1414+1414=2828
今話の前半は主人公の視点ですが、後半は別キャラの視点になります。
「エメール殿。頼みがあるのだ、ウホ」
リラーゴ親方は重々しい声で、これまでの経緯をエメールさんに説明しはじめた。
ゴリラそっくりな容姿の親方と、極度に怪しい服装をしているエメールさんが向かい合っている光景…………う~ん、なんか凄い変な感じだな。
独特の緊張感が伝わってくる。あたかも、森の中でゴリラと密猟者が対峙しているみたいだ。ここは森とか密林とかじゃ無くて、大河の岸辺なんだけれど。あと一応、街の中なんだけれど。
「……というわけなのだ。エメール殿」
「なるほど。そんな事が――」
リラーゴ親方の話を、エメールさんはとても真剣な表情で聞いている。
いや! 覆面をしているせいで、エメールさんの頭部は、穴が開いている目の部分の他は、全く外から見えていない状態ではあるんだけどね。
しかし、間違いなく彼女は現在、大変に真面目な顔をしている。
僕には分かる。根拠なき確信だ。
「ウホホ。俺たちは、今からハギウズの船へ乗り込むつもりだ。一緒に来て欲しい。エメール殿」
「皇国に属する身である私に『力を貸せ』と?」
「うむ。ハギウズは聖セルロドス皇国の商人だからな。エメール殿が共に居て、その存在を誇示してくれれば、俺たちの要求をヤツは断れないはずだ。ウホ」
「リラーゴさんには、常々お世話になっていますから……加えて、皇国の商人の犯罪を見逃すなど、あってはならない事。ですが――」
エメールさんが、躊躇している。彼女自身の思いとしては、僕たちに加勢したい。けれど、自らの立場を考えると、迂闊に行動するのも……との迷いが、エメールさんには、あるようだ。
エメールさんは、聖セルロドス皇国からベスナーク王国へ潜入し、秘密の活動をしている。その内容は《いかがわしい書籍を王国から皇国へ密輸する仕事》だけじゃない筈だ。実際のところ彼女は、もっと多様な使命を帯びて動いているのだろう。
なので、安易に表に身を現して、余計なトラブルに巻き込まれるのは避けたい。本来の任務に差し支えるのも困る……と、エメールさんが悩んでしまうのは、当然だ。
しかし、僕としては、ここは是非にでもエメールさんに協力してもらいたい。ミーアとララッピちゃんを、ハギウズの手中より救うために。
エメールさんの助けがあれば、ミーアたちを救出できる確率が大幅にアップするのは間違いないのだから――
僕は、エメールさんの側へ歩み寄った。
「エメールさん」
「少年……か。君とは以前に、会ったことがあるな。確か、団長と同じ冒険者パーティーのメンバーで――」
「団長?」
「あ。いや。君は、冒険者パーティー《暁の一天》の一員だよな? 名前は、サブローといって……見習いとして最近、加入したとか。ソフィーから教えてもらった」
エメールさんの僕への口調は、リラーゴ親方と話している時とは違って、少し砕けている。そこからエメールさんの年齢や社会的身分が、ある程度、推測できる。
そしてエメールさんは、ソフィーさんのことを『団長』と呼んでいるのか。つまり、エメールさんとソフィーさんの関係は〝部下と、その上役〟ということになるのかな?
