エメラルドより価値ある宝石
「サブローさんが『フィコマシーお嬢様を認識できなくなった』というお話なのですが……。私には今ひとつ理解できないんですけど、それはいったいどのような状態なのでしょうか?」
シエナさんが、僕へ問いかけてきた。
「……そうですね。例えばですね。シエナさんが、街へ買い物に出掛けたとします」
「ハイ」
「市場は混雑しており、でもシエナさんは、すれ違う通行人とぶつかる事はありません。それは、何故ですか?」
「歩く際には、他人を避けているので……」
「その時、シエナさんはイチイチ交差する相手を認知しながら、身体を動かしていますか?」
僕の質問に、シエナさんは考え込む。
「……無自覚のうちに歩くスピードや相手との距離を調整して、衝突を回避していますね」
「シエナさんが、侯爵家のお屋敷へ帰って、日中の行動を回想します。お目当ての品を購入した店の主の顔は、おそらく覚えているでしょう。けれど、道で行き違った人たちの顔は、目にしていたとしても、個別に記憶してはいませんよね?」
「ええ……」
「会ったはずなのに、見ていたはずなのに、〝個人〟としては思い出せない。〝その他大勢〟といった形で一括処理してしまっている。当たり前と言えば、当たり前です。人間の脳における記憶の容量には、限界があります。『どうでもいい事』をチマチマと全て保存しようとしたら、脳がパンクしてしまうに違いありません」
フィコマシー様とシエナさんが、頷く。
「本来、フィコマシー様は、僕にとって『大切な忘れがたい人』です。ところがどうしてか、オリネロッテ様に面会して以降、フィコマシー様の僕の脳内における所在が、移動してしまった。〝大事に覚えておくべき領域〟から〝適当に取り計らっても構わない領域〟へと。僕の中でのフィコマシー様の立ち位置が、『10日前に、たまたますれ違った通行人レベル』へと落ちてしまったのです」
フィコマシー様が、絶句する。よく観察すると、彼女の身体は小刻みに震えていた。
『どうでもいい存在』として、認識・対処されること。それはもしかすると、忘却されてしまう事よりも、本人にとっては悲しく思える状況なのかもしれない。
シエナさんが、フト気付いたかのように呟く。
「それで、この部屋に入ってきた折のサブローさんは、戸惑うように繰り返しお嬢様の顔をご覧になられていたんですね」
「仰る通りです。オリネロッテ様と一緒にいる間も、気になってしょうが無かったのです。忘れてはならない人を、忘れている。けれど、思い出せない。……フィコマシー様のことは、辛うじて『見掛けただけの、でも何となく心に引っ掛かる他人レベル』で覚えていました。自分の思考や記憶をハッキリさせようとフィコマシー様の私室を訪問させていただいたのですが……なお、頭の働きが覚束ない。ですので、思い切って……」
「思い切って、自身の手を針で貫かれたのですね」
フィコマシー様が、僕の左手にソッとご自分の手を添えられる。
「申し訳ありません。そして、ありがとうございます」
「あ、いえ。魔法で治癒したため、もう痛くもなんともありませんから」
うわわわ! 女の子に手を握ってもらうなんて、なんか照れちゃうな。
フィコマシー様の潤んだ青い瞳が、キレイだ。
ロイヤルブルーサファイアとでも呼ぶべきか。
うん。やっぱり僕は、緑のエメラルドより、青のサファイアのほうが好きだ。
あ、でもブラウンジュエリーの琥珀にも惚れ惚れしちゃいますね。
ゴールドは至高だし。
シエナさんやミーアの瞳も、フィコマシー様の瞳と甲乙付けがたい美しさです。
少女たちの瞳の輝きから宝石を連想している僕へ、シエナさんが発問を重ねてくる。
「サブローさんは、ミーアちゃんとマコルさんのお嬢様に関する記憶を、どうやって戻したんですか?」
「2人へ使用した魔法は《破邪顕正》と言って、〝魔を祓う〟光魔法なんです」
「ならば、お二方の心が〝魔〟に覆われていたという事ですか?」
フィコマシー様が、驚く。
「〝魔〟と称するより、〝闇〟ですかね」
ここで、僕は、馬車の中でリアノンと握手した経緯を語ることにした。
「リアノンさんは、粗暴でガサツでおっちょこちょいで眼帯詐欺を堂々として憚らない困った女騎士です」
「あんまりな言いぐさニャ」
ミーアが、ツッコミを入れてくる。
「けれど、総合的に見て、彼女は決して悪い人間ではありません。騎士たる誇りも、キチンと持っている。にもかかわらず、彼女のフィコマシー様に対する振る舞いは、あまりにも慮外で、なおかつ不自然だった。ですから手を握る際に、失礼だとは思ったんですが、彼女の心の中を魔法で少しばかり探知させてもらいました。そしたら、彼女の精神へ意図的に外部より〝暗闇とでも呼ぶべき邪悪な何か〟が注入されている事象を、発見することが出来たんです」
世界には、清らかな〝闇〟だって存在する。例えば「浄闇」と言われるモノ。
だが、アレはそうじゃ無かった。
「おそらく、アレがリアノンさんの心を操っている。彼女の、オリネロッテ様への盲信、フィコマシー様への失敬な姿勢、全部あの暗闇が起因となっているのではないかと、僕は推量しています。付け加えると、馬車での道中、ミーアの心に闇なんて無かった。しかし、先程ミーアを抱きしめた際には、ミーアの心の表面にウッスラとではあるけど暗いモヤが掛かっていた。と、言うことは……」
「ちょ、ちょっと待ってください。サブローさん!」
シエナさんが急き込んで、僕の喋りを止める。
「如何したんですか? シエナさん」
「あ、握手で心の中を探ったって……だったら、あの折にサブローさんは私たちの心も……」
げ! しまったあああ!!!
