そして未来は閉ざされる
シエナ視点です。
♢
オリネロッテが室内に入ってきた途端、控えの間の空気は一変した。
それまでは、各個人が等質な存在として、自己を主張していたのだ。早い話が、皆でワイワイガヤガヤ楽しくやっていた。
だがオリネロッテという主役の登場で、彼女以外の人間は一気に端役へ成り下がる。
フィコマシーと仲の良かった令嬢も、シエナに親切にしてくれたメイド仲間も、オリネロッテを讃えるためだけに用意された操り人形と化してしまう――シエナは、そんな光景を何度も見てきた。
「お姉様、ご無事で良かった。道中でトラブルがあったと聞いて、案じていたのです」
オリネロッテが、フィコマシーの側へ駆け寄る。
「ええ。私の身には、何の障りもありませんよ、オリネロッテ。心配してくれて、ありがとう」
オリネロッテの唐突な出現に戸惑っているのか、フィコマシーの口調は丁寧ながらも上擦り気味だ。
供の者が2人、オリネロッテに付き従っている。
1人は、長身の若い騎士。オレンジの髪に端正な顔立ち。甘いマスクとは対照的な、鍛え抜かれた体躯。
バイドグルド家随一の使い手として名高いクラウディだ。
もう1人は、背の低い全身黒ずくめの少女。ミーアと同じ程度の身長しかない。黒い瞳に黒い髪は、サブローとお揃いである。顔も、サブローほどでは無いが平面っぽい。ベスナーク王国では、あまり見掛けない異国的な風貌だ。
髪はおかっぱで、目は眠たそうにショボショボしている。
(あ――)
シエナは思い出した。
王都の屋敷で、オリネロッテに影のように付き添っている彼女の姿をしばしば目にしたことがある。その任務は、人づてに聞いた話によると、〝侯爵家次女の補佐と護衛〟。
(何というお名前だったかしら? でも、確かあの方は――)
そう、彼女の正体は――魔法使い。
服装に無頓着なのか、己が職業を明示したいのか、常に黒いローブを身に纏っている。
数が少なく貴重な魔法使いを、令嬢――しかも次女の側仕えにするなど、通常の貴族の家ではあり得ない。しかしオリネロッテを溺愛している侯爵は、常識外の人材配置を平然と行っているのだ。
クラウディも魔法使いの女性も、シエナの顔見知りではある。
とは言え、直接言葉を交わした経験は殆ど無い。身分の差に加え、オリネロッテの近侍である2人の行動範囲や生活圏が、シエナとは全く違っているためだ。
そもそも一介のメイドなど、2人の眼中には無いだろう。
むしろ、彼らの主人であるオリネロッテのほうが、シエナのことを気に留めているかもしれない。
フィコマシーが、オリネロッテへ掛けるべき言辞に迷っている。
シエナは思い切って1歩前へ進み出た。
「オリネロッテ様」
「ああ、シエナ。貴方も大丈夫そうね。安心したわ。貴方は、いつもお姉様の側に居てくれる。まさに、メイドの鑑ね」
「身に余るお言葉です。それで……その、無礼とは存じますが、伺っても宜しいでしょうか?」
「何かしら」
「オリネロッテ様は王都に居られたはず。何故、ナルドットに?」
シエナの疑問も、尤もだ。
今回の春の休暇において、侯爵がナルドットへ呼び寄せたのはフィコマシーだけなのである。オリネロッテは珍しく、王都ケムラスにあるバイドグルド家の屋敷に留まる予定だった。
『お父様が、私だけをお呼びくださったのよ』と少しばかり興奮気味に報告してくれたフィコマシーの笑顔は、今もシエナの瞼の裏に焼き付いている。
オリネロッテにばかり目を掛けてフィコマシーを些かも顧みようとはしない侯爵が、フィコマシーのみをナルドットに誘ってくれた。そのことがフィコマシーには、たまらなく嬉しかったに違いない。
それなのに――
「うふふ。それはね」
オリネロッテが、イタズラっぽく微笑む。
「お姉様が旅立った後、私もすぐに王都を出発したのよ。お父様と手紙をやり取りしながら、コッソリ計画を立てていたの。今度の春休みには、お父様とお姉様と私、家族3人一緒にナルドットで過ごそうって。でも、お姉様を驚かせたくて、内緒にしていたの。お姉様と同じ日のうちにナルドットに着いてビックリさせる予定だったのに、どういう訳か私のほうが先にナルドットへ到着しちゃったでしょ? お姉様は一向に姿をお見せにならないし。私がビックリオロオロさせられちゃったわ」
オリネロッテが、可笑しそうにクスクスと笑う。
けれど、シエナは笑えなかった。
フィコマシーは「そう……」と曖昧な表情で呟く。
親子3人で休暇を楽しむ――それは、決して悪くないアイデアだ。オリネロッテも、よかれと思ってお膳立てしたのだろう。
だが、フィコマシーはきっと侯爵と2人で過ごしたかったに違いない。
シエナは、フィコマシーの胸中を思い遣った。
更に、シエナは推測する。
やはり一昨日の襲撃は、フィコマシーがオリネロッテと勘違いされた結果なのだろうか?
