フィコマシーの涙
シエナ視点です。
♢
サブローが自身の左手を串刺しにした光景に、シエナの頭の中は真っ白になった。
(サブローさん、いったい何を――――)
現在の状況を把握しようと努めるシエナの目の前で、サブローは次の行動に移る。掌を突き抜けて、おそらくテーブルに刺さっているであろう縫い針を、今度は一気に引き抜いたのだ。
血が飛び散り、不気味な赤色に染まった巨大針が露わになる。
「ぐぅぅぅ!」
サブローは呻くが、それでも叫び声は発しない。
通常のケガによる痛みなどとは比較にならない、失神してもオカしくないレベルの激痛だろうに。
少年の唇の端より血が滴り落ちる。苦痛を堪えるために歯を食いしばりすぎて、奥歯が砕けている可能性もある。額からは滝のような脂汗。左手は、傷口より噴出する血液で、既に真っ赤になっている。
凄惨な姿であった。
あまりに突然なサブローの自傷行為。
まさか、サブローは錯乱してしまったのだろうか?
身体が竦んで、1歩も動けないシエナ。
他の面々も、この異常事態に脳の働きが付いていかず対応できない――――かに思えた。
『サブロー!! 何をヤッてるんニャ!』
沈黙を破り、真っ先にサブローへ駆け寄ったのはミーアだった。
『うにゃぁぁ、血が、いっぱいニャ。痛そうニャン。サブロー、サブローしっかりするニャン!』
「だ、大丈夫だよ、ミーア」
『ニャにが、大丈夫なのニャ! 全然、大丈夫じゃないニャン』
パニックになりつつも、サブローの左手から溢れる血をなんとか止めようと必死になるミーア。両手の肉球で、サブローの左手をモニュっと挟んだりしている。
もちろん、そんなやり方で出血が収まる訳は無い。ミーアの手まで、サブローの鮮血に塗れていく。
「ミーア、汚れちゃうよ。手を離すんだ」
『イヤにゃ! 離したりなんか、しないのニャ。サブローの血が付いたせいで汚れるなんて、あり得ないのニャ。馬鹿ニャこと、言わニャいで!』
ミーアは、サブローの出血をどうにかしようと、ひたすら一生懸命だった。
そこには戸惑いや躊躇い、警戒や怖れといったモノは微塵も存在しない。あるのは、ただサブローの身を案じる純粋な心だけ。
シエナは、サブローからフィコマシーを守ろうとする体勢を崩そうとしない我が身を省みて、微かな敗北感をミーアに覚えた。
呆然と立ち尽くすシエナの肩を、誰かが叩く。
振り返ると、椅子から立ち上がったフィコマシーがシエナの真後ろまで来ていた。
「シエナ。すぐに、屋敷に常駐している救護員を呼んできて」
「お嬢様! 今、私がお嬢様のお側を離れるのは……」
「私なら、平気です。それより、サブローさんの治療を優先しないと」
(フィコマシーお嬢様は、お優しい。でも……)
ここで自分が首を縦に振ってしまって良いのだろうか?
シエナは、迷う。
サブローの真意について、何一つとして分かっていないのに。
シエナは、思う。
自分は、サブローさんが好きだ。サブローさんが大切だ。サブローさんが心配だ。けれど自分が最も優先しなければならないのは、フィコマシーお嬢様の安全なのだ。
グズグズしながら足を動かそうとしないシエナに痺れを切らしたのか、いつも穏やかなフィコマシーには珍しく、語気が強まる。
「シエナ、早く行って!」
「お嬢様、しかし……」
「シエナ!」
「フィコマシー様。ご配慮、ありがとうございます。でも、僕のケガは大したことないです。見過ごしていただけませんか? 関係の無い他人に、フィコマシー様の私室へ入ってきて欲しくありませんし」
「お嬢様、サブローさんも、こう仰って…………え! サブローさん!?」
シエナは驚いて、サブローへと顔を向けた。
シエナと目を合わせたサブローが、笑顔を見せる。
絶え間ない責め苦のために汗をビッショリと掻き、唇はひび割れ、目は充血している。酷い有様ではあるが、それでもなおサブローの表情は温かく、シエナへの労りに満ちていた。
「フィコマシー様……屋敷に招かれて以後の数々の無礼、お許しください。シエナさんも不安で、僕の振る舞いに腹が立つことも多かったでしょ? これより挽回していくから、お仕置きは暫く待っていて欲しいんだけど……」
フィコマシーへ頭を下げる一方で、シエナには茶目っ気のある視線を向けるサブロー。顔付きをなるべく柔らかく見せようと、少年が極限まで努力していることが少女たちには分かった。
(ああ……)
シエナは、胸が詰まって何も言えなくなってしまう。
(戻ってきた。本当のサブローさんが、戻ってきてくれたんだ)
先刻までのサブローは、どうしてあんな言動をしていたのか? 縫い針による刺突と正気に返ったことには、如何なる因果関係があるのか?
