あるべき怒り
東京に出てきてもう八年以上が経った。将棋の棋士になると息巻いて中学卒業と同時に東京へ出てきて、十八歳で三段に上がったところまでは良かった。しかし、そこから長いトンネルに入った。プロと認められる四段に上がるには三段のリーグ戦で半年ごとの上位二位以内に食い込まなければいけないのだが、それができずにもう五年が経過した。あと二年で三段の年齢制限の二十六歳になってしまう。二十七歳までに四段に上がることができなければ、学歴も職歴も一切ない、元将棋プロ志望だったというだけの成人男性が一人出来上がってしまう。
春の陽気にも心が浮いてくることがないと悟った私はアパートへと戻ろうと踵を返した。しかし、そこで中からの声が聞こえてくることに気がついた。平日昼間は他の住人が留守にしていることもあって、この木造アパートは中にいる人間が思っている以上に声が外に漏れる。
「津井さんさあ、なんかやる気なくね?」
聞こえてきたのは私と一緒に研究会をしていた八巻という男の声だった。
「う~ん」
八巻から私の不満を聞いた近藤はどう返事をして良いか悩んでいるようだった。
「もう無理だって諦めちゃったんじゃないの?だって今日結果だけじゃなく内容もさっぱりじゃん。簡単に不利になって、粘りもせずそのまま負けてさ」
「まあ確かに、前期のリーグ戦も六勝十二敗だもんなあ、津井さん。二十三歳にもなってこれじゃあ、内心諦めていてもおかしくないよなあ」
もう一人の研究仲間の菊池の声もそう賛同している。近藤だけが容易には賛同しない。
「どうでもいいけどさ、津井さん最近髪伸びてきてね?今までずっと坊主頭だったのに」
「ああ、それは思った」
「やっぱりさ、社会に出る準備してるんじゃないの?サラリーマンにでもなろうかってさ」
「ああ、そうかもな」
八巻と菊池のやり取りは、本来なら怒鳴り込んでやっても良さそうなものだったが、私は何も言わずにその場に立っていることしかできなかった。勝負の世界で生きようとする人間の取るべき行動ではなかった。