侯爵がオリネロッテの往路における安全を確保するために、フィコマシーを先行させて囮にしたなどとは考えたくもないけれど、もしそうだとしたら……。
いや、サブローが馬車の中で教えてくれたではないか? タントアムの旅館に侵入してきた男が『王子の命令で動いている』と喋っていたと。
オリネロッテに夢中の王太子が、〝白鳥〟の身を危険に晒す行いをするなど、あり得ない。ならば動機は不明ながら、王太子が如何なる手段を用いてかフィコマシーの旅程を知り、襲撃を指示した可能性も……。
どちらの想像が当たっていたとしても、最悪であることに変わりはない。
いっそ、金品目当てのただの盗賊であってくれたら、どれほど良かったか……。
シエナは、痛いほど唇を噛みしめる。
オリネロッテが、縋るようにフィコマシーへ尋ねる。
「それで、先程キーガンから聞いたの。お姉様、賊に襲われたんですって? 話を耳にした時は、心臓が止まるかと思ったわ。ケガなど、されていないのよね?」
「ええ。サブローさんやマコル様、そしてシエナが私の身を護ってくれたの」
フィコマシーの言及に接して、オリネロッテがサブローへ目を向ける。
「貴方がサブローさんね。お姉様を護って賊を退治するなんて、とても勇敢なのね。私からも、礼を述べさせてもらいます」
オリネロッテの涼やかな声が、サブローに掛けられる。
サブローは、サッと跪き「過分な称揚、恐縮です。偶々居合わせ、僅かばかりの力添えをさせていただいたのみです」とオリネロッテに答えた。
サブローの返事にも物腰にも、オリネロッテに面した驚嘆と感激が溢れている。『浮ついている』と言っても良い。
冷静で穏やかな普段のサブローとは、ほど遠い雰囲気だ。
シエナは、目を背けて咽びたくなる欲求を必死に堪えた。
オリネロッテの前で、ソワソワ落ち着きを無くしながら頭を下げているサブローの姿など、見たくなかった。
「ふふ。サブローさんは、若いのに謙虚なのね」
オリネロッテは艶やかに顔を綻ばせ、サブローの肩へ右手を伸ばす。
(止めて! サブローさんに触らないで!)
シエナは内心、悲鳴を上げる。
オリネロッテの嫋やかな手が、サブローの肩の上に置かれる。
サブローは身体を一瞬だけ震わせ、恐る恐る顔を上げた。
――そして、シエナは目撃してしまった。
オリネロッテを仰ぎ見るサブローの瞳の奥に、憧憬の光が点っているのを。
愛しい初恋の少女に再会した少年のように、サブローの頬は紅潮している。
(ああ……)
シエナは、絶望に駆られる。
間違いない。サブローは、オリネロッテに囚われてしまった。
こんな残酷な場面を眺めさせられているフィコマシーは、どのような気持ちなのだろうか?
現在のフィコマシーの様子を確かめる勇気は、シエナには無かった。
フィコマシーの友人や知人がオリネロッテと出会うや否や、フィコマシーに冷たくなり、オリネロッテへ擦り寄る展開は、今まで幾度も繰り返されてきた。
なのでフィコマシーもシエナも、こんな成り行きには慣れっこのはずだった。
何と言っても、相手はオリネロッテなのだから。
バイドグルド家の〝白鳥〟。
絶世の美貌を誇る、奇跡の少女。
ベスナーク王国の至宝。
王太子が熱愛する婚約者候補。
シエナにとって、フィコマシーは忠誠を捧げた誰よりも大切な主だ。その優れた人柄も熟知している。
しかし、シエナも分かっている。
客観的に見て、フィコマシーがオリネロッテより勝っていると言えるのは、年齢だけなのだ。それ以外で辛うじて同等なのは、学識くらいだろう。
容姿は、かけ離れている。人望は、天と地ほどの差。オリネロッテはダンスの名手だが、フィコマシーは碌に踊れない。
侯爵令嬢でありオリネロッテの実の姉であるフィコマシーでさえ、オリネロッテにはあらゆる点で敵わない。
まして一介のメイドである自分など、比較するのも烏滸がましい――
男性にとっての〝異性〟として、オリネロッテの魅力は他の女性から隔絶している。
多数の少女が居並ぶ場で『オリネロッテとそれ以外の少女、どちらを選ぶか』と問われれば、おそらく全ての男性が迷うこと無く『オリネロッテ』と即答するに違いない。
けれど、サブローは。
サブローだけは――
シエナは、信じていたかったのかもしれない。
『フィコマシー様を助けるべく頑張っていたシエナさんの姿には、心を揺さぶられました』と言ってくれたサブローを。
『白鳥なんかよりも、ブタのほうが好き』と述べて、フィコマシーへ刹那も偏見の目を向けなかったサブローを。
フィコマシーとシエナのために命懸けで戦ってくれたサブロー。
フィコマシーとシエナを侮蔑した騎士たちの態度に、本気で怒ってくれたサブロー。
シエナと一緒になって、怪しげな敵からフィコマシーを守ってくれたサブロー。
サブローは、他の人間とは違う。他の男性とは違う。
サブローなら、オリネロッテと出会っても、フィコマシーと自分のほうを選んでくれるのではないか?
