フィコマシーの心の風景
リアノンの右手を握る。
彼女の手は、女性にしてはかなり大きめだ。そして掌は、ゴツゴツしている。だが、不快な感触では無い。
これは、リアノンが騎士になるために一生懸命励んできた証なのだから。
……《精神探索》
リアノンと握手しつつ、心の中で呟いた。
《精神探索》は光系統の魔法の1つで、対象者の心理状態を探ることが出来る。
魔法を掛けるには、心の中を知りたい相手と、どの部分かの素肌同士を接触させておく必要があるのだ。
そもそも、ウェステニラにおいて光系統を扱える魔法使いの数は限られている。
従って、この《精神探索》も、極めてレアな魔法だ。神官が信者の悩みを訊く時や、回復魔法を患者に掛ける際の補助手段として、ごく偶に活用されるケースがあるくらいだ。
プライバシー侵害の魔法なので、本来は魔法を施す前に、相手から承諾を得ておかなくてはならない。
けれど、勝手ながら、ここでは無断でリアノンの心を探らせてもらう。
言い訳になるが、精神探索の魔法で観測できるのは、あくまで心の表面だけである。
『元気か、疲れているか』『明るいか、暗いか』『澄んでいるか、濁っているか』といった程度しか分からない。『リアノンが、現在何を考えているのか?』『心の奥底に、どのような想いを秘めているのか?』なんて詳しい事情を知覚するのは、不可能だ。
特訓地獄におけるイエロー様の説明によると、ウェステニラの魔法は基本的に物理方面に偏っており、精神や思考の領域へ干渉する作用を持つ魔法は殆ど存在しないらしい。
いわゆる、〝催眠〟とか〝魅了〟とか〝精神操作〟とかいうヤツだね。
闇系統の中にはその手の魔法がありそうなもんだと、僕は漠然と想像したこともある。思春期の少年としては、少しばかり興味を惹かれないでも無かったのだ。
しかし、異世界ウェステニラの魔法体系は、僕の期待(?)を裏切って、健全だった。闇魔法も、含めて。
だから、もしウェステニラで好みの美少女を見付けて路地裏に連れ込み「ふはははは! 美少女よ。俺は、君に催眠を掛けた。恥ずかしがらずに、俺と野球拳をしよう! ジャンケン、ポン。負けたら、一枚脱ぎましょね!」とか「ふへへへへ! 美少女さん。自分は、貴方に魅了の魔法を施しました。さぁ、正直に『あら、イケメンでハンサムなジェントルマンが居るわ。お願い、私とデートして!』と言ってください」とか「ふほほほほ! 美少女くん、吾輩の精神操作からは逃れられないよ! 君は、今より吾輩の奴隷だ。直ちに吾輩に『ご主人様! 私に高級ホテルの豪華ディナーを食べさせて』と懇願しなさい。吾輩、大至急で予約してくるから」などと告げても、痴漢行為の現行犯として「お巡りさん、コイツです! 自称〝魔法使い〟の変態です!」と警邏隊の詰め所につき出されるだけだ。
地獄の魔法特訓でイエロー様に「ウェステニラに魅惑の魔法なんてものは、ありませんかね?」と質問したところ、「ほう、サブローは何故そんなことを訊くんだ?」「いえ、何となく……」「下心か?」「違います!」「悪巧みか?」「違います」「猥褻行為か?」「違いま」「エロ助か?」「違い」「スケベーか?」「違」「犯罪者か?」「ち」「塀の中か?」「!」「終身刑覚悟とは、見上げた根性だ」「……」とトコトン追求を受け、泣かされてしまった。
結論。ウェステニラには、精神を操作するような類いのヤバめな魔法は無い。
僕が学んだ闇系統でも、単純に対象者を眠らせる《睡眠誘引》や、敵の体の動きをコントロールする《操り人形》が、剣呑な魔法の限界だった。
……だが、今、僕は少し疑っている。
リアノンの精神状態は、何かがオカしい。
考えてみると、キーガン殿のフィコマシー様への応接も、かなり不自然だった。
