生まれて初めて芽生えた感情
シエナ視点の戦闘回です。
♢
シエナは、ボートレに蹴飛ばされたミーアの側へ慌てて駆け寄った。
〝バイドグルド家の騎士がミーアに酷い行いをした〟――その出来事はシエナにとって、まさに悪夢そのものだった。
(私のせいだ。私が感情の赴くままブランやボートレに突っかかっていったから、ミーアちゃんは私を庇おうとして……)
シエナは、自分を責めた。
(ミーアちゃんは、スナザ様の姪で私の妹弟子。本来は、私が守ってあげなきゃいけなかったのに)
ミーアは転がった状態でお腹を抱えている。
「ミーアちゃん、大丈夫!?」
シエナは地面に膝をつき、ミーアの容体を確かめた。
『痛いのニャ……でも、平気ニャン……油断しちゃったニャン……』
ミーアが猫族語で何事か呟いている。派手に吹っ飛ばされた割には、思ったよりも大きなケガは負っていない様子だ。
シエナは、ホッとする。
けれど、ダメージを甘く見るのは禁物だ。
「ミーアちゃん、動いちゃダメよ」
シエナはミーアに楽な体勢を取らせると、振り返ってボートレを糾弾した。
「ボートレ、貴方! いきなり何てことするの!」
「ハァ? たかが猫1匹を蹴飛ばしただけだろ。お前こそ、なんでムキになってんだ? それよりシエナ、お前、相変わらず生意気だな。旅の間、お前が俺たちをしょっちゅう睨みつけていたのに気付かなかったとでも思ってんのか? お前のことは、前々から虫が好かなかったんだ。今ここで、猫ともども潰してやっても良いんだぞ」
「…………!」
〝ヤれるものなら、ヤってみなさい!〟と反発しようとして、シエナは危うく堪える。
これ以上、騎士たちと衝突するのはマズい。共に旅をしてきた人たちに迷惑を掛けてしまうし、バイドグルド家におけるフィコマシーの立場が一層悪くなってしまう可能性もある。
現に、ミーアは手傷を負ってしまった。
(ここは我慢よ。シエナ!)
必死に自分に言い聞かせながら黙り込んでいるシエナに対して、ボートレはより傲慢な態度を剥き出しにする。
「威勢が良いのは口だけか。ちょっとばかり、お仕置きが必要だな」
嗜虐的な笑みを浮かべるボートレ。シエナとミーアのほうへ歩き出そうとしていた彼の足が、何故かいきなりピタリと止まった。
ボートレの身体は硬直し、眼だけを妙にギョロギョロさせ始める。
騎士が動けなくなった原因について、シエナはすぐに理解した。
特定方向より、強烈な圧迫感が発せられているのだ。そして、その殺気はボートレに集中している。
対象外のシエナでさえ、寒気を覚えるほどの重圧だ。
ボートレの足が竦んでしまっているのも、無理はない。
シエナは、圧力の発信元へ目を向ける。
場の空気を一変させた人物は、他ならぬサブローだった。
サブローは完全に無表情だ。しかし、凄まじく怒っている。ミーアを傷つけられたために違いない。
サブローがどれ程ミーアを大切に思っているか、シエナは良く知っている。サブローたちと出会ってから僅か3日しか経っていないが、2人の絆の強固さが感じられる場面をシエナは何度も見てきた。
ミーアが視界に入ると、サブローはいつも優しい目になる。一方、フィコマシーとの会話の中でミーアがサブローの名を口にした回数も数え切れない。
サブローが放つ殺気に、ボートレは怯えを隠せない。だが、彼にも騎士としての矜持がある。
ボートレは、虚勢を張った。
「も、文句があるのか、餓鬼! 蹴飛ばすだけで済ませてやったんだから、有り難く思いな。何なら今すぐ、猫の首をちょん切ろうか?」
ボートレの悪罵を聞いた次の瞬間、サブローは弾かれたように走り出した。疾走の先は、もちろんボートレ。
「餓鬼が!」
ボートレが腰に帯びた剣の柄に手をやる。しかし、サブローはボートレに剣を抜くヒマなど与えない。大地を蹴って跳躍し、騎士の顔面に膝蹴りを叩き込んだ。
ボートレの背がサブローより少しばかり高いことを考えると、驚くべきジャンプ力である。
グシャッと、ボートレの鼻が潰れる音がした。
鼻血を噴き出しつつボートレがよろける。
「くそ! この餓鬼! ぶっ殺してや……」
ボートレは、セリフを最後まで口に出来なかった。
着地したサブローはボートレの右腕を掴むや、彼の右足の外側を自分の右足の外側で刈り跳ばしたのだ。
騎士の身体が、一瞬だけ空中に浮く。
サブローは宙にあるボートレの頭部を鷲づかみにし、そのまま地面に打ち付けた。
容赦ない攻めの連続に、受け身を取る余裕などボートレにはカケラも無かった。
後頭部を地面にめり込ませ、失神してしまう。
シエナは唖然とする。
サブローが走り出してからシエナが瞬きを2、3度する間に決着がついてしまった。バイドグルド家自慢の屈強な騎士も、サブローの手に掛かるとまるで子供扱いだ。
ボートレはサブローのことを盛んに〝餓鬼、餓鬼〟と罵っていたが、今の戦闘の成り行きを見れば、どちらが餓鬼だったかは一目瞭然である。
(サブローさんが強いことは分かっていましたが、これ程とは!)