サブローに尋ねたい疑問は、山ほどある。
しかし、今は、良い。今は、何も訊かない。
強くて優しいあのサブローが、自分とお嬢様のもとへ、帰ってきてくれた。その一点だけで、充分だ。
シエナは、神様に感謝する。
(よくよく考えてみれば、私の人生で神様に祈ったことはあっても、感謝の気持ちを捧げたのは生まれて初めてね)
ギュッと、フィコマシーがシエナの袖を掴む。
侯爵令嬢の指先が、僅かに震えている。サブローが、やっと〝フィコマシー〟という――彼女の名を口にしてくれた。普段は冷静なフィコマシーも、歓喜と感激を抑えきれないに違いない。
(良かったですね、お嬢様)
フィコマシーへ声を掛けようとしたシエナは、衝撃を受ける。フィコマシーの碧眼の両端より、ポロポロと涙がこぼれ落ちていたためだ。
「お、お嬢様」
シエナは、オロオロしてしまう。
シエナが、フィコマシーの泣き顔を見るのは何年ぶりだろう。
気丈なフィコマシーは、瞳を潤ませたりはしても、余程のことが無い限り涙を見せたりはしない。侯爵令嬢としてのプライドが、他者に弱みを見せる失態を自身に許さないのだ。
唯一の味方とも言うべきシエナは〝他者〟では無いが、フィコマシーは彼女には、なるだけ心労を掛けたくないと思っている。
結果として、いじめに近い無慈悲な扱いを受けても、フィコマシーは泣き顔を見せずに乗り切るような気性になってしまった。
そんな誇り高い侯爵令嬢が、いま泣いている。
(私が、最後にお嬢様の涙まじりのお顔を拝見したのは、幾年前になるのかしら。そう、奥様がお亡くなりになられた時だから、かれこれ、6、7年も昔なのね……)
そんなにも長い間、フィコマシーにとっては10代の青春の丸ごとが、『泣くことを許されない歳月』だったのだ。
シエナはフィコマシーの過酷な少女時代に胸を痛めつつ、お嬢様にようやく涙を流させてくれたサブローへ心より感謝した。
もっとも、フィコマシーを泣かせたことへのチョッピリの恨みと嫉妬の念も抱いてしまったが。
「うわぁ~ん、『血が』止まらない、ニャン」
ハンカチを取り出してフィコマシーの涙を拭っているシエナの耳に、ミーアの嗚咽としゃくり上げる声が飛び込んできた。惑乱の極みにあるミーアは、人間語と猫族語をゴッチャにして叫んでいる。
(そうだ! 私ったら、いくらフィコマシーお嬢様の泣き顔が可愛かったからと言って、負傷したサブローさんを放っておくなんて〝未来の嫁〟として失格だわ)
……お馴染みのフレーズ、〝未来の嫁〟が出てきた。
サブローの復活にともない、駄メイドは通常のポンコツ加減を取り戻したらしい。
シエナとフィコマシーは、頷き合う。
2人は手を取り合って、サブローのもとへと走っていった。
「サブローさん、お気を確かに。何か私に出来ることは?」
サブローの額の汗を、自身のドレスの袖口で拭き取るフィコマシー。
「救護員に来てもらいたく無いのでしたら、私が手当てします。多少は治療の心得もありますので」
シエナは、サブローの左手に負った傷口を診ようとした。
「フィコマシーお嬢様、シエナさん。お気遣い、感謝します。でも、ケガは自業自得なんで、構わないでください。しばらく、この痛みを味わっていたいんです」
「サブローさん、何を仰っているのですか?」
サブローの思いも寄らぬ物言いに、フィコマシーが戸惑う。
「左手の痛苦は、自分に対する罰なんですよ。今後油断しないための、良い戒めにもなります」
シエナには、サブローの喋っている内容の意味が全く理解できない。
言い交わしあってる最中にも、サブローの左手から血は止めどなく流れ出ていく。
血管の損傷は深刻だ。筋肉や骨へのダメージも気掛かりだが、このまま放っておけば出血多量でショック状態になりかねない。
『サブロー! サブロー!』
ミーアが、涙ぐみつつサブローの名を連呼する。
サブローたちの傍らへ緩慢な足取りで歩み寄ったマコルが、年長者らしい落ち着いた声で少年へ語りかけた。
「サブローくんに如何なる信念があるのか、私には分かりかねます。しかし、さすがにミーアちゃんを動揺させ過ぎですよ、サブローくん。ミーアちゃんを泣かせる行いには、どのような理由があろうとも、納得も感心も出来ません。やはり、早急に手当てをすべきです」
「マコルさん。けれど、これは自分への処罰という意味合いもありまして、サッサと治療してしまっては、咎めにならないんです」
「ケガをつかの間放置して、苦しみを感じ続けたいと?」
「その通りです、マコルさん」
「……フム。つまるところサブローくんには、被虐趣味がある訳だ。自らの性癖を満足させる絶好の機会を逃したくないのですね」
マコルが、重々しく点頭する。
(ええ! サブローさんには、そんな隠れた嗜好があったの!)