僕が秘かにシエナさんたちの心中を覗き見ていたことが、バレてしまった。それも、自白する形で。
マズい、マズすぎる!
シエナさんたちからしてみれば、僕は精神への不法侵入者だ。
僕の目的は、徹頭徹尾、真実の解明にあった。『ゲッヘッヘ、乙女のココロをチョイ見してやろう。ホレホレ~。ヨいではないか、ヨいではないか』などといったゲスな狙いは微塵も無かった。ホントですよ!?
でも、これは誤解されても仕方のないケースだ。
僕を糾弾するフィコマシー様たちの姿が、頭に浮かぶ。
『サブローさん、見損ないました』とフィコマシー様。
『不潔です。悪辣です。人格劣等です。犯罪者です』とシエナさん。
『サブローには、猫神様のお仕置きが必要にゃ』とミーア。
違う! 違うんだ! 僕は、変態でも盗撮魔でも覗き常習者でも無いんです。健全な、ただの男の子なんです! 摩周湖なみに心が澄んでいる少年なんです。ピュア・ボーイなんです。
やめて……。そんな履き古した下駄を眺めるような眼で、僕を見ないで……。
※注 摩周湖は、日本で最も透明度が高い湖です。
「あ、あの、それでサブローさんはどう感じられたんですか? 私の心について……」
悶絶している僕に、シエナさんが話しかけてきた。くすぐったそうにしている。
「え! 怒っておられないんですか?」
「サブローさんが、お嬢様の置かれている局面を打開するために、敢えて取られた方法なんですよね? 有り難く思いこそすれ、腹を立てる謂われなんてありません」
シエナさんの言葉に、フィコマシー様やミーアも同意するように点頭してくれている。
良かった! 助かったよ。
シエナさんたちは、やっぱり聡くて優しいね。おかげで僕も、前科持ち、ムショ帰りにならずに済んだよ。
「シエナさんの心は健康、ミーアの心は元気! ……そしてフィコマシー様の心は……心は……」
「サブローさん、正直に仰ってください」
口籠もる僕へ、フィコマシー様は穏やかに促した。
「涼やかで清らかで、それでいてとても寂しげでした……」
「お嬢様……」
僕の発言を受けて、シエナさんがフィコマシー様を気遣わしげに見やる。
「けれど、心の支え、安らぎになっているモノも確かにありました。あれは、シエナさんの献身が、フィコマシー様の精神に投影されていたんだと思います」
「そうなんですね……ありがとう、シエナ」
「……お嬢様」
「サブローさん。いま一度、私の心を窺ってみてはくださいませんか?」
僕と手を繋いだままのフィコマシー様が、予想外な提案をしてくる。
「それは……」
「お願いします。サブローさん」
フィコマシー様の懇望に負けて、僕は彼女の心へ再び《精神探索》の魔法を行使した。
フィコマシー様の心の風景が見える。荘厳で静謐な森林……でも、以前とは何かが異なっている。
まだ森の中に動物の影は無い。しかし、下草の間には少なからぬ若芽が顔をのぞかせている。森全体に、僅かではあるが生気を感じるのだ。
〝止まっていた森の時間〟が動き出した。……そんな感慨に駆られる。
「フィコマシー様。貴方は……」
「サブローさん、私は大丈夫です。一度は去ったはずのサブローさんが、戻ってきてくれた。ミーアちゃんも、マコル様も。何より、シエナが変わらず側に居てくれる。……未来に、光を感じるのです。私は、諦めません」
フィコマシー様は僕の目を強く見返しつつ、己が決意を口にした。
大丈夫……大丈夫なのだろうか?
