九章・星を抱く魔女(1)
「……ふう」
長い髪が風にたなびく。消滅した太陽の代わりに巨大な光球が生み出され頭上で輝いていた。天頂から降り注ぐその光が髪に反射され虹色の色彩を生み出す。
いや違う。今の彼女は髪そのものが虹の光。細い光が重なり風にそよいでいる。
「スズ……?」
突然あの闇が砕かれた後、カタバミ達は気が付けばまた北の大陸があった場所、殺風景な荒野に立っていた。空が割れて降り注いだ闇に飲み込まれた、その時と同じ位置に。
違う場所に現れたのは、たった一人。離れた場所に佇む“彼女”だけ。
空には黒色化した魔素の海。頭上を覆っていた界壁は完全に砕け散った。けれど何か別の力が世界の崩壊を防いでいる。
『おぉ……おぉお……』
『ついに……』
『あぁ……』
周囲には四方の神々の姿もあった。全員がカタバミ達から少し離れた場所に立つ虹色の髪の女性を見つめ、感極まって声を震わせている。
そう、女性だ。明らかに少女ではない。スラリと伸びた長い手足。高い身長。腰に手を当て悠然と佇む大人の女の後ろ姿。
だが、その着ている服は間違い無くスズランのそれと同じ。
彼女はこちらに背を向けたまま、その小さな服を引っ張って嘆息する。
「流石に、これでは窮屈ね」
次の瞬間、一瞬にして別の服と入れ替わった。黒いローブとドレスを組み合わせたかのようないかにも魔女らしい戦闘服に。
「あれって!?」
カタバミとカズラ、レンゲとサザンカが目を見開く。
「あの時の……うちの倉庫に保管してあったはずなのに……」
それはヒメツルがスズランになった時、床に脱ぎ捨てられてしまった服。一瞬でココノ村から取り寄せた? いや、そもそもタキア王国が消し飛んだ時、店ごと塵と化したはず。どうやって──
「さて、皆さん」
そう言って、ようやく振り返る彼女。顔はたしかにスズラン。だが年齢が違う。最悪の魔女ヒメツルでもない。もっとさらに上。彼女が二十代後半まで成長していたら、きっとこうなっていたであろう顔立ち。
「あ、あの顔……」
「はい、間違い無いです」
雨楽と雨音は知っていた、その顔を。
雨龍に見せられた映像データの中で。
「マリア……」
「ウィンゲイト……」
「ええ、これが正真正銘、マリア・ウィンゲイトの私よ」
いつもと違う年齢、いつもと違う口調で肯定する彼女。頭に被っていた大きな三角帽をこちらに向かって投げ、軽い調子で頼む。
「お願い、ここからは手出しをしないで。あの子達とは私が決着を付けたいの」
「だ、大丈夫なの……って、ちがっ、大丈夫なんですかウィンゲイト様!?」
帽子を受け取ったカタバミに、今度は苦笑を返した。
「スズでいいよ、お母さん」
「あっ……」
その笑みを見た瞬間、理解する。あそこにいるのはマリア・ウィンゲイト。けれど同時にスズランなのだと。カタバミは娘が突然自分の母親になってしまったような複雑な心境に陥る。
『ママ……』
マリアの歩んで行く先にはミナの影がいた。最初の時と同じ小さな姿。しかしその周囲には倒したはずの残り五柱の影までも復活して待ち構えている。
「……くうっ」
「やめなされ、ミツマタ殿」
戦いたくてウズウズしている狂戦士をハナズが止めた。ミツマタは残念そうに口をへの字に曲げ、直後にヘッと笑う。
「わかっとる。ありゃあ、手を出しちゃいかんケンカじゃ」
──誰もがそう思った。六対一の圧倒的に不利な戦い。それでもけっして手を貸してはいけないのだと直感した。
「スズは勝つよ」
「予知?」
アサガオの問いかけにモモハルは頭を振る。アルトラインより上位の神々同士の戦いに予知など働かない。
それでも信じる。
「勝つんだ」
「うん」
アサガオも信じることにした。誰もが信じて見守った。
『ママ……どうしても、私達と一緒に来てはくれないの?』
「ミナ、そうじゃない。私は──」
言い終わる前に生命神の影が飛びかかって来た。さらに背後に時間神の影まで転移して来る。
