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ユーザーインターフェースとヤード/ポンド法


拙作のSF小説「シスターズ&メイルズ」に登場する人類の子孫たちは、ヤード/ポンド法を利用しているのだが、それには(ストーリー上の設定とは別に)ちょっとした理由がある。


もちろんヤード/ポンド法や尺貫法にもとづく計量体系は、マクロなスケールで見ると非合理的であり、大から小まで一貫した物差しを使うと言う観点ではデメリットが多い。


だが、視点を変えて、本来、その尺度が作られた『そもそもの適用目的だけ』に対象を絞ると、その使いやすさが解り、同寺にそういう尺度が生まれた経緯も納得できる。


手や足を基準にした長さの単位でも、フィートが足の大きさを基準にしている(さすが欧米人、平均的な踏み跡の長さが約30センチとはでかい!)ことや、親指の付け根部分の幅だというインチ(手もでかい!)は有名だ。


ヤードの元になったと言われている古代ギリシャのキュビットは、肘の角から伸ばした指の先までの長さ(ヤードはダブルキュビット)だし、まあ、身体感覚からスタートした単位が、なんとなく扱いやすいことは分かる。


それに、欧米の1フート(フィートの単数)が30.48センチで、日本の1尺(曲尺)が30.3センチと極めて近い値であることにも、なにか平行進化的な符合を感じてしまう。


だけどセンチやミリは、共通言語である引き換えに、体のいかなる部分も当て尺にすることが出来ないので、常に物差しを使う以外に無い。

(自分の指の長さを予め測っておいて、大雑把な物差しに使うというのは別の話だ)


あるいは、現代人には余りにも不合理な、12個で1ダース、12ダースで1グロス、12ペンスで1シリングといった12進法を考えてみよう。


哺乳動物の両手の指が10本であることを考えると、「12個で1セット」という単位が生み出されたのは、よほどひねくれた結果のようにしか思えないが、実は「12」という数が、『2・3・4・6で割れる』ものだと考えると、モノを一塊で売る時に都合が良いと言うことが解る。

逆に「10」でひとまとめにすると、2か5でしか割れない。


小規模な市場や家族単位で誰かと分けあう時に、2、3、4、6、で割れる塊の方が便利(売りやすい・買いやすい)なことは明白だ。

数が大きくなって、複数の桁に跨がった計算が必要になってくると非合理的であっても、逆に日常的な細かな分配_だけ_に使い道を絞れば、都合が良いのはむしろ10進法より12進法だったりするわけである。


古代ペルシアで1年が360日とされていたのと同様に、もしかすると、円を360度で割るのも同じ発想だったのかもしれない。


360は1から10までのうち、7以外の全ての数で割ることが出来るが、逆に言うと、円を測る角度として360という数字に固執しなければいけない必然性も、特にないようだ。

例えば純粋に数学的なものとして円を扱うときには、割り切りやすさはどうでもいいので、円の半径と弧の長さの関係に基づくラジアンという単位を使う(1ラジアンは約57.3度)し、軍事では主にミル(ミリラジアン)という単位が使われている。(これはミリラジアンと言いつつ、実用上扱いやすいように、ちょっとズルをして円周の6400分の1の角度が1ミル)


また、「牛2頭が1日で耕せる範囲」という定義で始まったエーカーなども、アバウトな実用主義の最たる物だと思う。


つまり、当初のエーカーは実質的には『仕事量』を計る単位であって、斜面や土の固さによって場所毎にエーカーの広さは変わってしまったことになる。

だがこれも農業生産性という観点で言うと、肥沃な土地も荒れ地も同じ尺度で比較する『面積単位』よりも、農家の労働量を知る上では実情が解りやすいのかもしれない。


これは、土地の評価を面積に代わって『生産性』で捉えるという見方もできるわけで、むしろデジタル化した世界でこそ、こういう単位を活用できる気もしてくる。


多くの先住民族文化で使われていた距離の単位「一日で歩ける遠さ」というのも同じだ。荒れ地か街道かで実際の距離は大幅に変わるが、費やされるエネルギーと移動に必要な時間は、むしろ正確に見積もることが出来る。


ただし、こういった伝統的なスケールには正確さや統一性は無いので、誰かと比較しなければいけない時には不都合だ。

特に利害関係が絡むと曖昧な単位はトラブルの元になる訳で、物流および貨幣経済の発展とともに、こうした古来の単位が廃れていったのは無理もない。


で、いったい何が言いたいのかというと...


『計測単位』というものは、人間が世界を認識するときに、固有名詞と同じように大切な概念であり、言うなればインターフェースの一つだ。


だとすると、身体感覚に紐付いた伝統的なモノサシも、人間が機械を扱うときの『ユーザーインターフェース』の設計も、実のところ同じような捉え方ができる物では無いだろうか?


インターフェースの基準や作法に、余りにもメートル法的な「一貫性・整合性」を求め過ぎると、あらゆるスケールで使いにくい物が出来上がってしまう気がする。


技術者はつい『一貫性こそ正義』という考え方をしてしまいがちだが、あまり『論理的な整合性』に囚われ過ぎずに、ロジックよりも、人間という『曖昧かつ身体感覚や感情を元に活動する生き物』にあわせて、要所要所で混乱しない程度に基準を変えた方が良さそうにも思える。


つまり、やたらと万能な物に『統一』しようとせずに、その絞り込んだ目的だけに使いやすい物を考えた方が、日常的には良いケースも多々有るはずでは? という話だ。


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< 上記に限らず、仮想的な計測単位をいくらでも生み出せる、と言うことも、デジタル化社会のいいところの一つだと考えている。これについては、また項を改めて考えてみたい。>

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