ミーアの初体験
シエナ視点が、まだ続く……。でも、途中でミーアの視点が入ります。
♢
フィコマシーが、サブローの左手の具合を恐る恐る確かめる。
「傷跡が、全く見当たりませんわ。サブローさん、これは……」
「フィコマシー様、そんな風にペタペタ触られると、くすぐったいですよ」
サブローが、フィコマシーへ優しく微笑む。
「あ。も、申し訳ありません」
無意識のうちにサブローの手を撫で回していたことに気付いたのか、フィコマシーは恥ずかしそうに頬を染めつつ、慌ててサブローより少し距離を取る。
自身の振る舞いについて、貴族の令嬢として軽率でややはしたなかったと感じてしまったらしい。
シエナが、感に堪えかねたかのように呟く。
「サブローさんは、やはり魔法使いだったのですね……」
「シエナさんは見抜かれていたのですか?」
サブローは、ちょっと驚いたようだ。
「ええ。馬車を襲った賊たちの手当てをサブローさんがなさっていた折りに、その手際があまりに良すぎたので、〝ひょっとしたら〟とは思っていたのです」
「そうですか……あの時に、既に察せられていたんですね。迂闊でした。やっぱり、シエナさんは聡いですね」
「当て推量が、たまたま適中したに過ぎません(そんな! サブローさん。『シエナさんの森羅万象をことごとく見通す叡智には、感服です。是非、伴侶になってください』なんて、いくら何でも褒めすぎですよ。私はサブローさんの〝未来の嫁〟ですから、慧眼は貴方限定なんです)」
サブローの称賛に対して表向きは謙虚なセリフを返しつつ、内心は意気揚々なシエナであった。
このメイド、ヨイショや扇動の類いに弱すぎる。あと、サブローの一言で、簡単に調子に乗りすぎる。
対照的に、フィコマシーはションボリする。
「私は、全然思い当たりませんでした」
「ああ、隠していた僕が悪いんです。それにフィコマシー様は、襲撃者の治療を行っている僕の姿をご覧になっていなかったのですから、気付かないのも無理はありませんよ」
あたふたと、サブローはフィコマシーを慰めた。
「シエナも前から知っていたのなら、私にコッソリ耳打ちしてくれても良いのに」
フィコマシーが、口を尖らせる。
とは言っても、もちもちの丸顔であるフィコマシーの唇は力を込めてもあんまり突き出ないため、表情の変化はホッペタがプクプクッと膨らむに止まった。
別にフィコマシーは本気で気分を害しているのでは無く、拗ねたフリをしてシエナに甘えているのだろう。
メイドが、主人へ頭を下げる。
「お嬢様、スミマセン。確証は無かったのです。それに、サブローさんも魔法が使える事実を隠したいご様子だったもので」
「確かに、ベスナーク王国で魔法使いは希少……。下手に周囲に認知されれば面倒なことになりかねませんものね。サブローさんが貴族や大商人のお抱えになられたいのでしたらともかく、冒険者になることを目的として居られるのなら、目立ちたくないのも道理ですわね」
フィコマシーは首肯しかけたが、何かに勘づいたのか、ハッと顔を上げる。
「サブローさん、屋敷の中で魔法を使ってしまって宜しかったのですか? この屋敷には、数人の魔法使いが居ます。オリネロッテに近侍していた黒いローブの女性も、魔法使いです。サブローさんが行使した魔力を、彼らは感知したかもしれません。ましてサブローさんがご自身の傷を癒した魔法は、光系統ですよね? 光魔法の使い手は、大変貴重です。お父様が知ったら、サブローさんにバイドグルド家へ仕えるように強要してくるに違いありません」
貴族の娘なら、サブローを自家から逃さないようにするのが、むしろ当たり前の結論である。にもかかわらず、フィコマシーはサブローの自由を優先する姿勢を示した。
フィコマシーの思い遣りが心に届いたのか、サブローの彼女への眼差しが、より一層優しくなる。
「僕が少々魔法を使える件は悟られてしまった可能性もありますが、この部屋の内部で起こっている事態は外部に漏れていませんので、ご安心を。先程、僕は室内をグルリと一周したでしょう? あれは、フィコマシーお嬢様の私室に対して盗聴や監視が行われていないか、点検させてもらっていたんです」
「では、その後にお嬢様のお部屋の雰囲気が一変したのも、サブローさんの魔法のおかげなんですね?」
シエナが、サブローへ問いかけた。
「ええ。部屋の内側に、風魔法で結界を張らせていただきました。更に悪しきモノを払う《清浄換気》の魔法も掛けたので、この空間に外部より干渉するのは不可能になったはずです」
「サブローさんは光以外に、風系統の魔法も扱えるのですか……」
シエナは感嘆する。
魔法使いは、単系統に特化しているのが普通だ。異なる系統の魔法の習得は、極めて困難とされている。それなのに……。
シエナの心を覆っていた暗鬱な陰が一掃されたのも、サブローの魔法の効果に依るものだろう。
(サブローさんは武術の達人でありながら、複数系統の魔法の使い手なのね。底知れない人だわ。サブローさんが〝偉大な勇士や賢者の愛弟子〟であることは、間違いないわね)
