八章・二人の星空(2)
『やっと、ママと一緒だ……』
スズランを取り込んだミナの影は穏やかな表情で眠る彼女の頬を優しく撫でた。人間に生まれ変わり、こんなに小さくなってしまった。けれど面影がある。肉体的にも母の血を引いているからだろう。
『あたたかい……』
胸に顔を当てた。熱を感じる。この冷たい世界で唯一の温もり。けれど、その熱はあの日の後悔も思い出させる。自分達親子が離れ離れになってしまった日のことを。
キッカケは“滅火の男”を見つけてしまったこと。
理由は未だわからない。父が自らを犠牲にして創り上げたこの新世界の中に何故か突然、忌まわしい“滅火”を操る力を持った人間が出現した。
だが、かつて恐怖の対象だったそれは当時の自分達にとっては希望の象徴と化していた。すでに永劫に近い時を神として生き続け疲れ切っていた自分達七柱は、彼を見て全く同じ考えに到った。
彼の持つ力を利用して、死ぬことは出来ないか?
でも、その青年が操る“滅火”は不完全だった。一時的になら対象を消滅させることが出来ても、全ての時間軸や並行軸から消し去ることは出来ない。消えたものもやがて足りない情報を補完され蘇ってしまう。それでは無意味。オリジナルの七柱が欲していたのは完全な死。二度と目覚めることの無い永久の眠りだった。
なら、彼が完全な“滅火”を使えるように教え導いてやればいい。あるいは彼との接触を通じ、父の“数式”を無効化できるかもしれない。
計画を思いついた瞬間、自分達は本当に、本当に久しぶりに瞳を輝かせて笑っていた。
なのに母だけが強硬に反対した。母だけは、どうしても全ての界球器を巻き込む壮大な自殺を受け入れてくれなかった。
『ママは、今もパパを、愛しているんだね……』
全ての世界は父の一部だ。父がありとあらゆる全てのものの根源なのだ。だから母には殺すことが出来ない。もっと早く、この事実に気付いてあげるべきだった。
母はやがて自分達の元を去った。
行かないでと追いすがるオリジナルのミナの手を振り払い、たった一言だけ決別の言葉を告げると、一度も振り返らずに去って行った。
そして長い戦争が始まった。長くて不毛な戦いだ。どうやったって七柱同士では決着が付かない。自分達は完全に不老で不滅の存在だったから。滅火によって消滅を受け入れる以外に死ぬ方法なんて無い。
──そう思っていたのに、母は奇跡を起こす。執念の果てに一本の剣を生み出すことに成功した。七柱を消し去ることは出来ずとも、殺して輪廻の輪に還すことが出来る剣。
あの“神殺し”を完成させた。
彼の最初の犠牲者は母自身。神殺しの剣に自らの権能も与えるため、自殺に強硬に反対していた自分が真っ先に命を捨てた。
『私は、あの瞬間に生まれたんだよ』
母が死んだと知った直後、オリジナルのミナの中にそれまでより遥かに深くて暗い絶望が生じた。その時になってようやく気付いたのだ、自分が望んでいたのは永遠の眠りではなく、本当は家族を苦しみから解き放った上で共に在ることだったのだと。
『余計なものがいるから苦しいんだ……私達だけでいい……』
家族だけが残っていればそれでいい。他は全て消してしまおう。それなら父が死ぬことにはならない。父もきっと永遠に自分達を見守り、寄り添っていてくれる。
最初からこうしたら良かった。オリジナルの自分達は間違えた。だから同じ過ちを繰り返さない。今度こそずっと一緒にいる。
『私達だけの静かな世界で、幸せに眠り続けよう。ママ……』
ずっと、
ずっと、
ずっと、
ずっと、
ずっと、
ずっと、
いつまでも──
【それでいいの?】
『えっ?』
おかしい。この世界に、自分達だけの世界に他の熱を感じる。何もかも奪い取ったはずなのに。飲み込み、消し去ってやったばかりなのに。
次の瞬間、スズランの体から青い光が溢れ出した。
『なっ、なにが!?』
その光に圧倒され後退するミナの影。眩しい、直視できない。
『なんなの……なんなのママ!? それ、なんなのよ!?』
「ただのキルトよ」
スズランが起き上がる。何も無い無限の闇の中で、確かにそこに大地があるかのように二本の足で立ち上がる。