たとえリアノンやキーガン殿が内心フィコマシー様を嫌っていたとしても、見せ掛けの礼儀を守るくらいは出来るはず。
それなのに、フィコマシー様の心を意図的に傷つけるのが目的と言わんばかりの露骨な言動を繰り返す2人。
さながら、何者かに精神を誘導されているかのようではないか。
《精神探索》の魔法を使えば、異常事態の原因を究明するための手掛かりを見付けられるかもしれない。
リアノンの右手を掴む力を、ギュッと強める。
ビクッとするリアノン。
彼女の心の深層は、分からない。けれど、表面に浮かんでいるものは見える。混乱、羞恥、葛藤、怯え……そして闇。
いったい何だ? この暗闇。
澄んだ水の中に墨汁が秘かに注ぎ込まれているような……間違いない。これは、リアノンの心が本来含んでいたモノじゃ無い。
明らかに外部より意図的に混入させられた、負の感情だ。
フィコマシー様の目の前でオリネロッテへの賞賛を繰り返していた、先刻までのリアノンの姿を思い出す。
あれは、異様なシーンだった。
自分の発言がフィコマシー様にとって如何に酷いものであるか、リアノンは全く理解していなかった。イヤ、眼前に座っているフィコマシー様の存在そのものに、リアノンは気が付いていなかった。
この闇が、その誘因なのか? ……くそ! 真相を突き止めて、今すぐ問題を解決できるだけの能力が欲しい。
自分の力不足を痛感する。
だけど、リアノンの心に何らかの手が外側から加えられていることだけは、辛うじて分かった。フィコマシー様に対するリアノンの悪意に満ちた姿勢は、彼女の本性に由来していない。
少しだけ、ホッとする。
しかし、いったい何者がリアノンの心をねじ曲げて操っているんだ? やっぱり、魔法が使用されているのだろうか……いや、それはあり得ないはず。
それとも、ウェステニラには、僕の知らない魔法が存在しているのか? ……何と言っても、僕の魔法の師匠はイエロー様。知識は丸ごと、彼女からの受け売りだからな……。そしてイエロー様は魔法の先生であるにもかかわらず、魔法が使えなかった……う~ん。良く考えれば、致命的な欠陥かも?
しばし思い悩み、不意に、ある事実に思い当たる。
背筋が、寒くなった。
ちょっと待て!
リアノンの心へと行われている、この浸食。ひょっとしたら、キーガン殿の心にも及んでいるんじゃないのか?
いいや、リアノンやキーガン殿だけに止まらない。
バンヤルくんより聞かされたバイドグルド家の内情を鑑みるに、もっと多くの人間の心に毒素が混入されている可能性がある。
どれだけの人間に、この精神操作は施されているんだ?
よもや、バイドグルド家関係者のかなりの部分が既に……だとしたら、100人以上? いや、それどころか……。
僕の表情が強ばっていることを察知したのか、シエナさんが「サブローさん、どうされました?」と心配げに声を掛けてきた。
「ええ。少し、吐き気を催しまして」
「まぁ、大変! サブローさん、騎士様の手を握ったせいで、気分を害してしまわれたんですね! 騎士様と握手するなんて無理で無茶な無謀、是が非でも断固として阻止すべきだったんだわ。騎士様! 今すぐ、サブローさんの手を離してください! サブローさんを、解放するのです」
「うわぁぁぁぁん! 私と握手したせいで吐き気がするなんて、酷いよ! あんまりだよ! 私の乙女心は、ズタズタだよ! 再起不能だよ!」
「ちょ! 騎士様! 落ち着いてください!」
「サブロー! 責任とって、私をお嫁に貰ってよ! 両親に挨拶してよ!」
「傷心のフリをしながら、なんて厚かましい要求。失礼ナイト様に、僅かでも同情した私が愚かでした」
泣くリアノン。怒るシエナさん。困惑するフィコマシー様。『ニャにが、ニャんだか』と目を回すミーア。