シエナは、驚倒した。
客観的に見れば、驚くメイドのポンコツ脳内の仕組みこそが、まさに驚きなんだが。
(被虐趣味って、アレよね。『痛いの大歓迎。興奮しちゃう!』ってヤツよね。つまりサブローさんは、ム、ムチで叩かれたり、溶けたロウソクを垂らされたり、縄で縛られたり、良く知らないけど三角形の木馬の上でサーフィンしたりするのを嬉しく感じちゃう人なのかしら)
シエナの顔が、真っ赤になった。サブローに負けぬほど、顔色が変わっている。
ちなみにサブローの場合は激痛を我慢しているための赤面だが、シエナの場合は羞恥に耐えかねての紅潮だ。
(わ、私、そんな特殊な好みを持つ方と、お付き合い出来るのかな? いえ、怖じ気づいちゃダメよ、シエナ。〝お嫁さん〟は〝旦那様〟の趣味嗜好に共感できなくても、最低限黙認してあげるべきだって、先生も言ってたわ。それこそが、夫婦円満の秘訣だって)
もちろんシエナが『先生』と呼んでいるのは、例の女剣士である。武芸に関しては良い師匠であったが、男女関係についてはシエナをポンコツ化させた元凶だ。
♢
~かつて交わされた女剣士(20代前半)とシエナ(当時10代前半)の会話~
「アタイの父ちゃんはな、酒の空き瓶やらラベルやら蓋やらを手当たり次第に集めるのが趣味だったのさ」
「何それ?」
「さぁねぇ。アタイには、ガラクタとしか思えなかったよ。ラベルや蓋はただのゴミだし、空き瓶はケンカで敵さんの頭をカチ割るぐらいしか使い道は無いもんね」
「先生、過激」
「時々、父ちゃんは楽しげに『これは、アウディガス王の治世7年に限定70本で販売されたドルボレー産特別醸造麦酒の瓶の蓋なんだよ』とか言いながら、酒瓶の小汚い蓋を〝秘密の宝箱〟から取り出しては自慢してたな」
「訳分かんない」
「『コレクター垂涎の品なんだぜ』と偉そうに言う父ちゃんがウザイから無視してたら、ションボリしちゃってたな」
「うん、ウザイ」
「でも、母ちゃんはそんな父ちゃんの戯言に根気よく付き合って上げてたんだ。『さすがね、貴方。こんな貴重な瓶の蓋を持っているのは、ベスナーク王国でも貴方くらいよ』とヨイショしたりもしてたな」
「お母さん、スゴい」
「あるとき、アタイ、母ちゃんに訊いてみたんだ。『母ちゃんは、父ちゃんが集めてる空き瓶やら蓋やらラベルやらを、本当に値打ちがある品だと思ってるの?』って」
「お母さん、なんて?」
「鼻で、笑ってた。けど母ちゃんが父ちゃんの趣味を否定しなかったおかげで、家の夫婦仲はいつも良好だったんだよ。だからシエナ、お前も好きな男を見付けたら、可能な限り相手の道楽や嗜好を認めて上げるようにするんだ。それが、どれほど突飛で偏ったモノであってもね。許容できないってんなら、結局シエナの想いはその程度なのさ。相手に、本気で惚れてないってことなんだよ」
「なるほど」
~回想、終わり~
♢
ついでながら、女剣士とシエナの側を通りかかり、話を耳にしたスナザは「ああ、またあのオタンコナスにシエナちゃんが染められていく」と嘆いていた。
(わ、私は、サブローさんの特殊性癖を受け入れられるかしら?)