彼女は服の中から、そこに仕舞ってあったキルトを取り出した。これは本当に何の変哲も無い端切れを縫い合わせただけのもの。魔法の品でもなんでもない。
けれど彼女は≪世界≫神マリア・ウィンゲイト。精神を司る神。全ての心、全ての魂を統括する者。
その力が、この、ただのキルトに込められた想いを輝かせる。
青く眩く、力強く。
「私達だけでは駄目なのよ、ミナ。それではパパだって悲しんでしまう」
だからあの人は自分達に権能を与えた。新しい世界を創り出す術を。彼等を育み、共に歩んで行くための力を。
「思い出して、最初の頃の気持ちを。この世界に私達以外の命が生まれた時の喜びを」
『そんなのどうでもいい!! 私には家族だけでいい!! ママと兄さんとユウとユカリ伯母さん。そして龍道さんと要さんがいれば、それでいいの!!』
懸命に訴えかけるミナの影。でも、それでも母は首を縦に振らない。
「たった七人で生きるの? 永遠に、何も無い寂しい世界で生き続けるの?」
『じゃあどうするの? 結局ママも死にたい? 何もかもあの灰色の炎で焼き尽くそうと言いたいわけ?』
「いいえ」
【そうじゃないわ】
『!?』
スズランの傍から彼女とは違う彼女の声がした。そして新たな光が浮かび上がる。
青い蝶だ。光を放つ青い蝶が一羽また一羽と彼女の周囲に現れ、その数を増やし続ける。どんどんどんどん増えていく。
「見つけてくれたのね、皆」
『どういうこと? その蝶達は──どうして、みんな確実に潰したはず! ママじゃない偽者! 本当のママから派生しただけの紛い物ども!!』
【誰が紛い物よ】
【ウィンゲイトでないから、何?】
【私は私】
【どこの世界でだって、どんな名前で呼ばれたって】
【私は常に】
【私以外の、何者でもない】
【私は最悪の魔女】
【私はウィンゲイトの神子】
【私は雑貨屋の娘】
【みんな違う私。違うからこそ、そこに可能性が生じる】
【同じなのは、たった一つ】
【私達は】
【そう、私達は】
「絶対に諦めない」
無数の蝶に囲まれたスズランがそう言葉を繋げた瞬間、暗闇の彼方にも青い光が浮かび上がった。とめどなく数を増やし、やがてそれらは夜空の星々のごとく無限の闇を照らし出す。
『まさか、これが全部──』
「そうよ、ミナ」
この蝶達は全てがスズランでありヒメツル。あるいは別の名前で呼ばれていた並行世界の同位体。
崩壊の呪いによって滅ぼされてしまった数多の世界の“彼女”達だ。
【大丈夫よ、お母さん】
「え……?」
失われた熱が戻って来た。何も無いと思っていた闇の中に青く輝く蝶が現れ、カタバミの周囲を飛び回りつつ星屑のような煌めきを振り撒く。
「スズ……? 今の声、たしかに……スズよね?」
忘れていた名前と顔を思い出せた。彼女に名を呼ばれた途端、蝶はさらに嬉しそうに翅を羽ばたかせる。
「カタバミ!」
近付く足音と声。夫がショウブを抱えて走って来る。二人の周りにも青い蝶が二羽寄り添っていた。
「あなた! ショウブ!!」
カタバミもいつの間にか走っていた。ずっと水の中を漂っているような感覚だったのに、一歩踏み出してみれば、たしかにそこに地面はあった。
「良かった、無事だったんだ!!」
「そっちこそ!!」
ショウブを挟んで抱き合う二人。涙が溢れ出してきた。でもそう、泣いてる場合なんかじゃない。グッと堪えて袖で拭う。
「スズは、スズを見なかった!? そもそも、ここってどこなの!?」
「僕も探してるんだけど、まだ見てない! でも、さっき声は聴こえたんだ!!」
「あたしも聴いたわ! あの子きっと近くにいるのよ!!」
「ああ、スズの声がする方に歩いて行ったらショウブが泣いてて、おかげで見つけられた。どこかで僕らを見てるんだよ!」
【こっちだよ】
「えっ?」
「今度は、モモ君……?」
突然聴こえたモモハルの声に振り返るとそちらに彼等の姿があった。レンゲとサザンカ、ノイチゴもいる。
「こんなに近くにいたの!?」
「えっ、カタバミ!?」
「お、オメエら今、どっから出て来た!?」
「どっからって、モモハル君の声がして、あんたたちが見えたから……」
「モモが? オメエ何か言ってたか?」
「ううん」
モモハルはサザンカの腕の中にいて、彼の胸にもたれかかったままどこか遠くをじっと見つめていた。さっきスイレンに治療してもらっていたはずだが、まだ本調子に戻らないのかもしれない。