シエナの頭の中で、サブローは〝戦士〟兼〝魔法使い〟兼〝賢者〟兼〝多言語話者〟兼〝紳士〟兼〝純粋少年〟という途轍もない超的人間になり上がってしまっていた。
なおかつ〝シエナの将来の旦那様〟でもある。
メイドは、もう少し『男を見る目』を養うべきだ。
しかしながら、何故サブローが己が手を縫い針で貫いたのか、動機について、シエナは薄々だが看取している。
自我を正常化させるためとは言え、自傷を躊躇わなかったサブロー。
彼の決断力と勇気を、目の当たりにしたのだ。少女が少年への思慕を加速させる心理に陥る成り行きは、避けようがなかったとも言える。
「アタシは知っていたのニャ! サブローは、とってもスッッッゴ~イ魔法使いなんニャよ」
ミーアが、自慢げに胸を張る。あたかも自分の手柄であるかのように鼻高々だ。
胸は薄く、鼻も低い点は、いささか残念だが、まるで親の立派さを誇る幼子みたいなその仕草は、妙に可愛らしい。
「そうなの?」
フィコマシーがミーアへ話しかける。
サブローがほぼ復調したため、『もしかしたら、ミーアちゃんも』と期待してしまったに違いない。ミーアは、ここ数日間、大層フィコマシーに懐いていたのだから。
けれど、ミーアの反応は芳しくない。フィコマシーへピントが外れた視線を向けるだけで、結局応答しなかった。
素っ気ないミーアの態度に、フィコマシーは気後れしたかのように俯いてしまう。
(お嬢様……。ミーアちゃんも、サブローさんのように、元の明るくて元気で屈託なくお嬢様とお喋りしてくれるミーアちゃんに戻ってくれないかしら?)
フィコマシーが意気消沈する風情を眺めて、シエナの胸は痛くなる。
(サブローさん、お願い。オリネロッテ様に会う前のミーアちゃんを、私たちに返して)
懇願の目を向けるシエナへ、サブローは力強く頷いてくれた。
打てば響くようなサブローの所作を受けて、シエナの心は浮つく。
(目と目を合わせただけで、心が通じ合う。これはもう、結婚を前提にお付き合いしている恋人同士も同然ね)
忠義脳から恋愛脳への切り替わりが、早すぎる。サブローがチョットでも友好的な素振りを見せると、シエナの思考はすぐ明後日の方向へフラついて行ってしまうのだ。
深刻なトラブルを招く前に、脳内のチェックと再整備が不可避である。
サブローはミーアへ近寄り、穏やかな口調で語りかけた。
「ミーアは、人間語が上手になったね。ここ数日で、すごい上達ぶりだ」
「えへへ、そうかニャ~。アタシ、頑張って、覚えたんニョ。冒険者に、ニャるんだから、サブローの足を引っ張りたく無いのニャン。ズッとサブローと、一緒に、居たいの、ニャン」
ミーアは照れ照れしつつ、つっかえつっかえ一生懸命に人間語で話す。
(ミーアちゃんが人間語の習得に励んでいたのは、そういう訳だったのね。健気だわ)
シエナは、ミーアがサブローへ向けている想いの強さを、改めて実感した。
それにしてもミーアの叔母であるスナザはいたって流暢に人間語を操っていたにもかかわらず、ミーアの人間語にはやたら「ニャ」とか「ニャン」とか「ニョ」といった訛りが混じるのは何でだろう……。
「ミーアは偉いね」
サブローがミーアの頭を撫でる。猫族少女は、気持ち良さそうに黄金の瞳を細めた。
「ところで、ミーアは誰に人間語を習ったのかな?」
「もちろん、サブローにゃ!」
「僕の他には?」
「えーと、えーと、あとは……そうニャ! バンニャルにゃ!」
「バンヤルくんか。でも僕やバンヤルくんより、もっとミーアの人間語の勉強に付き合ってくれた人が居たでしょ?」
「う~ん」
ミーアが目をグルグルさせて考え込む。必死に記憶を探っているのか、しまいには頭を抱え込んでしまった。
「うん、居たニャ。アタシと人間語の会話をイヤな顔一つせずにしてくれた人。けど、変にゃ。顔が思い出せないのニャ。名前も頭に浮かんでこないのニャ。何でかにゃ?」
ミーアは頻りと首を捻る。
サブローがミーアへ慎重な口振りで問いかけた。
「どんな人だった?」
「とっても優しい人だったニョは、覚えてるにゃ。ふんわかしてて、心地良くって。お話ししていると、胸の中がポカポカしてきたニャン」
(……ああ。ミーアちゃんは、お嬢様のことを、そんな風に思ってくれてたんだ)
シエナはフィコマシーの様子をソッと窺った。
ミーアの発言を耳にしたフィコマシーは、何かを堪えるように胸に手を当て、目を閉じている。
「でも、ミーアはその人の名前と顔を思い起こせないんだね?」
「そうなにょニャ」
ミーアがガックリ肩を落とすと、サブローは腰を屈めてミーアの瞳を覗き込んだ。
そして意外な質問を口にする。
「ミーアはオリネロッテ様のことを、どう思ってる?」
シエナはビックリした。まさかサブローが、ここでオリネロッテの名前を持ちだしてくるなんて。
(サブローさん、いったい何を考えているの? これ以上、ミーアちゃんを混乱させて、どうするの?)
