シエナの誓い
シエナの回想です。
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「先程、襲撃してきた男の1人が〝白鳥〟だの〝白豚〟だのと喚いていましたが、何か心当たりがおありですか?」
サブローがフィコマシーにそう問いかけたとき、シエナは『裏切られた』と思った。
考えてみれば、オカしな感想である。裏切るも何も、サブローはシエナの仲間でも無ければ、バイドグルド家に仕える者でも無い。
それにサブローは純粋に疑問を感じたのみで、特にフィコマシーを貶めるつもりなど無いだろう。
しかしシエナにとって、サブローの発言は裏切りそのものだった。
フィコマシーに近い立場の人間は皆、〝白豚と白鳥〟の意味するところを知っている。〝白豚〟はフィコマシーを、〝白鳥〟はフィコマシーの1つ年下の妹であり絶世の美貌を誇るオリネロッテを指すあだ名だ。
けれども、その用いられかたはまるで異なる。
〝白豚〟は嘲笑とともに引き合いに出され、〝白鳥〟は賞賛とともに話題にされるのだ。〝白鳥〟がおおっぴらに語られるのに対して、〝白豚〟は裏でコソコソと陰口の材料にされている。
フィコマシーの身分や立場に遠慮する必要の無い者、例えば学園の一部の生徒の中には、面と向かってフィコマシーにその蔑称を投げつけてくる者も居る。
フィコマシーの婚約者は、そんな愚物連中の筆頭だ。
『白豚』という言葉を耳にしても、フィコマシーはいつも困ったような笑みを浮かべるだけだ。
シエナは『フィコマシーお嬢様を侮辱した相手を、殺してやりたい』という怒りの感情を抑えきれないのに。
「でも、シエナ。オリネロッテが美しいのも、私が醜く太っているのも事実だから」
「フィコマシーお嬢様は醜くなどございません! お嬢様は、私の自慢のお嬢様です!」
「ありがとう、シエナ。私なら大丈夫。だって、シエナが側に居てくれるのだもの」
フィコマシーは微笑みつつ、シエナを宥める。
本来、お嬢様をお慰めしければならない自分が、反対にお嬢様に気を遣わせてしまっている。
シエナは、召使い失格の己が心底情けなかった。
学園が春の休みに入る少し前、王都にあるバイドグルド家の屋敷へ一通の手紙が届けられた。
その内容を知ったフィコマシーが、声を弾ませてシエナに語りかける。
「お父様が『今度の春休みには、ナルドットの街へ来るように』と仰ってくださったのよ!」
「それは、良うございました」
フィコマシーは、とても嬉しそうだ。
『無理もない』とシエナは思う。学園が休業期間になる度に侯爵からナルドットの街へ誘われるのはオリネロッテだけで、フィコマシーは毎回王都の屋敷に放置されてきたのだ。
フィコマシーとオリネロッテの母親は、7年前に他界している。
(奥様は、フィコマシーお嬢様もオリネロッテ様も平等に愛しんでくださった。あの頃は、侯爵様もお2人の扱いにそれ程の差を付けられるような真似はなさらなかった。けれど奥様が亡くなられてからは、バイドグルド家におけるフィコマシー様の立場は悪くなる一方だわ)
古参の使用人だけでなく、今では新入りのメイドでさえ、フィコマシーを軽く見るときがある。
(それもこれも、侯爵様がフィコマシーお嬢様とオリネロッテ様へ向ける愛情の差を周囲に露骨に示されるせいだ)
〝白豚と白鳥〟という心ない呼び名を、侯爵自身が口にすることもあると聞く。
そのためナルドットの街に住む一般民衆の間で、2人の侯爵令嬢に付けられたあだ名を知る者が次第に増えてきているそうだ。
フィコマシー個人に忠誠を誓うシエナにとっては、雇い主である侯爵も、もはや敵としか思えなかった。
かつては、フィコマシーに同情的なバイドグルド家の使用人も少なからず存在した。しかし多くは心変わりし、あくまでフィコマシーへ配慮しつづけた者は、気付けばその誰もが姿を消していた。
配置換えになったのか、辞めさせられたのか。
学園でも、入学当初はフィコマシーと仲良くしてくれる同性の友人はそれなりに居たのだ。少し付きあえば、フィコマシーの人柄の良さはすぐに分かる。それに何と言っても、フィコマシーは侯爵家の長女なのである。
けれどそんな友人たちも、1年遅れでフィコマシーの妹が学園にやって来ると、揃って侯爵家の次女の取り巻きになってしまった。
フィコマシーの婚約者である伯爵家の次男坊も、立場がフィコマシーより低いにもかかわらず、公然と侯爵家の長女への不満を口にする。
そしてオリネロッテに恥知らずにも近づき、ゴマすりを欠かさない。
屋敷でも、学園でも。
王都でも、ナルドットでも。
フィコマシーに親愛の情を示す人間は、今ではシエナ唯1人に成り果ててしまっているのが実状だ。
フィコマシーとシエナは、孤立無援だった。
(私が! この私が、お嬢様をお守りしなければ!)