と、なると――
「エメールさん。ちょっと、よろしいですか?」
僕はエメールさんを連れて、皆とは少し距離をとった場所へ移動した。
「ん? サブローは、私と2人だけで何かを話したいのか?」
「はい。ハギウズに捕らえられているであろう獣人の少女のうち、ミーアは僕の大事なパートナーなんです。彼女と、彼女と一緒に誘拐された子を救い出すために、エメールさんの助けが必要なんです。お願いです。力を貸してください」
エメールさんに、頭を下げる。
「サブロー。君の気持ちは分かる。しかし私が不用意に動くと、同志や、何よりも団長……ソフィーに迷惑を掛ける怖れがある。だから、私は――」
「そのソフィーさんから、僕は伝言を預かっています」
「え?」
エメールさんの三角覆面の片側、布の向こうに耳がある辺りに、僕は口を寄せて、ソッと囁いた。
「……あなたが『良~よ、良~よ』で、わたしが『良~よ、良~よ』で、2人あわせて『ニャ~、ニャ~』だ」
「そ、それは! 同志しか知らない、合い言葉!」
覆面が揺れる。
エメールさんは、ビックリした様子になった。
「ソフィーさんが、僕に教えてくれたんです」
「そうか……サブローは、それほどまでに団長に信頼されているのか」
この合い言葉――
【あなたが『良~よ(1~4)、良~よ(1~4)』で、わたしが『良~よ(1~4)、良~よ(1~4)』で、2人あわせて『ニャ~(28~)、ニャ~(28~)』だ】
というのは、つまり
【1414+1414=2828】
って計算からの連想で作ったフレーズだよね。
合い言葉の意味するところは『この者は信用に足る。可能な範囲で、支援せよ』なんだけど、文章的にも、数字的にも、暗示的にも、あと〝人と猫〟的にも、いろいろな観点から納得レベルが非常に高い。
素晴らしい、合い言葉だ!
……ソフィーさんやエメールさんが入っているグループの言語センスに、ほんのわずかだけ、疑問を覚えてしまうけど。
賢明な僕は、そこはスルーするのだ。
「ソフィーさんは、合い言葉を僕に教えてくれた際に『これは私からエメールや、その仲間たちへの伝言なの』と仰ってました」
「団長が……」
エメールさんの覆面が、うつむき加減になった。深く考え込んでいるらしい。これは、あと一押しすれば、決意してくれそうだ。
その時、僕とエメールさんのもとに、誰かが近づいてきた。
「え? ドリス?」
「サブロー。あたしにも、少しだけ話をさせて。エメール様……あたしの名は、ドリスと言います」
自己紹介するドリスへ、エメールさんが尋ねる。
「ドリス。君も《暁の一天》のメンバーだよな?」
「はい。ソフィーには日頃から、とても世話になっています。何をおいても《暁の一天》は、ソフィーの人柄と能力に支えられている部分が大きいですから」
「うん。団長……ソフィーなら、そうだろうね」
ドリスの言葉を受けて、エメールさんは納得したように頷いた。
そんなエメールさんへ、ドリスは窺うような視線を向ける。
「しかし、そのソフィーは先日、危うく命を落としかけました。ソフィーばかりか、パーティーリーダーのアレクまでも」
「な!」
ドリスの突然の報告を聞き、驚愕したに違いない。エメールさんの身体が、ビクッと震える。
「ソフィーと、ア、アレク様は、無事なの?」
「心配なさらないでください。2人は戦闘でケガを負いましたが、一命は取り留めました。今は、ボンザック村で療養中です。間も無く、回復するでしょう」
「そうなのね……」
覆面が揺れている。気持ちを落ち着けるために、エメールさんは何度も深呼吸をしているようだ。
「でも、あの2人が、そこまで窮地に追い込まれるなんて、どんな強敵を相手にしたら、そういう結果に……?」
「魔族です。それと、その魔族が率いていたサイクロプス4匹」
「――っ!」
ドリスの返答に、エメールさんが息を呑む。
「魔族とサイクロプスを倒して、アレクとソフィーの命を救ったのは、ここに居るサブローです」
「サブローが!?」
エメールさんが、パッと僕のほうへ顔を向ける。
ちょっと!
