北方セルロド教団・降臨派
男が鋭利な三日月刀を右手に持ち、凄まじい速度で振り下ろしてくる。僕の顔面を断ち割る気か!?
もちろん、それを甘受するつもりは無い。
男からの攻撃と同時に、僕は相手との間合いをはかりつつ、自らの刀であるククリを斜め下から斬り上げた。
男の立つ位置と、僕の立つ位置との距離。男の武器と僕の武器の軌道が交わる、その予測点。
そこより導き出される結論は――ククリの刃が狙う先は、男の右の手首。
男は瞬間、考えたに違いない――『弓形の月の刀を恐れながらも、いまだ〝殺人〟への決心が出来ない童貞が、敵を無力化させる手段として、俺の手首を切断しようとしている。こんな甘くて臆病な意図による攻撃など、容易に対処可能だ。舐めるな』――と。
弓形の月の刀――三日月刀でククリを受けとめるか、あるいは受け流そうと、男は腕を曲げ、上半身をやや引き気味にした。攻めから守りへ、急な転換をヤツは行ったため、その動きには少しばかりの制限が掛かる。
男の戦闘の構えに、隙が出来た。――そこを、最大限の速さと力で、突く!
躊躇うな! 男は強い。ここで確実に討たないと、反撃を食らえば、こちらが負ける危険性が極めて高くなる。男との戦いの敗北は、死だ。
もしも、これから放つ、一撃を躱されたら、逆に僕のほうに隙が生じて………いや、強気でいけ! 己の武技と、本能と、今までの鍛錬を信じろ。
全身の筋肉をバネにして、男へ詰めよる。
僕は、攻めの勢いはそのままに、その目標を変化させた。ククリの動きは、曲線から直線へ。斬り上げから刺突へ。
足で床を蹴って、腰をひねり、身体を傾け、腕を伸ばし、ククリの切っ先を撃ち込む。
狙うのは男の手首では無く、顔の下。急所である、首。
僕の戦闘姿勢、何より、いきなりの攻撃精神の変容――殺気に対し、男は咄嗟の反応・行動に失敗する。ヤツの三日月刀は僕の身体に届かず、ククリによる一撃も防げなかった。
ククリの先端が、男の首の中央に突き刺さる。喉が切り裂かれ、鮮血が吹きだす。男のわずかな戸惑い、応戦の遅れが、ヤツにとっての致命傷になった。
首の破れた箇所以外に、男の口からも、大量の血があふれ、流れ落ちていく。
男の血が、僕にかかる。ククリが、僕の腕が、僕の身体が、男の血で赤く染まる。
男は……もう、喋れないだろう。しかし、男は僕を見つめ、真っ赤になった口もとを歪めてニヤリと笑った。その楽しそうな表情に、どうしようもない、男との〝生きる意味〟に対する考えの相違、そこからくる断絶感を覚える。
この男にとっては、己が負った傷も、己から流れ出す血も、たった一度しか訪れない己の死の時さえも、刹那に消費するための娯楽の材料にすぎないのだろうか?
そんな価値しか見いだせない、そういう生き方だけをしてきたのだろうか?