メイドの少女は、不退転の決意で思考する。
シエナの頭の中に、縄で縛られた状態で天井より吊り下げられているサブローの姿が思い描かれる。
やけに、リアルな映像だ。
場所は、薄暗い地下室。何故か上半身が裸のサブロー。そしてメイド服に身を包んだシエナ自身が、サブローをピシリピシリと鞭打つのだ。『さぁ、もっと良い声で鳴きなさい、この駄犬!』と叫びつつ……。
(イ、イケないわ、シエナ。それより先は、考えちゃダメ! あまりにも、不道徳すぎるわ。でも、チョットやってみたい気も……。三角形の木の馬とかにも、ホンの少しだけ興味があるし……サブローさんを跨がらせてから、炎を灯したロウソクの雫をタラーリ落としちゃったりして……ヤダ、サブローさん、火傷しそう。あぁ! な、なんだか、私の身体まで熱くなって……私の心も、一緒に火傷しちゃう! まさに、熱々カップルね。ハ! 私ったら、何を馬鹿なことを)
ホント、馬鹿だ。
「違います! 僕に、被虐趣味なんてありません。誤解しないでください! マコルさん」
「フム、隠さなくて良いんだよ。嗜好性癖とは、その人の個性そのもの。他人に迷惑を掛けない限りは、どのような倒錯趣味を持っていても恥じることは無い。まぁ、むやみに公表する必要も無いが、自分の好みを否定するのだけは、不可だ。己を偽っては、人生が貧しくなってしまうからね。懸念することは無いぞ、サブローくん。探せば、同好の士は意外と簡単に見付かるものだよ。私が、保証する。同じ趣味の者と交流すれば、人生が、より楽しくなること請け合いだ」
さすが、《世界の片隅から獣人を愛でる会》会員のマコル。ケモナーの鑑。含蓄に富む発言である。
一方、メイドは高ぶっていた。
「そうですよ、サブローさん。私は、サブローさんの趣味や性癖なら、どんなに異常で変態的で倒錯的なモノであろうとも受け入れる覚悟は出来ています。ムチでもロウソクでも三角形の木製お馬さんでも、どんと来いです! メイドに、お任せなのです! トリプルプレイでスリーアウトなのです!」
シエナが、サブローに急接近する。
「ちょ! シエナさん、涎が垂れてるよ。目は血走っているし、息は荒いし、僕、怖い! あと、〝三重殺〟で〝三死〟って、いくら何でも、プレイが過激すぎ!」
『ニャ? サブローは痛いのが、好きニャの? 過激にして欲しいって、思ってるニョ? それニャら、爪で引っ掻いてあげるニャン』
シャキーン! と爪を飛び出させるミーア。サブローの血でベトベトになっている肉球とは対照的に、ピカピカのツヤツヤである。
猫族少女は、爪の手入れを毎日欠かさないのだ。
「サブローさん。サブローさんに、よもや、そんなご趣味があろうとは……私、想像だにしておりませんでした。けれども聞くところによると、被虐趣味や加虐趣味は上流階級の嗜みとも言われ、耽溺する貴族の者も多いとか……。日常生活に差し障りの無い範囲でしたら、私は何も申しません。ご入り用でしたら、10尾タイプのバラムチだろうと、全頭マスクだろうと、お尻叩き用の板だろうと、全身拘束具だろうと、三角木馬だろうと、私が頑張って取り揃えてみせます!」
妙な方向に張り切るフィコマシー。
しかも何気に、その道の専用道具名をやたら知っている。不思議だ。
「フィコマシー様まで! わ、分かりました。これ以上、勘違いされちゃ堪りません。ケガを治します!」
サブローが悲鳴を上げるように宣言すると、フィコマシーは首を傾げた。
「遠慮することは無いのですよ、サブローさん」
「いいえ! すぐに治して、僕が真っ当な気質の人間であると言う事実を証明します!」
「しかし、サブローさん。私の部屋に、治療するための薬剤や器具はありませんが……」
「何も要りませんよ。フィコマシー様」
サブローは微笑むと、血まみれの己が左手を宙に翳した。
「サブローさん、まさか……」
シエナが呟く。
思い出すのは、少年が馬車を襲った賊たちへ救急処置を行っていたシーン。あの時、サブローは……。
「《外傷治癒》」
サブローが、小声で唱える。
彼の左手は淡い光に包まれた。その神秘的で美しい眺めに、部屋の中の誰もが見入ってしまう。
光が収束すると、サブローは左手に付いた血糊をゴシゴシと無造作に布切れで拭き取った。
言葉も無くサブローの動作を見守っている少女たちへ、サブローはまず左手の甲を示し、次いで掌を見せる。
縫い針の貫通によって出来ていたはずの傷跡は、キレイさっぱり無くなっていた。
話の前半と後半で、かなり雰囲気が違いますね。2話に分けたほうが良かったかな?
そして、スキあらばポンコツ化するメイドリームさん……(涙)。