どうしてドリスは、こんな話をエメールさんにするんだ? 僕は、過剰な手柄アピールをするつもりなんか無いぞ。
「ドリス!」
「サブロー。自分のあげた成果を、披露すべきタイミングを間違えちゃダメよ」
ドリスは僕へ、そう告げて、エメールさんに語気を強めて語りかけた。
「エメール様。サブローは、アレクとソフィーにとっては命の恩人です。同じ冒険者パーティーに所属しているとはいえ、サブローはまだ見習いです。これだけの事をやってのけられる人物は、サブロー以外に考えられません。エメール様がソフィーやアレクに縁がある方なのなら、サブローに恩を施す……いいえ、恩を返す意味でも、ここはサブローの行動に協力されるべきなのではないでしょうか?」
「……そうね。その通りだわ」
エメールさんは呟きつつ、首を〝承諾〟とばかりに縦に振り、それからリラーゴ親方たちのところへ戻っていった。僕とドリスも、エメールさんの後ろに続く。
皆の前で、エメールさんは宣言する。
「獣人の子たちを救出し、ハギウズを逮捕するのに、私も手助けさせてもらいます」
「ウホ! 感謝するぞ、エメール殿」
リラーゴ親方が喜ぶ。
良かった!
エメールさん、ありがとう。彼女を説得してくれたドリスにも、感謝だね。
「皆さんと共に行動するからには、このスタイリッシュで、スマートで、ラブリーな三角マスクは無用ね」
そう言って、エメールさんは三角形の覆面をとり、更に灰色のガウンを脱いだ。覆面&ガウンを、彼女は『普段着』なんて述べていたけど、その下にも、ちゃんと服を着ていた。安心した。
でもって、エメールさんは、あのヘンテコリンな覆面を『スタイリッシュで、スマートで、ラブリーだ』と思っていたんだ……。
そして、そんな彼女の素顔は――
そこには鮮やかな赤い髪が目をひく、引き締まった身体の女性の姿があった。服装は品が良くて、それでいて動きやすそうだ。あと、腰から脚にかけて、垂直になるような形で剣を装備している。
童顔だけど、年齢はソフィーさんと同じくらい……20代前半かな?
もう一度、エメールさんの外見を確認する。
元気があって、気安そうで、快活な印象を受けるな。それから……あ、分かるぞ。彼女は騎士か、そうで無くても、騎士に近い職に就いている人物だ。クラウディやリアノンと類似した雰囲気が、エメールさんから伝わってくる。
性格は違っても、同じ職務をこなしている人たちには、何か共通しているものがある。
リラーゴ親方も、ハッキリと口にしてはいないが、エメールさんが『騎士である可能性』を語っていた。
やっぱりエメールさんは、皇国の騎士なんだ。
僕と同じ感想を抱いたのだろう。クラウディがエメールさんへ、スッと音も無く接近する。
「エメール殿は、聖セルロドス皇国の騎士なのですね?」
「……そうです」
「皇国の騎士である貴方が、何故ナルドットに居られるのです? 正規ルートをたどって、ベスナーク王国に来られているわけではありませんよね?」
クラウディは、その声も顔つきも冷静で、別に戦闘体勢になってもいないんだが……いざとなれば、エメールさんに剣先が届く場所に、彼は居る。
この距離――
クラウディの実力だったら、彼がその気になった瞬間、エメールさんを殺せる。
エメールさんも、それに気付いている。彼女の表情が強ばった。
「私は、皇国内部の問題を解決するため、その方策の一つとして、このナルドットに来ています。ベスナーク王国にも、ナルドット侯爵にも、決してご迷惑をお掛けいたしません」
「誓えますか?」
「ハイ。わが皇国への忠誠にかけて」
エメールさんは剣を鞘ごと己の前に掲げ、刃をわずかに引き出した。そして即座に、カチッと音を立てて刃を鞘へと仕舞う。
騎士の誓い――〝金打〟だ。
