世界は残酷なお伽話
シエナ視点、続きます。
♢
サブローの冷たい眼差しに立ち竦む、フィコマシー。
シエナも固唾を呑む。
常にフィコマシーへ敬意を示すのを忘れず、親愛の情まで見せてくれていたサブローが、これほど辛辣で酷薄な表情を彼女へ向ける日が来るなんて。
部屋の中の温度が急激に下がってしまったかのような錯覚を、シエナは抱いた。
「サブローさん……」
フィコマシーの声が、掠れる。それでも錆び付いた車輪を回すように、フィコマシーはぎこちないながらも一生懸命にサブローへ語りかけた。
「オリネロッテに会われて、どう思われましたか?」
フィコマシーの質問内容に、シエナは虚を突かれる。
これまでフィコマシーがオリネロッテに対する感想を他の人間へ自ら問いかけてみたことなど、シエナの知る限り無かったからだ。フィコマシーはシエナとの間でさえ、オリネロッテの話題を極力持ち出そうとはしないのだ。それなのに……。
フィコマシーの苦しい胸の内を察し、シエナの心が戦慄く。シエナと同じように、フィコマシーはサブローへの期待を未だ手放せないのだ。
未練か。執着か。あるいは、もっと別の想いなのか。
しかしサブローは、そんな主従の懊悩に頓着しない。
「オリネロッテ様ですか!」
オリネロッテの名前が出た途端、それまで素っ気なかったサブローの顔つきが一転して明るくなる。
「素晴らしい方ですね。お美しいし、お優しいし、気品に溢れて居られる。あれほど魅力的な女性が、この世界に存在するなんて信じられません。まさに、神の御業。彼女こそ、本物の侯爵令嬢ですよ」
酔ったようにオリネロッテを礼賛しつづけるサブロー。
かつてサブローは『白鳥はダメダメ、ブタは可愛い』と馬車の中で述べていた。己が何気なく口にしただけの戯れが、フィコマシーにとってどれほど嬉しいセリフだったのか、サブローは知らないだろう。
そのサブローが、今では白鳥の優美さを卑屈なまでに褒め称える野鳥の一羽に成り果てている。
そして、サブローは言う
『オリネロッテこそ、本物の侯爵令嬢だ』と。
ではフィコマシーは?
今、サブローの目の前に居るフィコマシーは?
彼女は偽物、あるいは紛い物の令嬢だとでも?
フィコマシーはショックを受けた表情となり、さながら打たれたかのように1歩後ろへ蹌踉めいた。
『サブロー、何をしてるのニャ? 早く、オリネロッテ様を追いかけるニャン。マコルさんたちは、もう行っちゃったニョ』
ミーアがサブローの側へ寄ってきて、彼の腕を引っ張る。フィコマシーには、見向きもしない。
ミーアは、あれほどフィコマシーに懐いていたのに。
ロスクバ村の村長の家で、タントアムの町の宿で、馬車の中で、ミーアはいつも楽しげに笑いながらフィコマシーと人間語の練習をしていた。
あの光景は、幻だったのだろうか?
「ああ。分かったよ、ミーア。オリネロッテ様を、お待たせする訳にはいかない」
サブローはミーアにそう答え、フィコマシーを一瞥する。
「もう、宜しいですか?」
「…………」
喉が詰まったのか、返答できないフィコマシー。
けれどもサブローにとって、フィコマシーの反応など、今となってはどうでも良いようだ。口を噤んでしまったフィコマシーに、サブローは関心のカケラも示さない。
ミーアと連れだって、サブローはそそくさと部屋を出て行った。
リアノンとマコルは、とっくに居なくなっている。
控えの間に、フィコマシーとシエナの2人だけがポツンと取り残された。
ガランとした室内。
寒い。
季節は、春であるにもかかわらず。
シエナは、自らの身体をかき抱く。春の夜の暖かさなど、微塵も感じられない。
床が微かに軋む音を耳にして、シエナはハッと我を取り戻す。
見ると、立っていられなくなったフィコマシーがフロアに崩れ落ちていた。
「お嬢様!」
しゃがみ込んで床を呆然と見つめているフィコマシーのもとへ、シエナは慌てて駆け寄る。
「シエナ……シエナ……」
フィコマシーが、シエナに取りすがる。
こんな弱々しいフィコマシーの姿を、シエナは目にしたことが無かった。
どれほど辛い状況の中でも、凜とした姿勢を保ち続けてきたフィコマシー。
数限りない誹謗中傷に晒されようと、彼女は挫けなかった。彼女の心底には、侯爵家に生まれた貴族としての揺るぎない信念と誇りがあったのだ。
それが今、見る影も無い。
シエナは直感する。
フィコマシーの生き様を支えてきた心棒が、この瞬間、ポッキリと折れてしまった。
フィコマシーが、身体を小刻みに震わせつつ幼子のように啜り泣く。
シエナは、主の肩をシッカリと抱きかかえた。
そのあまりのか細さと頼りなさに、シエナは戸惑う。肥満体質のフィコマシーの肩は、同年代の少女たちより大きくて肉厚だったはず。
16歳の少女に過ぎなかったフィコマシー。
彼女の肩は、もはや重荷を背負えるだけの力を喪失していた。
メイドである自分は、本来ならここでフィコマシーを励まし元気づけなければならない。
(お嬢様を、慰めて差し上げなくては!)