だがマリアは予想外に流麗な身のこなしで二人の攻撃を回避すると、両手で彼等の胸を貫いた。心臓の位置を。
「龍道君」
『あ、あ……』
「要さん」
『せん、せい……』
「あの子達と一緒にいてくれて……ありがとう」
崩壊する二つの影。その肉体を構成していた魔素は拡散するより早くマリアの中へ吸い込まれる。
「な、なんだ今の動き……」
「スズちゃん、あんな体術は使えないはず」
「マリア様の記憶の賜物か」
「長生きしたもの、武術の一つや二つ極めるわよ」
背後からの声にくすりと笑いつつ、またミナの影との間合いを詰める彼女。その歩みが数歩進んだ時点で再び停まる。
『……』
「まったく、いつからそんな悪戯っ子になったの? ユウ」
『マリア……!』
均衡の力で縛られたマリアの前に続けて情報神の影が立ちはだかった。思い返せば彼女だけは、姉の現身であるこの影だけは最初から敵意を剥き出しにしていた。
「怒っているのね、姉さん。私が子供達を置いて行ったから」
『マリア……マリア……!!』
「姉さんは、うちの子達を可愛がってくれていたものね。特にユウを」
ユカリ・ウィンゲイトは諦めずに研究を重ねていた。家族の苦しみを終わらせる方法を、マリアとは別のアプローチで探し続けた。
自分はそんな彼女を信じてやれず裏切ったのだ。子供達まで置き去りにして双子の姉に責任を押し付けた。憎まれてしまって当然。
『マリア!!』
正面から向かって来る姉の影。マリアは全身から青い光を放ち、均衡の力を押し退けて束縛を脱する。
「でもね、姉さん」
『ッ!?』
手刀を受け流し、蹴りを受け止める。神になってからの時の大半を研究に費やした姉と比べれば体術では自分に若干の分がある。
『グッ、ウッ……!!』
「怒りをぶつけるなら私だけにして。今を生きている命、昔の私達のように、ただ幸せに生きようと願っている人達を傷付けないで」
肘を腹に打ち込む。間髪入れず掌底で顎をカチ上げる。そして両の手の平を重ね心臓の上から体内に“力”を打ち込む。踏み込んだ足が地面を砕き、そこにクレーターを作った。神と神の戦闘に耐えられるよう造ったこの世界でも、やはり本気を出せばたやすく壊れる。ここではまだ試作段階だったのだから仕方が無い。
『……ドウ、シて?』
崩壊を始める姉の影。やはり拡散した魔素はマリアの体内に吸い込まれて行く。けれど完全に崩れる前に彼女は両手を伸ばして来た。
マリアは回避も防御もしない。その必要は無いとわかっている。
『どうして相談してくれなかったの? ちゃんと頼ってよ……双子でも、アタシのほうが、お姉ちゃん……なん、だ……から……』
マリアを抱き寄せ、そう言った瞬間、姉の影は完全に塵と化した。
「そうだね。私達は、もっと話し合うべきだった」
ごめんねと謝ってから歯を食い縛り、涙を堪え、顔を上げるマリア。目の前には彼女の最初の子が、破壊神カイが妹と弟を守るべく立ちはだかっていた。
“大きな男の子ですよ、マリアさん”
──遠い昔、初めての出産の記憶が蘇る。難産だった。後の二人は楽に生まれて来てくれたのに、この子にだけは酷く苦戦した。
「あなたは本当に大きかったからね、カイ」
今でもあれは自分の人生の中で最も苦しくて、嬉しかった瞬間。
「あなたが生まれた時、何があっても守ろうと決めたの」
『……』
聞く耳持たず間合いを詰める破壊神の影。赤光を帯びた拳が、手刀が、蹴りが、ほんの少し掠めるだけでマリアの皮膚を切り裂き、肉を抉り、血を飛び散らせる。
でも、そんな一撃一撃が思い出させてくれた。この子の本当の姿を。
「小さい頃から、スポーツが好きで……」
小学生の時は野球。
「私と、あの人の子だとは思えないくらい活発で……」
中学校ではバスケ。
「いつも、洗濯物の半分はあなたの分で……」
高校では、どうなったんだろう?