分からない。
そして、その答えを僕が知ることは永遠に、無い。
男の眼から光が失われ、握っていた三日月刀は手から離れ、床に落ちた。男は倒れた。
男は――死んだ。
僕が、殺した。
どのような相手であったにしろ、僕は……間違いなく、彼を――人間を殺した。
人を、殺した。
生命を失ったのは僕では無く、戦った敵の男だった。にもかかわらず、今まさに、自らの心の奥で、大きな何かが喪失したのを悟る。
一線を越えて、その先に足を踏み入れ、元の自分には、もう戻れない。
♢
壁につくられている穴を慎重に通って、隠し部屋から船倉へと出た。
多くの樽や箱が散乱し、それらは壊れて、中から果実酒が流れ出たり、果実が転がり出たりしている。
果実酒の甘酸っぱい香りに混ざって、不快な血のニオイが、鼻をついた。かすかに、吐き気を覚える。
かなりの数の人間が、倒れている。皆、一方的に攻められ、ろくな抵抗も出来ずに、息の根を止められたらしい。どの身体にも鮮やかな斬り口が出来ており、船倉に充満する血生ぐささの原因の大半が、そこにあるのは間違いない。
僕の眼前に立っている人間は、ただ1人。
その騎士は、武器の長剣を既に鞘へと収め、周囲の惨状に何の関心も抱いていないように、あくまで静かだった。
彼へ、声をかける。
「クラウディ様」
「ああ。サブロー殿」
クラウディは笑った。が、僕の身体に出来ている多くの小さな傷や、服についている大量の返り血を見て、不審げな表情になった。
「……サブロー殿。思ったよりも、苦戦なされたようですね。確かに、あの男は、まぁまぁの手練れではあったようですけれど。所持していた武器も、珍しい形をしていましたし」
「ええ。男は強かったです。武器の――刀の扱い方も、変わっていて……殺すより他に、戦いを収める方法はありませんでした」
「そうですか。きちんと、男を討ち果たしたのですね。それは良かった」
「良かった?」
――クラウディ!
怒りの感情が胸中に湧きそうになるのを、懸命に抑える。
「……クラウディ様は、どうして、あの男を隠し部屋へと通されたのですか?」
「〝どうして〟とは?」
「貴方の力量を、僕は知っている。クラウディ様――貴方は、わざと男の行動を妨げなかった。貴方なら、その気になれば、この場で男を倒せたはずだ」
僕は周りへ、視線を向けた。そこには、クラウディが造作もなく、つくりあげた死体の数々がある。
「……サブロー殿が仰るとおり、あの男は強かったです。手加減は、できない。自分が男を倒そうと思えば、サブロー殿と同じように、男を殺すしか、取るべき手段は無かったでしょうね」
「だったら!」
「サブロー殿は、男に勝った。手強い相手では、ありましたが……さすがは、サブロー殿です。それで、何の問題も無いではないですか?」
丁寧とさえいえる優しい口調で、クラウディが語る。あたかも、物覚えが悪い生徒に教える、親切な先生のように。
「だけど、僕は――」
「初めて、人を殺してしまった。その生命を奪ってしまった。それを後悔されている?」
「――っ!」
殺人について、僕が未経験だったこと。そして、たった今、それを経験した僕の心中の葛藤。
その事を、クラウディは分かっていながら――
「悔いる必要など、ありませんよ。戦士なら、誰もが、いつかは通る道です。〝人を殺す経験〟は貴重で、大事なものです。初体験は早ければ早いほど、その体験の数は多ければ多いほど、良い。自分は、そう思います」
「なにを、言って……」
「サブロー殿。今回、貴方が得た〝殺人〟の機会――踏ん切り時は、自分からの贈り物だと考えてくださると嬉しいです」
穏やかな態度で、異常なセリフを吐きつづけるクラウディ。
彼の心の内に何が蠢いているのか、理解できず、絶句してしまう。
「サブロー殿は、これからも、どんどん〝殺しの体験〟をなさっていくべきです。そうすれば、貴方はもっと、もっと、もっと……真の意味で強くなれる。そうなった貴方と、自分はもう一度……」
「余計なお世話だ! クラウディ!」
激昂のあまり、面と向かってクラウディの名を呼び捨てた。