そんな風に心配したカタバミ達の前で、彼は不思議なことを言い出す。
「僕じゃない……でも、僕だよ」
「どういうこと?」
「お兄ちゃんは、時々わけわかんないことを言う」
「ふふ、ごめん。でも本当にそうなんだ……“みんな”はたくさんいるけど、僕とは少し違うんだよ、ノイチゴ」
「みんな……?」
「ほら」
そう言って彼が指差した先、そこに一際強くて大きな光が生じる。
「スズは、あそこにいる。そして周りの彼女達は、スズだけれどスズじゃない」
「あっ……」
「何? 光がどんどん……増えていく」
【アサガオちゃん、元気を出して】
【クロマツさん、すぐに助けてあげるね】
【ウメさん、心配しなくてもいいよ】
【ノコンさん、ロウバイ先生、一緒に見ていてね】
「み、みんな……」
増え続ける青い光。その一つ一つに仲間達が寄り添っていた。ココノ村の住民が、ユリとハナズが、ミツマタが、クチナシが、スイレンが、クルクマが、兵士や魔道士、アカンサス、シクラメン、ドワーフ、エルフ、ウンディーネ。あの世界にいた皆が数え切れない蝶と共にそこに在った。
そしてカタバミは気が付く。このスズランとモモハルの声は、周囲を飛び回る青い蝶達から発せられているのだと。
【そう、僕達は】
【私達は】
【この日のために、探し続けた】
「──始まりは、この世界に私が生まれたこと」
ヒメツル。オリジナルのマリア・ウィンゲイトの魂を持つ転生体が生まれたことで派生した並行世界の彼女達は“ウィンゲイトの神子”になった。ウィンゲイトの血を引く子孫だからというのも一因ではある。
けれど本当のウィンゲイトはこの世界で生まれた自分一人。世界神そのものでない他の“スズラン”達が六柱の影を打倒することは叶わなかった。
そうやって“呪い”に滅ぼされた世界の一つに別の因果が生じる。モモハルという少年がアルトラインによって彼の神子に選ばれスズランと共に戦った。スズランとしての人生の始まりから終わりまで二人は常に共にあった。
世界が滅んだ後、二人はそれでも戦い続けることを選択した。いつか必ずどこかの並行世界に“崩壊の呪い”を打倒してくれる者が現れる。それを探し、力を貸すために自分達の姿を蝶に変え、あの魔素の海を漂い続けた。伊東 旭と同じように。
「だからモモハルは“特異点”になった……彼はアルトラインを通じて並行世界の全ての自分に教えたのよ。私という存在を。未来に待つ戦いを。そして、願いを果たせなかった自分達の祈りを。彼が私を赤ん坊にして傍に引き留めたのも、それが理由」
彼はこの世に生を受けた瞬間、すでにヒメツルを、そしてスズランを知っていた。
他の世界の“彼”も同じ選択をした。寄り添い、共に戦い、死してなお諦めを拒絶した。スズランの魂と共に蝶に姿を変え、勝利の機会を待ち続けた。
最後のソルク・ラサを放つ時、スズランが送った“合図”は雨龍や有色者達に対してのものではない。彼等の力を借りても勝てる保証は無かった。勝てたとしても数多の界球器に散った“呪い”は自分を諦めない。次はきっと総力を結集してかかって来る。
だからもう一つの援軍を呼び寄せておいた。魔素の海を彷徨う“自分達”が“自分”を見つけられるように光を灯した。探している相手はここだと伝えるため、光の柱を通して思念を放射した。
そして今、ここで因果は集束する。
『そんな、駄目、やめてママ! そんなの許さない!! ママは私と一緒にいるの! 私達家族と一緒にいなきゃ嫌だ!!』
「ミナ……ここにいる皆も、私の“家族”なの」
『違う!! そんなわけない!!』
ミナの影が手を伸ばし、止めようとした瞬間、あらゆる方向から飛んで来た蝶達がスズランの体に吸い込まれ始めた。
同時に彼女の全身から溢れ出した光が膨張を始めた。その圧力に六柱の再現である彼女ですら抗えず押し流されてしまう。
『ママっ!?』
「な、なんじゃ……」
「いったい、何が起きとる……」
「どうなってんだモモ!?」
「大丈夫。みんながスズを手伝ってくれる、それだけだよ」
光の中心を見つめながら微笑むモモハル。そして膨張する光の圧に耐え切れず、ついに無限の闇が打ち砕かれた。