あんなことが無ければ、この子はどんな人生を歩んだんだろう?
わからない。そんな未来は訪れなかったから。
でも、それでも一つ確かなことがある。
「どんな時もカイ、あなたは必ずミナとユウを優先した。私達の帰りが遅い時には部活を休んでまで面倒見てくれたわね。忙しい私達の代わりに遊びに連れて行ってくれることも多かった。だから二人とも、あなたが大好きだった」
『!』
貫手がマリアの心臓を捉えた。
「スズちゃん!?」
「ウィンゲイト様……!?」
「──でも」
マリアは心臓に指先が達する寸前で腕を掴み、止めている。
「もう、いいのよ。あなたばかりが頑張らなくても、もう、いいの……あなたは、十分にあの子達のお兄ちゃんをしてくれた。これからは、私の番……」
『……』
カイの影は血でぬめるそれを強引に両手の間から引き抜く。そして動けずにいる彼女に向かって振り被り──
『オレは自分で選んだんだ。重荷に感じていたわけじゃない』
そう言って、結局何もせず腕を下ろした。
『前の世界が滅びる時、母さんに言われた言葉は忘れていない。でも、あの時の母さんの言葉とは関係無いんだ。オレが自分の意志でミナとユウを守り続けた。それだけの話なんだよ。オレは単にアイツらの良い兄貴でいたかった』
「そう……」
『だから、これからも』
「わかってる……ありがとう、カイ」
『……』
何かに納得したらしく、小さく頷くと彼は勝手に崩壊を始めた。マリアの中に吸収されながら一言だけ言い残す。
『オレも……オレ達を産んでくれて、ありがとう……』
「……うん」
堪えていたのに涙が零れた。
血塗れの体で立ち上がったマリアの前には、まだユウの影が立っている。でもこの子に危険は無い。
「ユウ、お母さんと来てくれる?」
『……』
やはり頷いて自分から吸収される彼。ユウは、本物の息子は長く続く苦しみに耐えられなかった。誰より早く限界を迎え、それを見ていられなかったカイにより心を破壊された。だからその後のユウを模したこの影にも自我らしい自我など存在しない。敵意には敵意を、好意には好意を返すだけの自動的に動く存在。
カイは同じ方法で他の五人の精神も破壊しようと試みてくれたが、上手くいかなかった。成功したのはユウだけ。そして、それも永遠ではないことを知っていた。不完全な滅火に消滅させられたものと同じ。何度壊したとしても、いつか過去や並行軸の情報により補完され元通りに戻ってしまう。
だからカイが完全な滅火に救いを求めたのは当然の結果だった。自分の力では絶対に妹と弟を救うことは出来ないのだと、あの時、思い知ってしまったのだから。
『……どうして?』
──その声に振り返り、マリアの青い瞳が見つめた先。幼い少女の影が荒野の中で立ち竦み、声を震わせていた。
『どうしてみんな、私を置いて行くの?』
涙は流れていない。あの身体にそんな機能は無い。けれど彼女は泣いている。心を司る神だから、それがわかるのではない。
母親だからだ。
「ミナ」
『来ないで!!』
高圧の魔力噴射。吹き飛ばされ大きく後退する。
それでもマリアは再び近付いて行く。
『もう、ママもいらない! 私だけでいい! そしたら、もう、もう──!!』
誰にも置き去りにされないから。
『消えて! ママも、兄さんも、ユウも、誰も彼も消えて無くなればいい!!』
魔力弾の雨が放たれる。それを障壁で防ぎつつ一気に懐へ飛び込む。
直後、ミナの影の全身から銀の光が溢れ出した。またあれをやるつもりだ。この世界を滅茶苦茶にした攻撃を。
「ミナ!」
『ママなんか、死んじゃえ!!』
ミナは魔素を放出した。
それで全ては無に帰すはずだった。
この世界は消えて無くなり彼女の母も消滅する。輪廻の輪に還り、いつかどこかの誰かに転生する。
阻止するには、その前に自分を倒せばいい。
それで良かった。恨んでも憎んでも、それでもやっぱり、自分はこの人のことが大好きだから。最愛の母の手にかかって消えられたなら、この偽りの命にも多少は意味があったのだと思えたはず。