シエナは、自分に言い聞かせる。
だが、無理だった。頭が、働かない。口を、動かせない。
オリネロッテと出会って以降のサブローは、フィコマシーだけで無く、シエナのことも丸っきり無視していた。いや、無視と言うより、忘れてしまっていた。
サブローの中では、自分など、その程度の重みでしか無かったのか。
己のちっぽけさを改めて突き付けられ、シエナは無力感に苛まれる
フィコマシーへ掛けるべき言葉を、シエナは見付けられない。
出来るのは、ひたすらに互いの体温を感じることのみ。
(お嬢様と私。まるで私たち2人だけが、世界から疎外されてしまったみたい)
シエナは幼い頃、母からお伽話を語ってもらうのが好きだった。
早くに亡くなった母。記憶も朧気。しかし母が毎晩、子守歌代わりに聞かせてくれたお伽話の数々は、不思議と今でも鮮明に覚えている。
母の優しい声で紡がれていく、幸福な物語。幸福な結末。
『……そしてお姫様は王子様と結ばれ、いつまでも幸せに暮らしました』
けれど、成長した17歳のシエナは考える。
お伽話のお姫様は、確かに幸せになれた。それでは、他の人間は? 王子様とお姫様以外の登場人物たちは、幸せになれたのだろうか?
取りわけ、お姫様に関わった多くの女性たち。
お姫様の義理の姉は?
義理の母は?
お姫様にチョットだけ意地悪をしたライバルの令嬢は?
お姫様を拐かした魔女は?
拉致されるお姫様を見ているだけしか出来なかった侍女たちは?
彼女たちの行く末は、どうなったの?
幼いシエナは、知らなかった。気にも留めなかった。だって、ちっちゃなシエナは、お姫様が幸せになったことだけで満足していたから。
母の穏やかな声に導かれて心地良く眠り、自分がお姫様になる夢を見た。
でも、もうシエナは知っている。
お姫様の周りに居た女性たち。彼女たちの末路は、既に決まっていたのだ。《幸福なお伽話》に相応しくないため、敢えて誰も口にしようとしなかっただけ。
彼女たちは、断罪され、処罰され、排斥され、退治され、責任を取らされた。
お姫様が幸せになるための生贄にされたのだ。
《幸福なお伽話》の裏側には、残酷な真相が隠されていた。
お伽話は、実相の寓意化。
現実も、お伽話と変わらない。
幼いシエナにお伽話を語ってくれた母が亡くなり、その母の後を追うように父も亡くなった。
1人ぼっちになってしまったシエナを可愛がってくださった侯爵夫人は病弱で、逝去される前は、半分ベッドで寝たきりの生活を余儀なくされていた。
夫人が世を去り、バイドグルド家の中で次第に孤立してゆくフィコマシー。シエナは、一途にフィコマシーに寄り添い続けた。
周囲の人間は挙ってオリネロッテを褒め称え、フィコマシーを貶めようとする。
それでもフィコマシーとシエナは、ひたむきに生きてきた。
そして、やっと見出した光明――黒髪の強くて優しい少年と、無邪気で可愛い猫族の少女。
暗闇を照らしてくれる2つの灯火。
ズッと隣に居て欲しかったのに。
一瞬のうちに、奪われた。呆気なく、取り上げられてしまった。
奪っていったのは、お姫様。
前々から多くの人に愛されて慕われて、何もかも手に入れているお姫様。
フィコマシーとシエナが長い旅路の果てにようやく巡り会えた僅かな希望を、彼女は興味本位で持っていく。
あたかも、世界は彼女のためだけに存在しているかのような気安さで――
世界は残酷だ。
残酷なお伽話だ。
お伽話で幸福になれる女性は、お姫様ただ1人。
義理の姉にとって、義理の母にとって、ライバルの令嬢にとって、魔女にとって、侍女にとって、お伽話は『救いの無い物語』でしか無い。
シエナは、怖かった。
オリネロッテがお伽話に登場する〝お姫様〟なら、フィコマシーとシエナに割り振られている役柄は?
物語の終わりで、思い知らされるハメになるのだろうか?
神の使いか、悪魔の僕か。顔を見せない、誰かが囁く。
『フィコマシーとシエナ。貴方たちは、お姫様が幸せになるために饗される供物にすぎないのよ』と。
(そんな訳ない!)
心の中で叫ぶシエナに、追い打ちを掛ける声。
『最後の救いは、あの少年だった。だけど、残念ね。彼は、お姫様のモノになっちゃったわ。サヨウナラ。もう、諦めなさい。おねんねの時間よ、シエナ』
イヤだ。私は、絶対に眠ったりしない。
シエナは、必死に決意を固める。
(サブローさんが居なくなっても、ミーアちゃんが居なくなっても、お嬢様は私が守るんだ!)
シエナは、気付いている。
一度眠りに就いてしまえば、待っているのは〝覚めることの無い悪夢〟だと。




