レッドの体力特訓
僕がイエロー様を決死の思いで(いや、もう死んでるけど)ヨイショしている最中、赤青黒緑は顔を寄せ合って何やらコソコソと話をしていた。
「サブロー。なかなか、やるな」とレッド。
「見事なまでの掌返しですね」とブルー。
「イエローの美しさを、すぐに認めたんや。褒めてやるべきやで」とブラック。
「ブラックは単純ですね。あれは『相手を騙すには、まず自分から』という戦術ですよ。詐欺師の手口です」とグリーン。
赤青黒緑、うるさいよ。
特にグリーン。僕を心理分析の対象にするのは止めてくれ!
「では、今後のサブローに対する訓練のスケジュールを決めよう」とイエロー様。
イエロー様には赤青黒緑の会話は聞こえなかったようだ。機嫌を直したのか、口調から固さが取れている。
出来れば、手に持っているトゲトゲ金棒もしまって欲しいものだ。目に入るだけで、僕の心拍数が上がる。
そう言えば、緊張のドキドキを恋愛のドキドキと勘違いする〝吊り橋効果〟ってものがあったよね。金棒へのドキドキがイエロー様へのドキドキに変換されたら、目も当てられない。
僕の将来へ向けての恋愛設計が、破滅してしまう。
「まず、サブローへの最初の指導を俺が行う。次はブルー、それからイエロー、ブラック、グリーンの順番だ。これを1ターンとして、サブローが俺たちを満足させるまで、ひたすら訓練を繰り返す」
レッドの宣言に、僕は緊張しつつも高揚した。
いよいよ特訓の始まりだ。ここまで来たからには、逃げも隠れもせず頑張るしかない!
「レッドの訓練の後に休息を挟んでブルーの訓練、1ターンが終わったら就寝、と考えても良いですか?」
そう質問すると、レッドが『コイツ、なに寝惚けてんだ?』という眼で僕を見た。
ひょっとして〝様〟付けを省略して名前を呼び捨てにしたことが気に障ったのかと思ったけど、問題点は別にあるようだ。
「休息や睡眠の時間なんて、地獄にあるわけないだろ」
「へ?」
「ひたすら、ぶっ続けだ。グリーンの訓練を終えたら、そのまま2ターン目に入って俺の訓練がまた始まる」
「そんな無茶な!? 死んじゃいますよ!」
「お前は、もう死んでいる」
有名な某世紀末漫画の主人公の名文句だ。あのセリフは告げる側からしてみれば最高だろうけど、言われる側からすれば絶望感が半端ない。
「もしかして、地獄では訓練を重ねても疲労を感じなかったり身体を痛めなかったりするんでしょうか? あと、眠くならなかったりとか」
一縷の希望にすがってみる。
「いんや。生前と同じように眠くなるし、疲れるし、身体もボロボロになるで。けんど、地獄の亡者は何をやっても死なないから、際限なくシゴけるんや」とブラック。
希望は断たれた。
「現世に帰らせてもらいます」
部屋へ入る際に使用したドアより廊下に出ようとする僕。
訓練が始まる前から挫けてしまったよ!
僕の中のなけなしの頑張る気持ちは、逃げたり隠れたりする方向性に集約された。
「落ち着け、サブロー」
「地獄に落ちた者がココより抜け出すには、刑期を終えるか、自分たち監督官が出す試練をクリアするしか無いんですよ」
ドアへ向かって歩み出そうとする僕の右肩をレッドが、左肩をブルーがガッシリと掴む。
イタタタタタ! 凄い握力だ。肩がぶっ壊れるよ!
「サブロー。お前は異世界でやっていけるだけの能力を身に付けるために、ワザワザこの特訓地獄に来たんじゃないのか?」
イエロー様の問いかけに、僕はハッとする。
そうだ! 異世界転移という夢を実現するために、僕はココを訪ねたはず!