けれど──
『え……?』
「辛かったわね……ミナ」
マリアはミナを攻撃せず、ただ、抱きしめていた。
「本当のあなた達はもう、ゲルニカの手で次の道へ歩んで行った……なのに、あなた達は取り残されてしまった。始原七柱と呼ばれた私達の絶望……怒り……そんなものばかりを押し付けられて、世界を滅ぼしながら彷徨う存在になった」
優しく、その手で頭を撫でる。ただの黒い輪郭のように見えて、たしかにそこには柔らかな髪の感触がある。
懐かしい。匂いまでもが、たしかに魔素によって再現されていた。
「辛くて……悲しかったでしょう……“自分自身”にまで置き去りにされるのは……」
『マ、マ……』
その時やっとミナは気が付く。自分はずっと母の言葉を遮り、耳を傾けようとしていなかったのだと。母はきっと、最初からこうするつもりでいたのに。
もう一度、我が子を抱きしめたかった。
この人は、だから戻って来てくれた。
そして何故、放出したはずの大量の魔素が消えたのかも知った。
『あ、ああ……待って、やめて、それは駄目! それを吸い込んじゃ駄目! その魔素は毒なの!! 私が毒にしてしまったの!!』
「心配してくれるのね……優しい子」
マリアは“娘”の背中を軽く叩き「大丈夫よ」と答える。すると、その体が橙色の光に包まれた。
『ネットワーク……じゃない。これは、龍道さん……?』
まだレインボウ・ネットワークとの接続は回復していない。ならこの光は、さっき母の中に吸収された大森 龍道の影が放っているもの。
「そう、誰もミナを置いて行ったりしない。カイもユウも、姉さんも、龍道君と要さんも、ずっと一緒にいる」
『みんな……』
母の中に、たしかに彼等の気配を感じた。
そうか、そういうことか。
『ママも……一緒にいてくれるの?』
「ええ、今度こそ離さない。今の私が人生を終えても、次の私も、その次の私も、あなた達の悲しみが癒えるまで、こうやって抱きしめ続ける。ミナがママのことを嫌いになってもよ。だってママはずっとミナのことが大好きなんだもの。あれからもそれだけは絶対に変わらなかったもの」
──家族と戦いながら、それが正しい道だと自分に言い聞かせながら、けれどもやはり後悔していた。
「あの時、置いて行ってごめんね……ミナ」
魔素が凝縮しただけの冷たい体。それを暖めるように強く、強く抱いて謝る。もう涙を堪えることができない。あれからどれだけの時が過ぎたか知らない。でも、やっと言えた。ようやく、この子達に謝ることが出来た。
ミナは母の背中に腕を回し、肩に顎を乗せ、そっと囁く。
『いいよ、許してあげる。ずっと一緒にいてくれるなら、私はそれで幸せ』
その時、崩壊した空からあの黒い粘液が、呪いによって黒色化した魔素が再び侵入して来た。それら全てが霧状になりマリアの体へ吸い込まれていく。
「ウィンゲイト様!?」
「まさか、あの“呪い”を全部、自分の中に……?」
『ママ、大丈夫?』
「ええ、心配しなくていいわ。ミナの全部を抱きしめさせて」
吸収速度が上がった。始原七柱の絶望に汚染された膨大な量の魔素がマリアに吸い込まれ続ける。いくつもの世界を滅ぼし、そして、いくつもの世界を今もなお攻撃していたものが、そうするしかなかった魂達が彼女の中でようやく安寧を得る。
やがて空から降り注ぐそれが尽きたところでミナの影は母を押し退けた。びっくりしたマリアの目の前で真っ黒だった姿が変化し、本来あるべき色を取り戻す。
「スズ……?」
カタバミが呟いた通り、その少女は髪の色以外スズランに瓜二つ。
「大好き、ママ」
そう言って微笑んだ少女は再び母の胸の中へ飛び込み、その瞬間に分解して黒い粒子となると、やはりマリアに吸い込まれた。
「私もよ、ミナ。おかえり……」
最後に残された小さな小さな青い光を両手でそっと包み、自分の胸に抱くマリア。
崩壊の呪いと呼ばれたものたちは、全て彼女の中で静かな眠りについた。