自戒しろ、サブロー。
本人がそう明言したからといって、安心してはイケない。
フィコマシー様が、前向きになってくれたことは、本当に喜ばしい。けれど、フィコマシー様が再び歩みだそうとしている今こそ、周りのサポートがより一層求められるはずだ。
それに、忘れてはならない。フィコマシー様の心の奥には未だ重大な秘密が隠されたままだ。
封印された、小箱。取るべき手段は依然として見付からないが、どうにかしてあの問題を解決せねば。
フィコマシー様の、あるべき明日へ。
シエナさんとともに、及ばずながら僕も尽力しよう。
「ミーアちゃんとマコルさんの正気を回復させたように、もしかして、サブローさんならお屋敷の方たちの心も何とか出来るのではありませんか?」
シエナさんが、期待を込めて尋ねてくる。
……バイドグルド家の館における人間たちの、フィコマシー様への対応は酷薄だ。フィコマシー様を歓待してくれている人物は、皮肉なことにオリネロッテ様1人なのである。
シエナさんとしては、現状を早急に改めたいに違いない。だが……。
「それは、些か難しいかと」
「な、なんでですか?」
シエナさんが、意外そうな顔をする。
シエナさんは、僕の能力を過剰に信頼しすぎだ。
「ミーアとマコルさんは、特殊な例だったのです」
1つには、2人はオリネロッテ様と知り合ってから然程に時間が経過していなかった。そのため、オリネロッテ様が放つ魅力の影響を、あまり被らずに済んだのだ。
しかし、年単位でオリネロッテ様と接し続けている館の人たちは、かなり重度の浸食を精神に受けている。オリネロッテ様との関係が殆ど無かったリアノンでさえ、先刻のミーアと比較しようもない程、心が闇に蝕まれていた。
おそらく、リアノンに《破邪顕正》の魔法を掛けたとしても、ミーアたちに匹敵する劇的な好転は望めないだろう。
更に肝心なのは、ミーアとマコルさんの精神に関する事柄だ。
2人の心は、純粋なのである。だから、《破邪顕正》の魔法をすんなり受容してくれた。精神が濁っている人の場合、闇の部分だけでなく、心そのものが《破邪顕正》でダメージを喰らってしまう可能性があるのだ。
もし、僕が自分自身に《破邪顕正》の魔法を振るったら、激痛に苛まれて昏倒してしまうよ。……多分。
え? さっきは『僕は、摩周湖なみに心が澄んでいる』と表明していたじゃないかって!?
『自分は純真です』などと訊かれてもいないのに主張するヤツほど、おおかた、いかがわしいモンなんですよ。
僕なら、『ピュア・ボーイ』なんて自称する輩は、絶対信用しませんね。
10代にして、汚れきってますよ。ソイツ。
でも、ミーアとマコルさんは《破邪顕正》を発動されても平気だった。ビクンビクンしていたけど。
ミーアの心は、ピュアなのである。
マコルさんの心も、ピュアだった。
……様々な世の荒波を乗り越えてきたであろう中年男性、しかもベテラン商人であるにもかかわらず、マコルさんの心がピュア?
何でだ!? ケモナー故か?
