剣道三倍段
フィコマシー様の軽くウェーブが掛かった金髪に、騎士の手が今まさに触れようとした寸前。
彼のモーションが、唐突に停止する。
フィコマシー様へと伸ばされた騎士の腕を、僕が引っ掴んだためだ。
自分でも気付かないうちに、音も無く彼の側まで移動していた。無意識状態で身体が動くとは、我ながら怖ろしい。
握力は最大限だ。ミシッと、彼の腕が鳴る。
「何だ、貴様」
黄色い髪の騎士が、僕を睨みつけてきた。顔の位置が、僕と同じ高さだ。
それにしても、人相が良くない男だな。
細い目は、明らかに他人を蔑んでいる。かつ、鋭角な鼻梁と酷薄そうな薄い唇。ある程度顔立ちは整っていても、性格の悪さが表面に出過ぎだね。
「おい、何とか言え」
「貴方こそフィコマシー様に、何をしようとしているんですか? 侯爵令嬢であるフィコマシー様への無礼な振る舞いは、許されませんよ」
彼の腕を離さないまま、己が身体をずらす。騎士とフィコマシー様との間に、強引に割って入った。
「サブローさん……」
フィコマシー様の心細げな声が、背後から聞こえてくる。
「貴様、物好きだな。豚を庇うのか?」
「先程より貴方の喋っている内容は、意味不明ですね。まぁ、僕はブタさんを気に入ってますけど。愛くるしいし、清潔だし、肌触りは心地良いし」
騎士に言い返すと、彼の目が底光りした。
ヤバ気な空気だ。
フィコマシー様とシエナさんは、事態の悪化を恐れて、容易に口出しが出来ない。
キーガン殿に『思考回路が残念』と評されたリアノンは、状況の急変に付いていけずオロオロオタオタしている。
クラウディとアンコは静観の姿勢だ。この両人にとって大切なのはオリネロッテ様のみで、フィコマシー様や僕の処遇などに興味は無いのだろう。
この局面を収拾できる唯一の人物は、オリネロッテ様だ。だが、彼女はズッと沈黙を守っている。
何故だ? 実姉が、自身のお付きの騎士に愚弄されているんだぞ? 騎士を叱責するのが、当然じゃないのか?
「豚なんてモンは、生ゴミを食い散らかして、挙げ句は屠殺場に連れていかれちまう哀れな家畜だろ?」
男のツリ目が、フィコマシー様へと注がれる。
「そう。どのみち、最後は食肉になる運命だ」
この野郎。
『フィコマシー様の未来は絶望だ』とでも暗示しているつもりか?
騎士の不遜極まりない言動は、もちろん許せない。加えて、成り行きを傍観し続けるばかりのオリネロッテ様の態度にも腹が立つ。
「貴方の見解に、僕は不同意です。けれど、別に訂正はしませんよ。個人の嗜好について、他人が差し出口をしても不毛なだけですからね」
「フン、それで?」
「ちなみに、僕は」
銀髪緑眼の佳人へと、目線を向ける。
……落ち着け。意識を持っていかれるな。
オリネロッテ様……美しい少女だ。
キレイな顔。
抜群のプロポーション。
奇跡の造形。
極上の器量。
魅力的な容姿。
見れば見るほど、驚異の念に打たれてしまう。
……でも、それだけだ。
大丈夫。オリネロッテ様を目前にしていても、〝僕〟は〝僕〟のままだ。
揺るぎは、しない。
「僕は、ブタさんは好きですが、白鳥は嫌いでしてね。悪食で悪声、おまけに根性悪と、欠点が多すぎですよ」
僕が誰を〝白鳥〟に例えているのか、騎士は把握したようだ。怒りのあまり、男の顔色がみるみる真っ赤に染まる。
「平民! 貴様ァァァァ!」
男は憤怒し、僕の腕を乱暴に振り払う。そして、腰に提げていた長剣を抜いた。
ちょ! 確かに、僕は彼を敢えて挑発した。
けど、侯爵家屋敷の食堂内で抜剣するなんて、コイツ正気か!?
マズい。
僕は現在、丸腰だ。ダガルさんより譲り受けた山刀ククリは、入館の際に屋敷の者に預けてしまっている。
地獄の武器特訓におけるブラックの教えの中で、記憶に残っている一節がある。
ブラックは、僕に『素手で、武器を持った相手とは戦うな』と幾度も強調したのだ。
♢
「ええか、サブロー。『剣道三倍段』って言い回しがあってな。これは『空手や柔道の段位持ちが、剣道の段位持ちと相対する場合、3倍の段を持っていて、ようやく互角』という意味なんや」
「つまり剣道初段と渡り合うには、空手は三段を取得していなければならないと?」
「そうや。それぐらい、素手で、武器を所持している相手と戦うのは難儀なんや」
「〝真剣白刃取り〟とかは……」
「あんなん、ただのフィクションや」
「エセ関西弁を喋る黒肌の鬼が、フィクションとノンフィクションの相違を語るとは笑止千万」
「ん? サブロー、何か言うたか?」
「いいえ。空耳でしょう」
「ほうか」
「でも、ブラック。闘争が避けられない時もありますよね。自分が無手で、敵が剣や槍を構えているケースでは、どんな風に対処すれば良いんですか?」
「お勧めなんは、一目散に逃げることやな」
「カッコ悪い」
「命あっての物種やろ。自分に有利なシチュエーションでリベンジすればエエのや。サブローは魔法が使えるんやから、いったん距離を置いて仕切り直せば、勝率はグンと上がるで。退却不可なら、相手が武器を構える前に機先を制して倒してしまうことやな」
♢
僕の後ろには、フィコマシー様が居る。この場を動くことなど、出来ない。ましてや、逃げるのは論外だ。
更に、騎士は既に抜剣している。先手必勝の条件は失われた。
ならば、どうする?