シエナは、胸の高鳴りを抑えきれない。
けれど少女にとっては感嘆すべき出来事も、騎士たちの側に立てば強敵の出現を告げる深刻な局面でしか無い。
「坊主ゥゥゥゥ!」
ブランが怒声を上げて、襲ってきた。ブランはボートレと頻繁にコンビを組む関係だけに、憤懣も一入なのだろう。
剣を掲げて向かってくるブランを、サブローは無感動に眺めている。あたかも、害虫を観察する駆除業者のような目付きで。
そして落ち着いた動作で、腰の刀に手をやった。
シエナは、ハッとした。
あの刀は、ミーアの父親より譲り受けた逸品だとサブローに聞かされた覚えがある。
名称は、《ククリ》。類い希な業物であり、その切れ味はシエナも知悉している。馬車を襲撃してきた男たちは、シエナの目の前でククリを用いたサブローに切り倒されていったのだ。
(サブローさんに、ククリを抜かせちゃダメだ!)
シエナは焦った。
殺気満々のサブローがククリを使えば、十中八九、ブランは瞬殺されてしまうに違いない。そうなったら残りの騎士たちも、集団でサブローを殺めにくる。
結果、引き起こされる事態は、凄惨な殺し合いだ。
どちらが勝つかは、分からない。
(いくらサブローさんでも、10人近くの騎士をまとめて相手にするのは……)
シエナは、恐怖する。
バイドグルド家の騎士の手によってサブローが命を落とすなんて展開、彼女にはとても耐えられない。
だからと言って、サブローに騎士たちをことごとく葬り去られても困る。
サブローは〝お尋ね者〟一直線だし、迎えにやってきた騎士たちが全滅するような惨状になれば、バイドグルド家におけるフィコマシーの境遇は絶望的なまでに悪化してしまう。
誰も死んでいない今なら、まだ何とか修復可能な状況だ。
まずは、サブローに殺気を静めてもらわねば。
「サブローさん! サブローさん!」
シエナは、懸命に呼びかける。
しかし、サブローは反応しない。シエナの声が、耳に届いていても頭にまでは達していないように見える。雑音として、処理してしまっているのかもしれない。
サブローがククリの柄を握り、抜刀の体勢に入る。
「止めて、サブローさん! 刀を抜かないで!」
シエナの悲痛な叫びを聞いても、サブローは攻撃の姿勢を崩さない。
サブローの強さをイマイチ把握しきれていないブランは『勝てる』と楽観し、剣を構えて攻撃を仕掛けようとしている。
ブランごときが、サブローに勝てるわけが無い。
このままでは、おそらく、すれ違いざまに切り殺されてしまうだろう。
サブローとブランが、接近する。
シエナは、血飛沫を上げて崩れ落ちる騎士の姿を幻視した。
制止の叫びを続ける、メイドの少女。
(私の声じゃダメだ。サブローさんは、聞いてくれない)
シエナの心が折れそうになったその時、ミーアが大声を上げた。
『サブロー――――!』
ミーアの絶叫が、街道に響き渡る。サブローの肩がピクリと揺れた。
サブローが、身体を半ば起こし掛けている状態のミーアへ視線を向けた。
今更ながらミーアの無事な姿を確認したサブローは、安堵の溜息を漏らす。少年の全身に張り詰めていた怖いほどの緊張感が、見る見るうちに抜けていく。
(良かった! いつものサブローさんに戻ってくれた)
サブローが平常心を取り戻したことが分かり、シエナの気が緩む。安心すると同時に、少女の胸の奥に小さな異物がチクリと突き刺さった。
(私の声は届かないのに、ミーアちゃんの声は聞こえるんだ)
この心の奥底にわだかまる、不可解な思いは何なのだろう?
シエナには理解できない。
それは、17歳の少女が生まれて初めて覚えた『嫉妬』という名の感情だった。
サブローがボートレを倒した技は、柔道の大外刈りのイメージです。
もちろん本来の柔道では、後頭部を打ち付けたりしちゃダメですけど。