マコルさんの〝獣人愛〟は端麗かつ至純ではあるが……。そうか……ベスナーク王国でも、未だにケモナーは偏見の眼に晒されている。きっと、僕には想像もできないような苦労があったに違いない。
しかし茨の道を歩むことで、マコルさんの心はより純度を増したのだ。
『艱難、汝を玉にす』なる名言そのものだね。
マコルさんの心は、まさにケモナー・ピュア・ジュエル・オブ・ミドルエイジ。……うん、自分でも何を言ってるのか分からない。
あと、ミーアとマコルさんはどちらも僕に心を開いてくれていた。だからこそ、僕の魔法は2人の精神へ容易に浸透した。
マインドが清純な人であっても、僕に警戒心を抱いていたら、《破邪顕正》の効果は大幅に下がってしまうのだ。
ミーアが、僕に心を開いてくれている……嬉しい事実だ。
マコルさんが、僕に心を開いてくれている……深く考えないようにしよう。
最後に指摘したいのは、ミーアとマコルさん、両人の心底に、オリネロッテ様の魅惑をひっくり返すためのテコがあったという点だ。
つまり、2人は潜在的に『オリネロッテ様より、価値がある人物』を予め精神の中に住まわせていたのである。
この『価値がある』とは、『愛している』と必ずしもイコールでは無い。〝価値〟については、自分の思いだけで無く、社会的評価も大きな考慮ポイントになるためだ。
一例を挙げると、マコルさんは奥さんを愛していても、彼女を『オリネロッテ様以上に価値がある』とは捉えない。
水晶が大好きな人物が、居たとしよう。
その人物は「エメラルドと水晶、どちらを選ぶか?」と問われたら、迷わず水晶を手に取るほど、クリスタル・ラブに心が満ちている。しかし、宝石に関する通常の知識を備えている以上、『エメラルドより水晶のほうが値打ちモノだ』と判定することは出来ない。
世間の相場が、思念の枠組みを規定してしまうためだ。
エメラルドの瞳を持つ、オリネロッテ様。
けれど、ミーアとマコルさんの心の奥には、エメラルドを超える価値を有する宝石、ダイヤモンドに等しい珠玉があったのだ。
ミーアにとってのダイヤモンドは……ぼ、ぼ、僕だった。
うあ~!!! 火照る。ドギマギする。恥ずかしい。されど、天に向かって叫びたい! ミーア、嬉しいよ! ありがとう!
で、マコルさんにとってのダイヤモンドは、言わずもがなミーアであった。
さすがケモナー。ぶれないケモナー。ミーアの周囲より、強制排除したい。
――と言った内容を、僕は簡略にフィコマシー様とシエナさんへ解き明かした。一応、ミーアとマコルさんの名誉に関わる箇所は隠しつつ。
「……残念です。サブローさんに、お屋敷の人たちを片っ端から抱きしめていただこうと計画していたのですが」
悔しそうな表情のシエナさん。
ちょ! シエナさん。そんな事をしたら、僕は間違いなく痴漢認定ですよ! 老若男女、区別なく抱きつくなんて、痴漢より質が悪い。キッパリ述べれば、変質者です。
「せめて、侯爵様のお嬢様に対する言動だけでも、何とか……」
「シエナ。サブローさんへ、無理を言ってはイケませんよ」
フィコマシー様が、シエナさんを諭す
「スミマセン。フィコマシー様、シエナさん。侯爵様の心を直ちにどうこうするのは、難しいです。……ただ、侯爵様のフィコマシー様への行為については、僕も気になっている点があるんです」
「それは、何ですか? サブローさん」
フィコマシー様が、興味を惹かれたようだ。
「侯爵様のフィコマシー様への応接は、腹立たしいものでした。殊更に辛辣なセリフを投げつけ、軽んじる物腰を四囲に見せつける」
「…………」
辛そうに俯く、フィコマシー様。
「でも、侯爵様は決してフィコマシー様を無視しようとはしなかった。〝居ない者〟としては、扱わなかった」
僕の言葉に、フィコマシー様はハッと顔を上げる。
「オリネロッテ様の魅了に掛かった経験からの憶測ですが、侯爵様はフィコマシー様を〝認識できなくなってしまう〟心理状態に陥るのを、精神の奥底で恐れておられるのではないでしょうか? ために、わざわざ手酷い罵詈をぶつけることで、フィコマシー様の存在を自己に印象づけようとしている。……僕には、そう感じられたのです」
これは、あくまで僕の斟酌にすぎない。いや、願望か。
僕は、とても良い両親に恵まれた。だから『子供を惨くあしらう親なんて居ない』『ナルドット侯のフィコマシー様への接し方には、深い理由があるはず』と信じたいのかもしれない。
…………ああ、そうか。僕は、フィコマシー様を慰めたいのか。
彼女に、希望を持って欲しいのか。
あまりにも固すぎる、小箱の封印。それが、僅かでも緩む切っ掛けになるのでは……と。
「サブローさん……感謝申し上げます」
フィコマシー様は、嬉しいような悲しいような、そしてどこか泣きそうな表情をしつつ、僕に礼を述べた。
賢いフィコマシー様は、僕の浅慮など、とうにお見通しなのだろう。
……どちらが気を使っているのか、分からないな。
彼女の思慮深さが、この時ばかりは少しだけ憎らしかった。
LED様より素敵なレビューを頂きました。ありがとうございます!