「オリネロッテ様は、素晴らしい人ニャン。大好きにゃ!」
「それじゃ、僕とオリネロッテ様とでは、どちらのほうが好き?」
「え!!!」
サブローの二択提示に、ミーアは絶句する。
「サ、サブローとオリネロッテ様!?」
「そう」
「ど、どっちも大好きニャ」
「答えになって無いよ、ミーア。僕は『どちらのほうが好き?』って訊いてるんだ」
「う~ん、う~ん、う~ん」
サブローが『言い逃れは許さない』とばかりに、ミーアとの間を詰める。
ミーアとサブローの顔が、正面から向かい合う。距離が近すぎて、今にも2人の鼻はくっつきそうだ。
「あにゃにゃにゃにゃ」
「さぁ、答えて。ミーア」
♢
サブローの顔が、ミーアの目の前にある。
ミーアを見つめる、サブローの黒い瞳。
ミーアの頭は熱くなり、今にも沸騰しそうだ。
(にゃんで、サブローはそんなことを訊いてくるんだろう?)
ミーアには、サブローの意図がサッパリ分からない。
オリネロッテを一目見ただけで、ミーアの心は囚われてしまった。
彼女の美しさ、彼女の優雅さ、彼女の気品。今までミーアが会った人たちでは比較にもならない、圧倒的な煌めき。オリネロッテを超える人など、ミーアには想像も出来ない。
オリネロッテは素晴らしい。大好きだ。ミーアにとって、崇拝の対象だ。掛け替えのない人だ。
――サブローよりも?
不意に、ミーアは頭を鈍器で殴られたような衝撃を覚える。
ミーアは、サブローよりもオリネロッテのほうが好きなのだろうか?
変わり映えのしない日常の中、突然の出会いでミーアの運命を一新してしまったサブローよりも?
ミーアの負傷に激怒し、ホワイトカガシの頭を炎の魔法で吹っ飛ばしたサブローよりも?
自分の命を削るように光魔法を行使して、ミーアの大怪我を治してくれたサブローよりも?
ミーアを獣人の森から外の世界へと連れ出してくれたサブローよりも?
ミーアの命を救ってくれたサブロー。
ミーアに村の外へ飛び出す勇気をくれたサブロー。
笑顔でミーアの手を引いてくれるサブロー。
いつまでも一緒に居たいサブロー。
サブローは、ミーアの憧れ。ミーアの夢。ミーアの希望。
なのに。
ミーアは、サブローよりもオリネロッテのほうが好き? オリネロッテのほうが大切?
ミーアは、サブローの隣では無く、オリネロッテの側に居たい?