前に僕とクラウディがやった時は、互いの刀剣の鍔の部分を打ち合わせたが、今回のエメールさんは《一人による金打》を行った。しかしながら、どちらにしろ〝戦士の堅い誓約〟である事に変わりはない。
エメールさんの金打を見て、クラウディが微笑した。
「エメール殿の誓約、確かに見届けました。貴方を信じます」
「ありがとうございます。……貴方は、クラウディ殿ですよね? ご高名は、かねがね耳にしておりました。このような形ですが、お会いできて光栄です」
「いえ。自分は、それ程の者では――」
他国の騎士であるエメールさんに褒められて、クラウディは恥ずかしそうな表情になる。
クラウディは18歳……これが、年齢に似つかわしい反応なのかも。さっきのクラウディの態度は、怖すぎだ。
リアノンがやって来て、クラウディとエメールさんの顔を交互に眺めた。
「ん? クラウディ殿とエメール殿は、ケンカはしないのか?」
「どうして、私がクラウディ殿とケンカを?」と、エメールさん。
「どうして、自分がエメール殿とケンカを?」と、クラウディ。
「だって、騎士はケンカで殴り合って、それで仲良くなるものだろう? 『関係を深めるのに最適な方法とは、拳を交えること。タンコブが増えるほど、友情も深まる』――これが騎士の常識だからね」
「そのような常識は、聖セルロドス皇国にはありません」と、エメールさん。
「ベスナーク王国にも、無いです」と、クラウディ。
凄いぞ。リアノンのボケに対するツッコミで、エメールさんとクラウディの息がピッタリと合っている。
クラウディとエメールさんとの間に漂っていた緊張感を和らげるために、リアノンは敢えてボケ役を買って出たのだろうか………そんなわけ、無いよね。
まぁ、でも、リアノンの頓知……じゃ無くて、トンチキ……《リアノン・トンチキ・パワー》は意外なタイミングで、意外な効果を発揮するなぁ。感心する。
それはそうと、僕はドリスへも、礼を述べないと。
「ドリス、ありがとう。エメールさんを説得するのに、力を貸してくれて」
「どういたしまして」
ドリスが笑顔になる。その隣に、キアラが立っている。
2人を見て、それから僕は、この場に集まってくれている皆の姿を眺めた。
勇気づけられると同時に、なんとなく溜息が出る
「どうしたの? サブロー」
「ドリス……いや。皆さんに頼りっぱなしなのが、ありがたいと共に、申し訳なくてね」
ドリスが強い瞳で、僕を見た。
「ここに居る全員が、自分の意志で参加しているの。皆、サブローの力になりたい……そう思うようになっている事実こそ、まさにサブローが頑張ってきた証よ。頼ることが出来る人脈だって、立派なサブローの実力だわ。胸を張りなさい!」
「サブロー、えらい」
ドリスの励ましの言葉に続いて、キアラも僕を褒めてくれた。
「ありがとう。ドリス、キアラ」
深く息を吸い、一度、頭の中をクールにする。改めて、気を引き締める。
……うん。良し。
皆でハギウズの船へ、一気に踏み込むぞ! ミーアとララッピちゃんを、助けるんだ!
意気込む僕へ、エメールさんが声をかけてきた。
「サブロー。ハギウズのもとへ行く前に、ひとつだけ質問があるのだが?」
「なんでしょう?」
エメールさんは、ドリスとキアラへ訝しげな視線を向けた。
「どうして、2人の少女はメイドの姿をしているのだ? 2人とも《暁の一天》のメンバーで、冒険者だよな?」
「……まぁ、イロイロありまして」
「そうか。これ以上の質問は、しないでおこう。しかし一応、年長者として忠告しておく。おかしな格好をするのは可能な限り、控えたほうが良い。不審者と間違えられたら、困るだろう?」
いや! それを、アンタが言うのか! ついさっきまで、不審者そのものの格好をしていたエメールさん!