僕が我を取り戻した時には、馬車の中はパニック寸前になっていた。
……それから、皆してリアノンを宥めた。
僕は「気分が悪くなったのは、朝食で頂いたベーコンが傷んでいたせいで、リアノンさんとの握手とは、関係ありません」と嘘を吐いてしまった。
タントアムでお世話になった旅館のスタッフさんたち、風評被害スミマセン。朝食は、とても美味しかったです。
「グス……ホントだな? 私との握手が、原因では無いのだな?」
「勿論ですよ。リアノンさんの掌の温もりは、大変心地良いものでした」
「そうかそうか!」
豆電球が点灯するように、リアノンの表情が明るくなる。
「サブロー。ナルドットに着いたあと、もし良ければ私の両親と面会を……」
「ハイハイ、そこまでそこまで」
どうしてか仕切り屋みたいになってしまったシエナさんが「サブローさん、私とも握手しましょう」と、かなり強引に僕の手を握ってきた。
「先生! 私は負けません! 《パン食い競争亭》ユスティ直伝の〝手をギュッとして男なんてイチコロよ!〟作戦を実行します」
妙な意気込みを見せつつ、シエナさんが両手で僕の右手を握ってくる。シエナさんの手はリアノンよりはるかに小さく、女の子らしさを感じさせた。
でも「消毒です。滅菌です。無害化です。上書きです」などと呟くメイドさんは、少しばかり怖いです。
シエナさんは必死な様子で、僕の手をギュギュギュと掴んでくる。
痛い痛い! シエナさん、手を強く握りすぎ! もう少し、力を弱めて!
そう言い掛けた僕は、フト試しに、シエナさんにも《精神探索》を施してみることした。
もしシエナさんの心まで、あの薄気味悪い暗闇に侵されていたら……。そう、危惧してしまったのだ。
……シエナさんの心は、健康だった。
例えるなら、海水浴に最適な夏の海のような感じ。
しかし、僕はそこに不可解な景観を見出す。波が、崖や浜に激しくぶつかった名残だ。
それは、海が……陸地や空、あるいは水平線の果てなど、何処よりかの攻撃に対し、懸命に抗った証拠。
この痕跡は……そうか! おそらく過去において、闇がシエナさんの心の中にも侵入しようとしたことがあったに違いない。けれど、シエナさんの精神は屈しなかった。
力強い波の力で、闇を追い返したんだ。
本当に、シエナさんは凄い。完全メイドだ。
最近しばしばシエナさんがポンコツに見える時があるけど、僕の勘違いだったんだ。
「……あの、サブローさん。私との握手は、どうですか?」
シエナさんが恥ずかしそうに訊いてくるので、僕は率直に答えた。
「パーフェクトです」
「ええ! サブローさん。いくら何でも『シエナさんは最高・最上・最適で、お嫁さん候補として完璧です。今すぐ、結婚したいくらいです』なんて褒めすぎですよ!」
「こら、メイドリーム。サブローは、そこまで言ってないぞ。妄想ポエムを脳内で乱舞させているのは、私では無く、どう考えてもお前だろ」
リアノンが、シエナさんにツッコんでいる。
あれ? シエナさん、やっぱりポンコツのような……いやいや、あり得ないだろ。
これほど素晴らしい心の持ち主であるシエナさんが、ヘッポコな訳ない。
「サブロー、アタシとも、手を握るニャ」「あ、あの宜しければ私とも……」
ミーアは元気よく、フィコマシー様はちょっとオドオドしながら、僕に握手を申し込んできた。
この際だから、ミーアとフィコマシー様にも《精神探索》の魔法を掛けさせてもらおう。
僕は了承し、まずはミーアと、次いでフィコマシー様と手を握り合った。
……ミーアの肉球には痺れました。
このプニプニ感は、極上ですね。ハァハァ……あ、いえ、違います。僕はケモナーじゃ、ありません! 僕が酔いしれる肉球は、ミーア限定だよ!