そんなはずは無い。
そんな訳は無い。
いくらオリネロッテを好きになったとしても、ミーアの中で彼女がサブロー以上の存在になることなんて、あり得ない。
サブローは、ミーアにとって『大切な大切な、たった1人の人』なのだから。
「サブローにゃ! アタシ、サブローのことが大・大・大好きなのにゃ!」
ミーアがそう叫ぶと、サブローは感極まったかのようにいきなりミーアをガバッと持ち上げて抱きしめた。
「ありがとう! ミーア。嬉しいよ」
ミーアを、両腕でギュッとかき抱くサブロー。
サブローの胸とミーアの胸が、重なる。連動する、2人の心臓の響き。
次いで、サブローは首を傾けて自分の右頬をミーアの右頬にくっつけた。2人の身体が、これ以上無いほど密着する。
「にゃにゃにゃにゃ。サブロー! にゃにするニョ――――!!」
ミーアの頭の中が真っ白になる。困惑。幸せ。恥ずかしい。こんなに感情が高ぶる経験は、生まれて初めてだ。
あまりの興奮に、このまま昇天してしまいそう。
「《破邪顕正》」
ミーアを腕の中に収めたまま、サブローが独言する。
途端に、サブローの身体より、不可思議な精気がミーアの身体へ激越な勢いで流れ込んできた。
その正体を、ミーアは知覚できない。でも凄くキレイで、清らかで、気持ち良いモノ。
ミーアの小さな肢体が、ビクンビクンと大きく震える。単なる快感をはるかに凌ぐ、恍惚と陶酔だ。
光の奔流が、ミーアの五体と精神の中で荒れ狂う。そして邪なモノを洗い流していく。
しばらく経って、茫然自失状態のミーアをサブローは丁重に扱いながら床へと下ろした。
ミーアは、ペタリとしゃがみ込んでしまう。まだ、力が入らない。身体は甘美に痺れて、心はフワフワしている。夢の中に居るみたいだ。
「あ、あの、ミーアちゃん、大丈夫?」
遠慮がちにおずおずと声を掛けてきたその人へ、ミーアはボンヤリしつつも自然に言葉を返していた。
「へ、平気にゃよ。フィコマシー様」
♢
「へ、平気にゃよ。フィコマシー様」
ミーアの返答を聞いた瞬間、フィコマシーは硬直した。息を呑み、それでも何とか言辞を絞り出す。
「そう、良かったわ。ミーアちゃん」
「にゃんか、久しぶりにフィコマシー様とちゃんとお話ししたような気がするニャ。どうしてかな? 変なニョ」
「気のせいよ、ミーアちゃん」
泣き笑いの面持ちになるフィコマシー。彼女は膝をついて、ミーアをやんわりと抱きしめる。
猫族の少女は拒絶すること無く、侯爵令嬢の抱擁を静かに受け入れた。
「フィコマシー様、泣いてるニャ?」
「いいえ、泣いてません」
「まさか、誰かがフィコマシー様をイジメたのニャ? もし、そうなら、アタシがその悪いヤツをヤっつけてやるニャン。だから安心するニャ、フィコマシー様」
「ありがとう。ミーアちゃん」
フィコマシーとミーアのやり取りに、シエナの心が震える。
どういう事情か判然としないが、ミーアがフィコマシーの言動をハッキリと認識してくれるようになった。今し方のサブローの振る舞いが影響していることは、間違いない。
サブローがミーアを唐突に抱きしめたときは、さすがにシエナも肝を潰した。
(え! サブローさん、何をしているの? そんな、ハレンチな、節度に欠ける、不埒千万な行い、止めさせなきゃ。けれどサブローさんのことだから、私の愚考では及びもつかない深遠な理由があるのかも。でもでも、羨ましすぎる!)
シエナは、身悶えしてしまった。
サブローに抱きしめられている、ミーアが羨ましい。ミーアを抱きしめている、サブローが羨ましい。
ミーアになって、サブローに抱きしめられたい。
サブローになって、ミーアを抱きしめたい。
欲望が短絡的すぎるシエナへは、『二兎を追う者は一兎をも得ず』という諺を送るべきだろう。
結果としてミーアは心身を回復させ、フィコマシーと仲良く語り合っている。これも全て、サブローのおかげだ。
シエナの胸の内は、サブローへの感謝の気持ちで一杯になった。
(ありがとうございます。サブローさん)
シエナはサブローへ礼を述べようと、彼の姿を探す。
サブローは、マコルをジリジリと壁際に追い詰めていた。
面妖な笑みを浮かべつつ、両手を大きく左右へと広げるサブロー。普段の冷静沈着な態度はどこへやら、焦りまくっているマコル。
「さぁ、マコルさん。何も、心配することはありません。僕が、貴方を〝本当の貴方〟へ戻して差し上げます。心置きなく、僕の胸に飛び込んできて下さい」
「イ、イケないよ、サブローくん。私たちは男同士。年の差も問題だ。それに、私には愛する妻と2人の子供が……」
「何もかも、一瞬で済みます。2人きりの秘密にしましょう」
「サブローくん……」
(なにヤってるの、サブローさん――――!)
シエナは心の中で絶叫した。
次回……サブローがマコルを攻略(爆)します。




