ソフトバージョンの地獄
爺さん神が杖を振ると、周囲の景色が一変した。
あの不思議な老人はもう居らず、代わりに目の前には巨大な門が聳え立っている。
門の上部の飾りの部分に、何やら文字が書いてある。初めて見る文字だが、何故か意味は分かった。
『地獄へようこそ! ~貴方も素敵なヘル・パラダイスを~』
訪問者を全力で歓迎したい意図は分かるんだが、単語の使い方を致命的に間違っている気がする。
天国側から抗議があったりは、しないのだろうか?
門をくぐってしばらく歩くと、古代ギリシャにおける神殿風の建物が見えてきた。
入り口に、門番さんが立っている。制服をピッチリ着こなした中年男性で、銀髪で赤い眼、そして紫色の肌から人間で無いことは一目瞭然だ。
「ようこそ、地獄へいらっしゃいました」
にこやかに門番さんが話しかけてくる。
やけにフレンドリーだな。ホントに、ここは地獄なの?
「どのようなご用件ですか?」
「あ、あの、僕は別に罪を犯した訳じゃなくて……」
ちょっと、どもってしまう。
爺さん神は一見普通の老人に見えたから、地獄の門番さんは僕が初めて接する人外的な存在だ。
少しばかりビビってしまっても、臆病とは言えないはずだ。
「大丈夫です。分かっていますよ。罰を義務化された罪人が通る入り口は、別にあります。ここに来られる方は、地獄に特別な用向きがお有りの方々ばかりです」
門番さんの穏やかな語り口に、緊張が解れる。
僕は爺さん神との出会いを簡単に説明して、『特訓地獄』への案内を頼んだ。
「ふむふむ、なるほど。それでは、こちらへどうぞ」
門番さん改めガイドさんの先導で、建物の中に入る。
ヒンヤリした空気が、心地良い。
「特訓地獄は、地下1階にあります。地下1階に存在する地獄は、全て生前の罪が軽かった人々向けですので、ご心配なさらずに」
ガイドさんが、僕を慰めてくれる。
地獄の案内人がこんなにも親切なんて、予想もしていなかった。
逆に不安になる。
「深い階層に行くほど、重い罪の人向けの地獄になるんですね?」
「そうです。最下層はコーキュートスで、裏切りの罪を犯した方々が永遠の氷漬けとなっています」
「永遠の氷漬けとか、まさに終わらない恐怖ですね」
ようやく地獄らしいシチュエーションが提示されたことに、少しホッとした。
最下層の地獄の恐怖に安心する……う~ん、何か変な感じだな。
「その通りです。裏切りは、まさに最大の罪ですからね。コーキュートスで許される唯一の楽しみは、ふんだんにある氷を用いて作られたかき氷を食べることぐらいです。コーキュートス産の氷は、高品質で有名ですので」
「氷地獄でかき氷を出されても、単なる罰ゲームの追加だよ……」
階段を伝って、地下1階へ下りる。
どこまでも延びる廊下の両側に扉がズラリと並んでおり、ドアのプレートにはそれぞれの地獄名が書かれていた。
「全ての地獄が、この建物の中に収まっているんですか?」
「ええ。ですが、ドアの内部は別空間になっています。本館には、それぞれの地獄への入り口が設置されているだけとも言えますね」
さすが、地獄。物理の法則は、関係ないようだ。
廊下を歩きながらズラズラ並んでいる各扉のプレート名を何とは無しに眺めていると、『血の池地獄(ソフトバージョン)』『針地獄(ソフトバージョン)』などと記されたプレートが目に入ってきた。
「あの、スミマセン」
ガイドさんへ問いかける。
「血の池地獄や針地獄のソフトバージョンって、何なんですか?」
「本格的な血の池地獄や針地獄は、もっと深い階層にあります。地下1階にある血の池地獄や針地獄は受刑者に優しい、いわゆる〝もどき〟ですね。ソフトバージョンの血の池地獄にある池を満たしている液体はトマトの絞り汁ですし、針地獄の針はビニール製となっています」
「それって、むしろ健康に良いんじゃ……」
血の池地獄ではトマトジュース飲み放題、針地獄では身体のツボを押し放題だよね。
「とんでもない!」
僕の疑問提示に対し、ガイドさんは猛烈に抗議してきた。
そんな解釈は、地獄の沽券にかかわると言わんばかりだ。
「考えてみてください。全身にベタベタとトマト汁がまとわりついているにもかかわらず、洗い落とすチャンスが与えられないんですよ。精神的ダメージは大きく、その鬱陶しさは、かなりなものです。それに、ビニール製の針も慣れるまでけっこう痛いんです」
確かに、そうかも。お母さんもツボ押し健康サンダルを買ってきたのは良いけど、3日で放置していたっけ。
ガイドさんに説得されつつ、プレート名が『ムチ打ち地獄(ソフトバージョン)』や『ろうそく地獄(ソフトバージョン)』となっているドアの前を通り過ぎた。ドアの向こう側から「ああ! まさに、これこそが私の求めていた愉悦と幸福!」だとか「ぬるすぎる。足りぬ! 足りぬわ!」などといった叫びが、漏れ聞こえてくる。
聞かなかったことにする。どうやら、ガイドさんも聞かなかったことにするみたいだ。『叫びに関する質問は一切受け付けない』という強烈なプレッシャーが、ガイドさんより発せられている。
それにしても、いくら第1階層と言えど、罪人が地獄で幸福を感じちゃダメだよね。
「ところで、特訓地獄にはどのような罪を犯したら送られるんですか? 訓練のしすぎで身体を壊した人とか……でも、それは罪じゃないよね」
僕の疑問に、ガイドさんが答えてくれる。
「特訓地獄に行かされるのは、『自分自身は特訓の苦しさを知らないくせに、他者に必要以上の非合理な訓練を強いた人物』です」
なるほど。少年漫画に出てくるゲスな鬼コーチみたいなヤツだな。例え鬼コーチであっても、選手に慕われるタイプは、地獄行きを免れるわけだ。
「しかし現在、特訓地獄に来る罪人は、めっきり減ってしまいました」
ガイドさんが残念そうに嘆息する。
「どうしてですか?」
「スポーツ科学の発達で、武術やスポーツにおける非合理な訓練の度合いが減ってしまったんですよ。昔より、師弟関係の絆も弱くなりましたしね。学校の部活で少しキツい練習をすると、保護者がクレームをつけに飛んでくる時代です」
ガイドさんは、現代日本の状況にも精通しているようだ。
「千本ノックやウサギ跳び校庭百周が日常的に行われていた時代が、懐かしい」
ガイドさんが、しみじみと呟く。
いやいや、千本ノックはともかく、ウサギ跳び校庭百周が日常的に行われていた時代なんて、ありませんからね!
ガイドさんのトンデモ発言を、心の内で否定する。
僕の胸中における反論を見計らったかのように、ガイドさんは突然足を止めた。
「ここが、特訓地獄の入り口です」
健康サンダルって良いですよね。
次は特訓地獄回。