僕の無礼な振る舞いに、クラウディは腹を立てる様子を見せず、かえって喜んでいる。
「クラウディ! 僕は、人を殺す経験を、貴重だとも、大事だとも、思わない。出来るだけ、しないほうが良い。それが当然で……今回のことだって、クラウディ、お前が勝手な思惑を抱かず、男を倒してくれてさえいれば――」
「〝己は手を汚さずに済んだのに〟――ですか?」
クラウディからの問いかけが耳に届き、ハッと我に返る。
「サブロー殿。己が殺すのはイヤだが、仲間や味方の誰かが、己に代わって、敵を殺してくれるのは構わない……それは、あまりにも」
淡々と発せられる、クラウディの言葉が。
胸の奥に沈んでいく。重く、深く。
更なる反論はできず、しばしの沈黙の後、ゆっくりとクラウディへ頭を下げる。
「……それは、あまりにも卑怯な考え方ですね。申し訳ありません、クラウディ様」
「頭を上げてください、サブロー殿。自分も、言葉が過ぎたようです。……それで、壁の向こう側の隠し部屋は、どうなっていたのですか?」
「数人の獣人の子供たちが捕らえられていて――」
戦いは終わり、僕とクラウディは、やるべき処理を始めた。
互いに複雑な感情を抱えつつ。
♢
クラウディが壁に剣で穴を開け、僕が隠し部屋の中へ入り、ハギウズが大声で手下を呼び寄せた。その時点から、この大型帆船の各所で、僕の仲間たちと船の乗組員――ハギウズの配下たちとの戦闘は開始された。
甲板上では、コマピさん・ドリス・キアラ。
船首方向の船倉では、リラーゴ親方・エメールさん・リアノン。
船尾方向の船倉では、クラウディ。
それぞれの場所で、皆は勇敢に戦った。そして圧勝した。
僕とクラウディの働きにより、悪事がバレてしまったハギウズ。彼は僕らを殺すか、捕らえるか、河へ放り込むかして始末したあと、強引に船を出すつもりだったみたいだ。夜間の航行は危険だが、国境を越えて聖セルロドス皇国の内側へ逃げ込めば、それからはどうとでもなると目論んだらしい。
おそらく皇国には、このベスナーク王国に居る以上に、ハギウズの犯罪に協力する者どもが多く存在しているのだろう。
しかし、僕らの活躍により、ハギウズの企みは阻止された。
コマピさんは愛用の武器である〝刺突専用の剣〟を使い、襲ってくるハギウズの用心棒をやっつけた。
エメールさんは長剣を用いて、騎士らしく立派に戦った。
リアノンも長剣を持って、やっぱり騎士らしく…………あとでエメールさんが「リアノンさんの戦い方は、凄かった。とても頼もしかった。暴風みたいだった。近寄ったら、私も危なかった。恐かった。率直に言って、やり過ぎだと思った」と述べていたけど。
リアノンは敵を倒すついでに、船内の備品とか、置物とか、積み荷とか、障壁や天井とか、イロイロ壊したらしい。それはもう、華々しく。とはいえ、船底をぶち破らなかっただけ、彼女としては周囲の環境に配慮し、精いっぱい自制していたといえるだろう。おそらく。
僕は、仲間である皆の実力を信頼している。ただ、その中で、ちょっとだけ不安を感じていたのは2人。
1人は、リラーゴ親方だ。親方が仕事人として素晴らしいのは分かっていたが、どれくらい戦えるのかは知らなかったからね。親方は、さすがにエメールさんやリアノンほどには、戦闘慣れはしていなかったものの、足手まといには全然ならなかったらしい。太い腕をぶん回して、向かってくる敵を「ウホ!」という掛け声とともに派手に殴り飛ばしていたそうだ。
親方の握り拳は、大きい石の塊みたいだからな。あれで殴られたらメチャメチャ痛い……というか、一発で気絶しちゃうだろう。
もう1人は、ドリスだ。ドリスはプロの3級冒険者だけど、武術家や格闘家では無くて、土系統の魔法使いだ。
トレカピ河とその周辺は、そこに含まれている魔素が薄く、魔法が使いにくい。まして土系統の魔法では、火・水・風の系統の魔法とは異なり、大河の水や空気の流れ、帆船の可燃部分を利用しての戦いが出来ない。
トレカピ河に浮かぶ船の上において、彼女の能力を充分に発揮するのは困難であるに違いない……との懸念が、僕にはあった。