シエナは必死になった。
王都のバイドグルド家にしばらく滞在していた、旅の女剣士にレイピアの使い方を習ったこともある。彼女の仲間であった女冒険者からは、要人警護の必須である体術や隠し武器の扱いを教えてもらった。
あの2人には、とても感謝している。
出来ればまた会いたいものだと、シエナは時々思う。
剣士は人間で、冒険者のほうは獣人の女性という珍しいコンビだったため、その気になれば消息も掴めるかもしれない。
猫族の女冒険者の名前は〝スナザ〟と言ったか。
ナルドットの街へ向かうフィコマシーに付けられた護衛の騎士は僅か2人で、世話係のメイドはシエナのみだった。
「オリネロッテ様が旅をなされる際にはこの3倍から4倍のお供が付き従うのに、それに比べてフィコマシーお嬢様の随身が少なすぎます!」
シエナは屋敷の侍従長やメイド頭に抗議したが、「侯爵様のお指図です」の一点張りで聞き入れてもらえなかった。
むしろ『護衛にわざわざ騎士を起用しているのだから、有り難いと思え』と言わんばかりの態度を、彼らは露わにする。
シエナは違和感を覚え、微かに恐怖した。
侍従長もメイド頭も長年屋敷に仕えている人間だが、昔からこんなに薄情な人間だったろうか? フィコマシーへの応対はともかく、己の職務には忠実な2人だったはず。
ところが、今では侯爵家のお嬢様であるフィコマシーの身の安全に関して、まるで興味が無い様子なのだ。
稀に、シエナは頭が混乱してしまう。
フィコマシーを邪険にする周囲の振る舞いのほうが正常で、フィコマシーを大切に思う自分が間違っているのではないかと考えてしまう瞬間があるのだ。
取りわけ、オリネロッテと面会した後にそう感じる。
フィコマシー付きのシエナは、オリネロッテとの接点は殆ど無い。
姉妹顔合わせの際に給仕をするか、それ以外では屋敷や学園で極たまにすれ違う程度だ。
それなのにオリネロッテはシエナの顔を覚えていて、毎回優しい言葉を掛けてくれる。
シエナは、オリネロッテのことを嫌いでは無い。
フィコマシーとオリネロッテの比較は周りの人間が勝手にやっているだけで、オリネロッテ自身がフィコマシーに辛く当たっている訳では無いからだ。
それどころか、オリネロッテは姉であるフィコマシーに敬意を払い、尊重する姿勢で常に接してくれている。屋敷や学園で、シエナを除いて最もフィコマシーに友好的な態度を示しているのはオリネロッテだろう。
類い希な美少女であるにもかかわらず、オリネロッテには驕り高ぶったところが微塵も無い。貴族としての気品は維持しつつ、いつも朗らかで誰にでも親切だ。
それがまた、オリネロッテの人気に拍車を掛けている。
一介のメイドであるシエナに対してさえ、オリネロッテは繊細な思い遣りを欠かさない。
尤もフィコマシーの居ない折を見計らって「お姉様のもとから私のところに来ない?」と誘ってくるのは困りものだが……。
勧誘を断っても、オリネロッテはイヤな顔一つ見せない。「気が変わったら、いつでも申し出てね。待ってるから」と念を押すだけだ。
そんな時、シエナはほんの僅かだが心が揺れる。まるでオリネロッテの言葉には、魅了の魔法が込められているかのようだ。
動揺を払うために、シエナは首を振る。灰色の髪が、頬を叩く。
オリネロッテの翠玉の瞳を頭より追いやり、フィコマシーの碧玉の瞳を思い浮かべる。
フィコマシーの瞳。
フィコマシーの声。
フィコマシーとの思い出。
お互いが幼い頃より培ってきた、主従の絆。
フィコマシーの存在に思いを馳せると、シエナの心はポカポカと温かくなる。
シエナは、自分の想いを確認する。
私は、フィコマシーお嬢様のことが好きだ。大好きだ。
だから、オリネロッテ様がいくら魅力的でも関係ない。
決して、フィコマシー様を1人にはしない。
遠い日の、奥様との約束もある。
奥様はお亡くなりになられる直前、まだ10歳になったばかりのシエナに「フィコマシーのことを頼むわね」と言い残されたのだ。
メイド見習いの少女に過ぎなかったシエナに、侯爵夫人という高貴な身分である奥様が直々に遺言を残される……それは、当時のシエナにとって驚天動地の出来事だった。
シエナは奥様に「フィコマシーお嬢様に、今後も誠心誠意お仕えいたします」と誓った。嬉しそうに微笑んだ奥様は、シエナの頭を撫でてくださった。
あの掌の温もりを、シエナは今でもハッキリ覚えている。
両親を早くに亡くしたシエナを、何かと目に掛けてくださった奥様。不慣れなメイド仕事が辛くてコッソリ泣いていたシエナを見付けて、ソッと抱きしめてくれたこともある。
そんな奥様との誓約は、シエナにとって掛け替えのない貴重なものだ。
フィコマシーからの信頼と、奥様との約束。
そのどちらかを損なう行為をしてしまったら、シエナは自分で自分が許せなくなってしまうに違いない。
しかし――。
シエナは、フトした瞬間に怖くなる。
あたかも、底無しの暗い穴を覗き込んでいるような感覚。
これから、ズッと自分だけでフィコマシーを支えていけるのだろうか?
(…………私と一緒にフィコマシーお嬢様を守ってくれる人が、どこかに居ないかな?)
つい、そんなことを考えてしまう時がある。
フィコマシーは、シエナにとって誰よりも大事な人。
けれど、あくまで主人であって、守るべき対象なのだ。
シエナは、自分の能力の限界を知っている。
シエナは仲間が欲しかった。
味方が欲しかった。
フィコマシーを助けるのは自分だが、そんな自分を助けてくれる誰かが欲しかった。
でも、自分はただのメイド。容姿も平凡。社交的な性格でも無いし、女としての魅力も無い。だからそんな都合の良い人間が現れる可能性など無いことも、シエナには分かっていた。
フィコマシーと自分は、今後も2人きり。
――――2人の少女が歩みつづけるその先に、明るい未来はあるのだろうか?