ああ、ブラックはこうも述べていたっけ。
『逃げられない時はやな、対者の虚を突いて構えを崩すんや。で、敵が体勢を回復させる前に、一撃食らわしたれ。肝心なんは、この一撃で相手を確実に沈めてしまうことや。反撃される余地を残したら、アカンで』
ブラックのアドバイスを思い出した次の瞬間、僕はテーブルの上にあった皿を手に取り、男の顔に力の限り叩きつけていた。
僕の素早い、思い切った攻勢に驚く男。
ひょっとしたら、この騎士。単に威嚇するつもりで、剣を抜いたのかもしれない。武器で脅せば、僕が屈服すると考えて。
しかし、その目論見は甘すぎる。
抜剣した時点で、お前は僕の敵だ。
フィコマシー様の髪の毛一本たりとも、損なわせない。
男が咄嗟に剣で皿を防ぐ。
長剣に当たって、砕ける皿。皿の破片が、男の顔面に飛び散る。
反射的に目をつぶる騎士。
充分な隙が出来た。
屋敷内であるため、男は金属製の鎧を着用していない。革製の簡易な防護服を纏っているだけだ。
すなわち、腹部は無装甲。
腰を回転させつつ、左脚を跳ね上げる。回し蹴りが、男の脇腹に極まった。
躊躇なく放った僕の蹴りを受けて、男は右方へ吹っ飛ぶ。食堂の壁に大きな音を立てて激突し、そのまま動かなくなる騎士。
早いとこ、男の剣を奪ってしまおう。
蹲る騎士の元へ赴こうとした僕は、駆け出す直前にピタリと足を止めた。
全身がピリピリする。オカしいな? 鳥肌が立っている。
本能が、囁く。『油断するな』と。
直感を信じろ。下手な行動は慎め。命取りになるぞ。
深く息をし、頭を緩慢に巡らす。
オリネロッテ様の前方まで歩を進めている騎士クラウディの姿が、目に飛び込んできた。
彼が、殺気を放っている。
ごく微量の〝気〟なので、室内に居る人間の中で悟れたのは、おそらく僕だけ。多分、リアノンも勘づいていない。
一大事だ。
ターゲットが僕なら、まだ良い。確かに僕は、それだけの狼藉に及んだのだから。
だが、クラウディの殺気はフィコマシー様へと向けられていた。
背筋に、寒気が走る。
主家のお嬢様に対して、黄髪の騎士が投げつけた数々の侮言。フィコマシー様の心中を慮ると、我慢できなかった。けれど、ヤりすぎたか?
クラウディが敵に回る可能性を失念していた。
クラウディは、ベスナーク王国でも五指に入る武人と聞く。壁際で崩れ落ちている男などとは比較にもならないほど、手強い。
衝突すれば、徒手の僕に勝ち目は無い。
魔法で戦うにしろ、発動には魔力を練り上げるための集中時間が必要だ。僕が無防備になった間際を、クラウディは見逃してくれるだろうか?
……あり得ない。
瞼の裏に浮かぶ、〝確率の高い未来〟。
剣を抜きざま、僕を両断するクラウディの姿。
加えて、相手側には魔法使いのアンコも居る。もし、ここでクラウディとアンコが2人揃って攻撃を仕掛けてきたら、僕1人ではとても対処できない。
フィコマシー様を、護りきれない。
シエナさんに加勢を……イヤ、ダメだ。
シエナさんは、勇気ある女性だ。レイピアや暗器も扱えるし、争いでも頼りになる。ビックリするくらい、戦闘能力に長けた少女。でも、それはあくまでメイドとしてだ。本気になったクラウディやアンコの前では、ひとたまりも無い。
シエナさんを、命の危険がある渦中に巻き込む訳にはいかない。
彼女だって、僕の護るべき対象だ。
リアノン……リアノンは……逞しすぎる。頑健すぎる。男らしすぎる。あれ? 性別は……〝男では無いほう〟だったかな?
自信がない。
うん。彼女は、〝護るべき対象〟では無いね。リアノンは、いわゆる〝殺しても死なないタイプ〟だ。むしろ、僕を護って欲しい。
彼女が、こちらに味方してくれれば何とかなるか?
しかし、それは都合の良すぎる期待だな。リアノンのオリネロッテ様への心酔とフィコマシー様への無関心ぶりを考えると、中立の立場を守ってくれるだけでも恩の字だ。
如何にすれば、フィコマシー様を護れる? クラウディを牽制できる?
焦るな。
冷静に思案しろ。
あらゆる手段を模索するんだ。
……よし。
僕は一見自然体のように佇みつつ、いつでも即応できる体勢を整えた。そして、攻撃目標を定める。ある人物へと。




