはミナを、ユウを、カイを抱きしめながら言った。
『カイ、二人を守ってあげて』
『うん』
『ミナ、お兄ちゃんとユウを支えてあげて』
『うん』
『ユウ、二人から離れちゃ駄目よ』
『うん』
『マリア……アタシもいるよ』
『姉さん……』
『先生、俺達も頼って下さい』
『ありがとう、龍道君』
『きっと助かります。夏流先生が造った、この装置を信じて』
『そうね、要さん』
次の瞬間、再びスピーカーから声が響く。
【みんな……愛してる。マリア、僕と出会ってくれてありがとう】
そして衝撃が襲って来た。何か暴力的な力に翻弄される球体。でもそれは装置が効果を発揮している証拠。滅火に飲まれたものはことごとく消滅する。なのに消滅を免れ奔流に押し流されているなら、夫の見つけ出した数式はたしかに自分達を守ってくれている。
ユカリや龍道君、要さんと一緒に子供達を抱きしめ、あらゆる方向から襲い来る衝撃に耐え続けた。ほんの数分の出来事だったけれど、永遠のように長い時間。
夫の予測が間違っていなければ、この後に訪れるのは──
『えっ? な、なにこれ?』
時任 要の声。彼女を見ると全身が藍色に輝いている。
『俺も!?』
大森 龍道は橙色の光。
『母さん……これ、何……?』
『お母さん……』
カイは赤。ユウは緑。
『マリア、これってもしかして』
『ええ、多分そうよ』
夫の数式は、ただ滅火に対する抵抗力を生み出すだけのものじゃない。それを記憶している彼の脳を核とし新しい世界を創り出す。夢物語のような話だけれど、並行世界とすら情報共有が可能な現代、計算上は可能だと結論が出ていた。そして彼は本当に幻想を現実に変えた。
姉は紫、私は青、そしてミナは黄に輝き始める。
『虹の七色だわ……』
姉が気付いたそれの意味を、この時はまだ知らなかった。
しばらくして揺れが収まり、扉が勝手に開く。外に出た私達の前には灰色でなく青い空が広がり、足下にはちっぽけな地面。半径百mも無いような小島。
中心に木が一本生えている。あの葉の形はカエデの木だ。
『なに、ここ……地面の下にも空がある』
『先生、その木は……?』
『彼よ』
要と龍道の疑問に無意識に答えた瞬間、同時に理解できた。自分に与えられた権能が何なのか。
『私は……≪世界≫の神になった』
日本人の賢介が核となったからだろう、八百万の神さながらにこの新世界ではあらゆるものに魂が宿る。精神を統べる者。感情や価値観、すなわち“心”を司る女神。それが今の自分なのだとわかった。
目の前の木から彼の心が伝わって来る。今もまだ夫は自分達“家族”を守るため滅火に抗い続けている。その感情以外の全てを失ってもなお私達を守ってくれている。
この青い空が、浮かぶ小さな大地が、目の前の木が全て彼なのだ。
『賢介……ありがとう』
私達はここで生きていく。彼の心が創り出した新しい世界で、必ず生き抜く。
私は、近付いて来た子供達を再び抱きしめる。
『一緒に頑張ろう。パパが寂しくないように、ここを賑やかな世界にしよう』
『うん……ママこそ、元気出してね。私はママがいてくれれば大丈夫だよ。あっ、それと私は≪創造≫だって。なんでも創れるみたいだから欲しいものがあったら言って!』
ミナもすでに自分の能力を自覚していた。そう、私達は新世界の最初の住民としてそれぞれ異なる権能を与えられている。
精神を司る≪世界≫を。
記憶を司る≪情報≫を。
生物を司る≪生命≫を。
次元を司る≪時空≫を。
変化を司る≪破壊≫を。
存在を司る≪均衡≫を。
万象を司る≪創造≫を。
この時は、まだ知らなかった。彼の愛によって与えられた力が私達を縛りつける呪いに変わるなんて。
その呪いが家族を引き離すことになるなど、思ってもみなかった。
「……」
多分、まだ深夜です。お母様達が隣で眠ってますもの。
目を覚ました私は、今しがた見た夢のせいで、とても悲しく寂しい気持ちになりました。
目の前にショウブの顔があります。この子をだっこしながら寝てたんですね。向こうにお母様がいて、背中には父の寝息とぬくもりを感じます。親子四人、私とショウブが抱き合っているから“川”の字の完成です。
(漢字か……)
この世界では神代文字と呼ばれてしまっているもの。私はどういうわけか簡単に読めるようになりました。おかげでクルクマから魔導書の翻訳を頼まれたりもしましたっけ。
思えば今の生活の始まりもそんな依頼がキッカケでした。あの時、未来予知の魔導書を翻訳していなければ、私の人生はどうなっていたでしょう? 母とも父とも出会うことは無く、ショウブは生まれて来なかったのかもしれません。
弟の体温が熱い。愛しくてたまらない。
私は、この家族を守りたい。
だから受け容れます。
最後の真実を。
そして──
「私の……もう一つの家族を」