そんな淡い期待をシエナは抱いていたのだ。きっと、フィコマシーも。
でも。
シエナは、ソッと自分の髪を撫でた。
オリネロッテの腰まで届く銀の髪に対し、シエナの髪は灰色で肩までの長さしかない。今まで気にしたことも無かった自分の髪が、急に見窄らしく思えてくる。
オリネロッテの緑の瞳が宝石なら、自分の茶色の瞳はビー玉だろう。いや、石ころか。
オリネロッテの滑らかな白い肌がサテンなら、自分の荒れた肌は麻布だ。
自分にはオリネロッテのような美しさも、教養も、女らしさも無い。
身分の差など関係なく、もともと1人の少女として、自分には何の価値も無かったのでは?
所詮、自分など――
「猫族の女の子が居るわね。貴方、お名前は?」
サブローのように跪かずに立ちっぱなしのミーアにも、オリネロッテは優しく語りかける。
「ミ、ミーアにゃ」
オリネロッテに見つめられて、ミーアは緊張のあまり、喋りがカミカミになった。
「そう……可愛い子ね。お姉様とだけじゃ無く、私とも仲良くしてね」
「も、もちろんニャン」
ミーアの黄金の瞳が、魅せられたようにオリネロッテから離れない。尻尾も、嬉しそうに垂直に立っている。
(ミーアちゃんまで!)
オリネロッテに、掛け替えのない人たちを一切合切持っていかれてしまう。
シエナの心が、軋む。
胸が、痛い。ズタズタに切り刻まれてしまったかのようだ。
続いて、オリネロッテはマコルにも声を掛ける。
床に膝を付いているマコルは、陶酔した面持ちでオリネロッテを見上げる。
大人として商人として、秀でた人となりをフィコマシーやシエナに示し続けてくれたマコル――彼も、呆気なくオリネロッテの手中に落ちてしまった。
「あ、あの、オリネロッテ様!」
リアノンがズイッと身を乗り出したため、クラウディがサッとオリネロッテの前に歩を運ぶ。
「オリネロッテ様に、不用意に近寄るな」
「も、申し訳ありません!」
クラウディの鋭い叱責に、畏まるリアノン。
「良いのよ、クラウディ。それで、何かしら。私に言いたいことでも?」
「ハ! じ、自分はリアノンと申しまして、いつかオリネロッテ様の専属の騎士に選ばれるのを目標に、日々訓練に励んでおります。まだまだ未熟者ですが、いつか必ずオリネロッテ様のお役に立ってみせます!」
「そう、リアノンと言う名前なのね。覚えておくわ。頑張ってね」
「こ、光栄であります!」
オリネロッテに直に返答してもらえたリアノンは、歓喜のあまり声を震わせる。左眼も、潤んでいた。
馬車の中で、フィコマシーの存在をズッと無視しつづけてきたリアノン。その彼女が、オリネロッテに対しては全身全霊で奉仕の意気込みを顕示している。
サブローやミーアも、リアノンのようになってしまうのだろうか?
シエナは、暗澹となった。
サブローやミーアと巡り会えた幸運に、シエナは心より感謝していたのだ。
八方塞がりだったフィコマシーと自分の先行き。暗闇の中、いつ崖下へ転落するか分からない。助けも、無い。
そんな2人の苦しい旅路に、不意に救いの光が差し込んできたような気がして。
『ひょっとしたら、未来は明るいのではないか?』と夢想してしまった。
けれど、希望は急速に薄れていく――――
オリネロッテはサブローたちへ立ち上がるように促すと「これから、私がお父様のところに案内するわ」と先導役を買って出た。
部屋を出るオリネロッテに、クラウディと魔法使いの少女が続く。
〝控えの間を立つ前に、サブローの現在の意志を見極めておかなければならない〟――シエナは、そう思う。
だが、シエナの中にサブローへ問いかける気力は既に残っていなかった。
躊躇うシエナに代わって、フィコマシーがサブローへと歩み寄る。
(お嬢様……)
フィコマシーの心境を想像し、シエナは泣きたくなる。
懸命に笑顔を浮かべながらサブローへ近付いていくフィコマシー。
「サ、サブローさん、あの……」
フィコマシーが、声を振り絞る。
「何ですか?」
フィコマシーへ向き直ったサブローの眼差しを見て、シエナは慄然とした。
少年の黒い瞳には、何の情動も浮かんでいなかった。
それは、処理済みのガラクタを見る目だった。
あっきコタロウ様から素敵なレビューをいただきました。ありがとうございます!