ここまで大規模な乱闘騒ぎとなってしまい、ドリスは大丈夫だろうか? ――そう心配したのだが、ドリスに会って訊いてみると、全くもって、大丈夫だった。
こんな事もあろうかと、ドリスは砂を入れた革製の巾着袋を、キアラに預けておいたのだとか。しかも、その砂は、あらかじめ魔力を込めている特化品だ。
土の魔法使いは当然ながら、砂も操れる。
緊急事態が発生するや、キアラは自身の背負い袋から素早く、その砂入りの巾着袋を取り出し、ドリスへ手渡した。
襲撃してくる相手に向かっての、ドリスの対処の仕方――
・顔面に砂を投げつけて、土魔法の《砂・目つぶし》をかける。そこへ、キアラがメイスでゴチンと敵を殴る。
・胴体へ砂を投げつけて、土魔法の《砂・金しばり》をかける。そこへ、キアラがメイスでゴチンと敵を殴る。
・足もとへ砂を投げつけて、土魔法の《砂・足すべらせ》をかける。そこへ、キアラがメイスでゴチンと敵を殴る。
そうやって、キアラとのコンビネーションプレイで、ドリスは多数の敵を倒した。
この戦闘でドリスが消費した魔力の量は、魔法の砂を活用したことにより、前もって彼女の体内に溜めておいた分で済んでいる。
ドリスもキアラも、凄いな……。戦法が巧みで、賢い。
2人が冒険者パーティー《暁の一天》のメンバーとして、長い間、一緒に戦ってきたことを改めて思い出す。
感心していると、逆にドリスとキアラから、僕のほうが心配された。
服が血のせいで赤くなっているからね。「敵の返り血なんだよ」と言ってはみたが、特にドリスの瞳から、僕の……おそらく心の状態を危惧している色が消えない。
初めて、人間の生命を奪った。その事で僕が精神にダメージを負っているのを、ドリスは感じ取っているのかもしれない。
条件的に許されている場合であっても、冒険者や騎士が闇雲に殺人を行うかというと、無論そんな事はない。忌避感情もあるし、政治的・倫理的な問題もある。
なので、このハギウズ一味との戦いでも、仲間の皆は出来るだけ、相手を殺さずに倒し、捕らえている。死なせる人数は、最小限に抑えていた。あのリアノンであっても、そうだ。敵をボコボコにしても、生命までは取らない。戦う相手がオークだったら、彼女の対応は別になったんだろうけど。
そのような中で、向かってきた敵を1人残らず斬り殺してしまったクラウディの行いは、やはり異様だ。
皆、その事実について殊更、口にはしないが……非難する必要は無いが、あえて称賛すべき事柄でも無い。そう考えているようだ。
結局、この船での戦闘で僕が倒したのは、あの三日月刀の男だけだったな。
あれ? 仲間の間で最も結果を出せなかったのは、僕なのかな? でもララッピちゃん達を助け出せたから、良いか。
男の……人間の生命を絶ってしまったが……。
ミーアは救出できていない。
僕が初めて人型モンスター――ゴブリンを殺してショックを受けていたとき、側に居て慰めてくれたのはミーアだった。
ミーア――
船の甲板上に、拘束された敵の男たちが並べられている。こいつらは今から、ナルドット侯爵の騎士団のところや、冒険者ギルドへ連れて行かれて、そこで獣人の子供らを誘拐した件など、さまざまな犯罪行為についての、取り調べを受ける予定だ。
けれど、その前に。
僕は縄で縛られ、座らせられているハギウズに近づく。ハギウズは船倉から逃げ出して甲板に上がったところを、ドリスとキアラによって捕縛されたのだ。
ハギウズの襟元を掴み、グイッと引き寄せる。
「おい、ハギウズ。ミーアをどこへやった?」
「ミ、ミーアだと?」
「お前がカルートンの屋敷にある倉庫の地下から、連れ出した黒猫の獣人の少女だ。彼女は黄金の瞳を持っている、目立つ存在だ。知らないとは、言わせないぞ」
救出したあと、ララッピちゃんから聞いた。この帆船へと運び込まれる、その準備段階――樽に入れられる前に、ララッピちゃんとミーアは引き離されたらしい。
ミーアは、船とは別の場所に連れて行かれたのだ。
〝ミーアの誘拐〟は、まだ続いている。現在のミーアの居どころは……?