そして、ミーアの心における表面風景は、とても楽しげなものだった。
両親に連れられて遊園地に向かう幼子の気持ちのような、ワクワクした思いが僕に伝わってくる。
ああ、嬉しいなぁ。ミーアと一緒に旅が出来て、僕は幸せだ。
続いて、フィコマシー様の番となる。
庶民階級の僕が貴族のお嬢様であるフィコマシー様の手を握るのは、礼儀上マズいんじゃないかとも考えたんだけどね。でも、シエナさんは口を挟まないし、ここでフィコマシー様とだけ握手しないのは、かえって良くないと思うのだ。仲間外れみたいになっちゃうからね。
まぁ、緊急事態とは言え、僕は昨晩フィコマシー様の寝顔も見ているし、今更かもしれない。
それよりも気になるのは……真美探知機能を使用した際に目にした、フィコマシー様の〝美の真実〟。
白い霧の中に置かれている、小箱。 固い封印が、施されていた。
この《精神探索》が、あの不可解な光景の謎を解明するための一助になれば。
そんな、希望もあった。
僕は己が右手で、フィコマシー様の右手をソッと包み込む。
フィコマシー様の掌はふっくらしていて、なんかマシュマロみたい。肌触りは滑らかだ。リアノンの手のゴツゴツ感やシエナさんの手のザラザラ感は、まるで無い。
侯爵令嬢は労働とは無縁なのだから、当然と言えば当然か。
あと、フィコマシー様の手は意外にちんまりしていた。僕の手の中にスッポリ収まる。
失礼ながら、フィコマシー様の体重を基準に、もっと大きい掌を予想していたよ。
……フィコマシー様も、16歳の少女なんだよね。
フィコマシー様の心は…………緑風が颯々と吹き抜ける森林のようだ。
荘厳で、静かで、爽やかで、秀麗で……けれど、ひどく寂しい。
木々を揺らす風は……おそらく、フィコマシー様の心の中で仮象化されたシエナさんに違いない。
彼女の訪れだけが、フィコマシー様の慰めなのか……。
そこに森林があることを知っているのは、風だけ。人間はもちろん、獣人もエルフも動物も、森林には住んでいない。
人っ子1人、居ない。
時が止まっている森林。
それは、あまりにも物悲しい情景だった。
「……サブローさん?」
フィコマシー様が、俯いてしまった僕の顔を覗き込んでくる。
「フィコマシーお嬢様、貴方は……」
哀しいのですか? 辛いのですか? 諦めているのですか? それでも誇りと優しさを失わず、凜として居られるのですね。
僕は胸が苦しくなり、何も言えなくなってしまう。
そして、考える。
このフィコマシー様の美しい精神の奥に、あの歪んだ空間がある。
フィコマシー様の心は清純で、神聖ささえ感じられる程だ。
もしも聖女がウェステニラに実在するとしたら、きっと……。
しかし、その至純の宝玉を邪な意図で内側より壊そうとしてるナニモノカが居る。
真実を知るための鍵は、あの小箱で間違いないだろう。封印を解きさえすれば……。
でも、その方法が分からない。下手な手段を取れば、フィコマシー様の心を壊してしまう可能性もある。
だが、奇怪な空間を内部に抱え込んでいる現状は、彼女の魂そのものにとって大きな負担となっているのでは?
フィコマシー様が置かれてる状況を我が身に置き換えてみて、ゾッとする。
自分の精神が、見知らぬ外部の者の手によって良いように玩具にされているのだ。
人にとって、〝我が心の有り様〟だけは、不可侵の唯一無二であるべきモノのはずなのに。
このままでは、フィコマシー様はいずれ……。
闇魔法の使い手、赤い瞳の少年の言葉が脳裏に蘇る。――『聖女は、放っといても自滅する』
冗談じゃない!
僕は無意識のうちに、フィコマシー様の右手を両手で強く掴んでいた。
「サ、サブローさん……?」
フィコマシー様の声が耳に届き、慌てて握手を解く。
「ス、スミマセン」
「いえ……」
フィコマシー様が、切なそうな、どこか心細そうな呟きを漏らす。
親と手を離してしまい、道に迷って途方に暮れている子供みたいだ……そう、僕は思った。




