「分からない」という希望
言葉が遮られると、二人の間を沈黙が包んだ。私は仕切り直しにコーヒーを啜る。人の少ない時間を選んだのだが、それがゆえに我々は少数の客の注目を浴びる形となってしまっていた。
「失礼しました」少し間を置いて高久圭が謝った。「少し感情的になってしまいました」客の視線が再び散っていく。
「いえ、仕方のないことだと思います」
肩を落とした彼を見て、私はそれ以外の感想が浮かんでこなかった。それは高久圭に対して初めて伝える計算のない率直な言葉だった。
「父のことは、ずっと前に振り切ったつもりでいました。父から将棋の才能を見限られ、しばらくの間は茫然自失としていましたが、やがて父とは違う道で人生を成功させようと考えるようになりました。大学へ行き、大手企業に入って懸命に働いて。いつからか、父のことを考える時間が減っていることに気づきました。ですから、本当はあなたにこのメッセージを渡すかどうかも迷っていました」高久圭はそう語りながら、私に追随するようにコーヒーを啜る。「ですが、やはり父は私にとって唯一の存在であり、決して無視できる存在ではなかったのです。父が死んで、父の生前の知人たちと話をする機会などから、気づかされました。私は父を乗り越えたのではなく、父から目を逸らして生きることを選んだだけだったのだと。そして、本当の意味で父と決別しなくてはいけないなと思ったんです。そのためには、父への心残りはなくしたいと思いました」
「それで、私にメッセージを見せた、と」
私の中の高久圭への感情はついに自制の枠を超えて溢れ出していた。
「はい……。それだけのことを考えている間に、父が亡くなってからあなたにこのメッセージを見せるまで、数日の間が空いてしまいました」
私は目の前にいる師匠の息子という存在に特別の同情を寄せずにはいられなかった。
「いえ、謝る必要のあることではありません。……こちらこそ、ご期待した結果にならず、申し訳ありません」
私はこれから高久圭がどのようにして父との本当の決別を迎えるのか想像をした。父のように一つの世界に身を捧げることを選ばない人生を選びながら、内心では父のような生き方に憧れていたことを自覚してしまった彼。そしてそれを自覚した上で、父の生き方が最終的に実を結ぶことがなかったと自覚させられた彼。
やはり一つのことに人生を捧げるというのは愚かな選択だったと自分を納得させて残りの人生を歩んでいくのだろうか。それとも、一つのことに人生を捧げたように見えた自分の父が、実はそれに失敗していたと結論付けるのだろうか。
どちらも選んでほしくないと、私は思った。言葉が出なかった。
「それにしても、解説を聞くとあまりに簡単な詰みなしです。死の淵で朦朧としている人間というのはこういうものなのでしょうか。せめてもう少し複雑な詰みなしの変化であれば納得もいくのですが……」
そう言われて、それが極めてもっともな質問であると気づく。そう、間違いがあまりにも簡単すぎる。というより、明らかに不自然だ。
「確かに、簡単すぎる……」私は呟く。
詰将棋というのは、詰むことが前提で作られる。しかしあまりに簡単に詰んでは問題として面白くないので、それが一見詰まないように見せかけたり、手順を長くしたりして解答者を悩ませるようにするのが普通だ。だから、詰まないという不備のある詰将棋の本来のあり方としては、「詰みが見つからない」から始まり、「詰みそうな筋が見つかり」、しかし出題者も思いつかなかった「受けの妙手が発見されて」やはり詰まないというのが通常なのである。しかし、この詰将棋はそういった経緯が一切ない。初見で詰むかどうか疑わしい形をしており、それがそのまま実際に詰まないで終わるだけだ。失敗作の詰将棋だとしても、不自然極まりない。
そう考えると、私の出した結論はやはり師匠の残したメッセージの最終の結論とするには不十分だと思えてきた。「分からない」という希望が意志に力を与えてくれる。
「ちょっと待ってください」
私の言葉に力が込められたのが伝わったようで、高久圭は一つ瞬きをしてこちらへ視線をやった。
「やはり、もう少し考えさせてくれませんか。師匠はただ間違った詰将棋を作って暗号化しただけではありません。こうなった明確な理由があるはずです。ええ、そうだ。そうに違いない」
突然力を取り戻した私をぽかんとした様子で高久圭は見つめる。
「本当ですか。いいんですよ、気休めは」
しかし、私はもう立ち止まることはなかった。一種の不思議な確信が私の身を包んでいた。
「いえ、間違いありません。先ほどの私の結論は間違っていた。そうとしか思えません。ただ、何が間違っていたかは今すぐは分かりません。もう少しだけ、時間をください」
私はそう言って頭を下げる。
「そう言われたら、誰が止めましょうか。もともとあなたの時間はあなたのものだ。その時間で何をしようと、私に何かを言われる謂れはありません。ただ、私から一つだけお願いがあるとすれば、やはり……」
私はそのお願いを先回りした。
「正しい結論に至ったら、必ずお知らせします」
その言葉を聞くと、高久圭は鼻から息を出し、ふっと微笑んだ。
そんな顔をして笑うのか、と思うと、私もついつい微笑んでしまった。