この場での他の男たちへの尋問で、分かった事がある。あの三日月刀の男は、ハギウズにとって、最強の部下だった。その男が冒険者ギルドのルティユさんを襲い、ミーア・ララッピちゃん・ナンモくんを誘拐する事件の指揮をとった。
つまり今回の犯行に、ハギウズは最初から深く関わっていた。
ならば――
「ハギウズ! ミーアは、どこに居る?」
「く、苦しい……。手の力を、緩めてくれ」
「早く言え。こっちは、お前の首を絞めたくなるのを、必死に我慢しているんだ。……そうだな。僕が殺した、あの男の――弓形の月の刀を拾ってきて、それで、お前の身体を切り刻んでやろうか?」
「ほ、本気か?」
「これが、冗談を言っている顔に見えるか?」
僕の険しい形相。血に染まった服。厳しい口調に恐怖したのか、ハギウズが白状する。
「黒猫の娘は……北方セルロド教団の者たちに渡した」
「北方セルロド教団?」
なんだ? そいつらは。
疑問を抱く僕へ、エメールさんが教えてくれる。騎士らしい、ストレートな話し方で。
「北方セルロド教団は、トレカピ河の北岸、タンジェロ大地で女神セルロドシア様への信仰を布教している団体だよ」
エメールさんに視線を向け、彼女へ確認の問いかけをする。
「セルロド教の団体のひとつ……なのですね? エメールさん」
「そのとおり。信仰心の篤い人々の集団で、犯罪に加担するようなことは無いはずなのだが……」
エメールさんが、口ごもる。聖セルロドス皇国の騎士であるエメールさんは当然、セルロド教の信徒だ。彼女にとって、ハギウズの告白は受け入れがたいものなのだろう。
「でも、エメールさん。セルロド教には〝人間至上主義〟的な考えがあって、獣人への差別意識がありますよね?」
アンジェリーナさんやガイラックさんが信仰している《真正セルロド教》は、そうではないが。
「それは……」
僕が指摘したことを、エメールさんは否定できない。エメールさん自身は、獣人への差別感情は無いようだけど、それだけに、むしろ彼女は辛そうだ。
しかし……よく考えたら、ハギウズの話は不自然だ。
宗教団体、それも未開の地での布教活動に努めているような人々が、ミーアを欲する理由は何だ?
労働力として? ――ミーアより体力がある獣人は、いくらでも居る。
愛玩用の奴隷として? ――街に住む貴族や金持ちの商人ならともかく、荒野で生活を営む覚悟をしている宗教関係者が、そのような非生産的な存在を、わざわざ側に置きたいと思うだろうか。
ハギウズがミーアを、そいつらに押しつけたのか?
それとも、まだ、何かをハギウズは隠している?
僕は、ハギウズへ向きなおる。
「ハギウズ! お前、この期に及んで、出任せを口にしているんじゃないだろうな?」
「嘘では無い! 黒猫の娘を受け取った者たちは、北方セルロド教団の中でも特別な一派なんだ」
「特別?」
「降臨派だ。彼らは、汚れた大地であるタンジェロを浄化するために、女神セルロドシア様に天より降臨していただこうとしている。そのために、黒猫の娘が必要なのだと……そう言っていた」
「何だと!?」
それでは……まるで、生け贄としてミーアが求められているみたいじゃないか!
「あの黒猫の娘を拐かし、引き渡すことが、降臨派からの依頼だった。『ナルドット冒険者ギルドの新人研修を受けている、獣人の黒猫の少女』――と、誘拐対象はハッキリと指定されていた。ウサギの娘や犬族の少年を掠ったのは、そのついでだ。降臨派の者たちはトレカピ河を渡り、今頃はタンジェロ大地を移動しているはずだ。黒猫の娘を連れて」
ハギウズが僕に首を締め上げられながら、途切れ途切れに喋る。嘘を言っている様子は、無い。
「他には?」
「降臨派が、黒猫の娘を最終的にどこへ連れていくつもりなのかは、聞いていない。タンジェロにあるセルロド教の神殿か、教団の施設か、そんなところだろう」
「……他には?」
「何故、降臨派に黒猫の娘が選ばれたのか? 女神セルロドシア様を迎えるために、娘をタンジェロで、どんな風に扱おうとしているのか? そこまでは、分からない。興味も無かった」
「……他には?」
「それだけだ。他はもう、何も知らん。本当だ!」
「そうか」
ハギウズを突き放し、北の空へ、目をやる。もう、夜の時間帯だ。トレカピ河の向こう、タンジェロ大地を覆っている空は、とっくに暗くなっている。
闇が見える。
と。
「タンジェロ大地……」
ドリスが発した呟きが、耳に入る。タンジェロの地に、ドリスは何か思い入れがあるのだろうか?