正直、チート無双への憧れはだいぶ萎んでいるけど、特訓地獄の難関を乗り越えなければ、異世界に足を踏み入れることすらままならない。
異世界への想いを取り戻して自分に活を入れ直している僕を、鬼たちは満足そうに眺めている。
何だか鬼たちがまな板の上の鯉に向かい合う料理人とダブって見えるが、きっと気のせいだ。
♢
「俺が行うのは『体力の特訓だ』」
レッドが、広々としたグラウンドで僕に宣言する。
鬼たちと最初に出会った部屋には、廊下と繋がる入り口の他に、幾つもの扉が四方の壁に設置されていたのだ。レッドがそのドアの1つを開くと、そこにはまるで高校の校庭のようなグラウンドがあった。
さすがは、地獄。物理法則を無視した空間展開だ。
濁った赤い雲に覆われた空の下、微かに生臭い風が吹いている。
他の4人の鬼たちは部屋に残っているため、グラウンドに居るのは僕とレッドの2人きりだ。
「『体力の特訓』ですか?」
「そうだ。何をやるにしても、土台となるのは体力だ。土台がしっかりしていなければ、どれほど美麗な建築物を建てようと、僅かな揺れで崩れ落ちてしまうだろう」
レッドがその厳つい容姿に似合わず、教養じみた言葉を吐く。
「確かにそうですね」
別に鬼たちのようなムキムキになりたい訳じゃないけど、マッスルボディには少し憧れる。
中学のときにTVの通販番組の『この商品を毎日15分使うだけで、アナタも逞しい男性に大変身! 30分以内にお電話いただければ、半額でご提供。さあ、いますぐお電話を!』という宣伝に危うく乗せられそうになったことを思い出す。
それにしても通販番組に出演している白人男性って、みんな白い歯が輝く美男子なのに、揃いも揃って見るからに胡散臭そうなのは何でだろう?
「サブローには、まずは走ってもらう」
レッドの提案に、納得する。
やっぱり身体を鍛えようと思ったら、ランニングが基本だよね。
「グラウンドに円が描かれているだろう?」
「ええ」
1周400メートルくらいかな?
「では、取りあえず100周」
聞き間違えかな? 何か3ケタの数字が聞こえたんだけど。
「レッド様、ご冗談を。10周の間違いですよね?」
10周でも、僕にはキツいんだが。
「急に〝様〟付けするな、気持ち悪い。100周で間違いない。とっとと、始めろ」
「いや、無理ですよ! 途中でギブアップしてしまいます」
「時間無制限が、地獄の良いところだ。死ぬ気で走れ! いや、もう死んでるか。ハッハッハ」
死にネタは、もう聞き飽きた!
♢
「死、死ぬ……いや、もう死んだ……」
定番の死にネタを口にしながら、僕はグラウンドにゴミくずのように転がる。
10周目でキツくなり、20周目で疲れ果て、30周目で意識が朦朧とし、40周目で膝をついた。
それからレッドに背後より蹴られつつヨロヨロと走ったけど、もはや歩いているのか走っているのか分からない有り様に成り果てて……。崩れては立ち上がり崩れては立ち上がりしながら、ついには芋虫のように這っていると「よし、100周終わり!」とのレッドの声が聞こえて、僕はそのまま大地に突っ伏した。
何も考えられない。人間は真実クタクタになると『疲れた』とか『身体が痛い』とかの感想を通り越して、無我の境地に達するんだね。
42.195キロを走りきるマラソン選手は、ホントに偉大だ。心底、尊敬するよ!
レッドが、ボロ切れ状態の僕の側までやって来てしゃがみ込んだ。
「どうだ、サブロー。お前は、最初〝100周なんて、万に一つも自分には無理だ〟と諦めていただろう?」
「ハ、ハイ」
「だが、お前はやりきった! 人間は諦めなければ、不可能を可能に出来るんだ」
「でも途中からは歩いていたし、最後は這いずっていたし……到底ランニングとは言えないんじゃ……」
「そんなことは、些細な問題だ。どんな状況であろうと、100周回りきったという事実が大切なんだ。よくやったな、サブロー。俺はお前を誇りに思う」
「レ、レッド……」
レッドの慰めが胸の底までしみ通り、僕の両目より涙がこぼれ落ちる。
ランニング中に「鬼、悪魔、筋肉デブ! いつか『泣いた赤鬼』の絵本に出演させてやる!」と心の中で盛大に罵ったことを、僕はつくづく後悔した。
レッドは厳しい態度の裏に無限の優しさを秘めていたのに、それを見抜けなかったとは……なんて愚かだったんだ。
レッド様。いや、師匠! 一生ついていきます!
「あ、次は腹筋千回だ」
レッドの言葉に、感激は急速冷却される。
「レッド、少しは休ませてよ。それに、やっぱり数字のケタを間違ってるよ?」
僕の声は震えを帯びる。
頼む、聞き誤りであってくれ!
「地獄に休息なんてあるわけないだろ? サブロー。ノルマは山積みだ。腹筋の後は背筋、反復横跳び、ヒンズースクワットにウサギ跳び、それ以外にもまだまだあるぞ。さぁ、サブロー。お前の誇りは、俺の誇りだ。俺の誇りを、満足させてくれ」
満面の笑みを浮かべるレッド。
僕は思った。
――――鬼、悪魔、筋肉デブ! いつか『泣いた赤鬼』の絵本に出演させてやる!