かつて、シエナさんは僕へ語ってくれた。
『〝タンジェロ〟と呼ばれる地方は、どこの国にも属していない未開の大地です』
『タンジェロの探検や開拓を目指す人々が、ナルドットに集まってくるのです』
『タンジェロは、極めて危険な地です。数百年前に滅んだ大帝国の跡地と伝えられており、無数の廃墟や迷宮が存在しています』
『人間以外の様々な種族やモンスターが生息していて、魔族の目撃情報もあります』
そのタンジェロの地に今、ミーアが――
頭が、上手く働かない。理解が及ばない。この誘拐事件で、ミーアは偶然に被害者になったのでは無かった。掠う対象として、事実上、教団の一派から名指しされていたのだ。
何故だ? どうして?
広大なタンジェロ大地で、どうやってミーアを探し出せばいい? 彼女の行方を追うには――
足もとがグラリと揺れ、頭の中が真っ白になり、いつのまにか空中に身体が放り出されてしまっているような……全てのバランスを失った、そんな感覚になる。
ボンザック村で『ミーアが誘拐された』との報告を聞いて
ナルドットの街へ駆けつけ
カルートンの屋敷へ突入し
ハギウズの船に乗り込んだ。
それでも、ミーアへ手が届かない。
ズキズキと。
全身の古傷と、新しく出来た小さな傷が、改めて痛み出した。
どっと疲れが全身に押しよせる。脚に力が入らず、膝を床につきそうになる。が、懸命に気を奮い立たせる。
負けるな。
顔を上げろ。
前へ進むんだ。
どんな状況になろうと、どんな苦難が待ち受けていようと、関係ない。
僕は、ミーアを助け出す。必ず。絶対に!
♢
エメールさんは、ここで僕らと別れることになった。船を降り、あの怪しい三角巾の覆面と灰色のガウンを身にまとって、去って行く。ベスナーク王国で秘密の活動をしている彼女としては、自身の存在を、これ以上、誰かに知られるのは避けたいらしい。
今後、出てくるであろうハギウズが犯した罪に関する調査結果などは、リラーゴ親方を通して入手するつもりなのだろう。
残りの皆は船に留まり、ハギウズたちの監視を続ける。必要とされる関係先への連絡は、リラーゴ親方のもとで働いている、親方が特に信頼している港の人夫さんが引き受けてくれた。
冒険者ギルドへは2名。
アズキやモナムさんが居るカルートンの屋敷へも2名。――と、念のために複数の人夫さんが、それぞれの場所へ向かう。
ただナルドット侯爵が住んでいる領主館へ赴くのは、さすがに身分・立場がある者でなければならない。そのため、クラウディが行くことになった。
皆の了解を得て、僕もクラウディに同行する。
タンジェロ大地に連れ去られたミーアを、どのようにして救い出すか。
その方策について、少しでも早くフィコマシー様とシエナさんに相談したい。正直、2人の顔を見たいという想いもある。やはりそれだけ、心と身体が疲れている。
コマピさん・リラーゴ親方・リアノン・ドリス・キアラに、ララッピちゃんをはじめとする獣人の子供達の保護など、後のことを頼んで、僕とクラウディは侯爵邸へと向かった。
ナルドットの夜の道を、僕もクラウディも無言のまま進んだ。
侯爵邸に到着すると、深夜であるにもかかわらず、屋敷内が騒がしい。明かりも、過剰に灯っている。
何か、あったのか?
そこで、僕とクラウディは驚愕の知らせを耳にした。
――え! オリネロッテ様が、行方不明になった!?