♢
同時刻のナルドット。
侯爵家の屋敷。
令嬢のフィコマシーは自室に居た。メイドのシエナも室内に控えている。〝1人でも、気持ちを強く持つようにしよう〟と思っているフィコマシーであるが、やはりシエナの姿が側にあると、自然と安心してしまう。
「今頃、オリネロッテはどうしているのかしら? サブローさん達は、大丈夫でしょうか? ミーアちゃんも――」
「……お嬢様。リアノンさんやアズキ様も、ご一緒していらっしゃるんです。皆様、優れた方ばかりです。吉報を待ちましょう」
「そうですね」
フィコマシーが心配し、シエナが慰める。そんな風に2人が言葉を交わしていると、部屋のドアが外からノックされた。
シエナが、扉を開く。
すると、そこには知り合いのメイドが、人なつっこい笑みを浮かべながら立っていた。
「サリーさん?」
サリーは、シエナと同じ年齢の17歳。メイド仲間のあいだでは孤立気味なシエナへ、比較的、親しげに接してくれる少女だ。
サリーが、シエナへ告げる。
「シエナさん。メイド長様が、お呼びです」
「私を、ですか?」
「ハイ」
「用件は、何でしょう?」
「さぁ? 私は『シエナに声をかけてきて』とメイド長様に言われただけですので」
シエナはフィコマシー付きのメイドであるが、侯爵家の使用人でもあるため、当然ながら、メイド長は彼女の上司にあたる。メイド長からの呼び出しがあった以上、それに応えないわけにはいかない。断るのに相応しい理由があれば、別だが……。
シエナが振り向くと、フィコマシーは頷いた。
「シエナ、行ってらっしゃい。貴方の用事が終わるまで、この部屋で私は待っていますから」
「申し訳ありません、お嬢様。すぐに戻ってきます」
フィコマシーと離れ、シエナは侯爵邸の廊下を歩く。案内するのは、サリーだ。
思ったよりも、屋敷の中は静かで……。
ふと、シエナは不安になった。
(今、このお屋敷に、サブローさんは居ない)
むろん、サブローは侯爵家に直接の関わりがある人間では無いので、居ないのが当然の道理ではあるけれど。
しかし、居ないのはサブローだけでは無い。
リアノンも居ない。
アズキも居ない。
ミーア達を救出すべく、出払ってしまっている。
サブロー・リアノン・アズキの他に、バイドグルド家騎士団の重鎮であるキーガンも居ない。
キーガンは最近になって、フィコマシーへの態度が温和になってきた。「昔のような、優しさを見せてくれた」と、キーガンについてフィコマシーが嬉しそうに語ったのは、つい先日のことだ。
そのキーガンは現在《魔族が出現した》との急報を受けて、事件の現場となったボンザック村へと出向いている。
加えて、オリネロッテも居ない。シエナはオリネロッテに対して複雑な感情を抱いているが、それでも、オリネロッテはシエナへ親切な言葉をかけてくれるし、姉妹であるフィコマシーのことを彼女なりに大事に思っているのも間違いない。
(いざという時に、助けを求めることができる相手が……)
シエナやフィコマシーの味方になってくれる可能性がある人物が、現在の侯爵邸には皆無だ。
それに気付いた瞬間、シエナの全身に寒気が走った。
静寂が、耳に痛い。聞こえるのは、先に行くサリーと、自分の足音のみ。
(考えすぎよ! 何よりも、侯爵様が居られるじゃない)
ナルドット侯爵のワールコラム=バイドグルドは、次女のオリネロッテを溺愛して、長女のフィコマシーに辛く当たっている。しかし、そのワールコラムも、さすがにフィコマシーの身体に害が加えられるような事態が起こるのは、絶対に許さない。そこには、最低限ではあるが、確かに親としての情と、良識が存在している。
だが、侯爵は己の娘の命を守る意思はあっても、その娘の〝腹心のメイド〟の命は眼中に無い。
その事実をシエナは認識している。それは、侯爵としては当たり前な価値観による判断であるため、シエナは特に気にすることは無かった。今の今までは。
けれど。
想像の行きつくところ――
(現在、お屋敷の中で、もっとも危ない位置にある人間は……私?)
いや。大丈夫だ。まず第一、何をおいても、あの決闘騒ぎでシエナの生命を奪おうとした張本人――伯爵家の子息であるアルドリューが、もうナルドットには居ない。犯罪者として捕らえたキドンケラ子爵を連れて、王都へ旅立っていった。
(アルドリュー様は、居ない。積極的に私を殺そうとする人間は、今のナルドットには存在しない)
あの時のように、罠にハメられる状況になるのは、2度とあり得ない。少なくとも、ナルドットでは。
シエナが自分に言い聞かせているうちに、どうやら目的の場所に着いたらしい。
サリーが、ひとつの扉の前で立ち止まる。
「シエナさん。なかで、メイド長様がお待ちです」
「この部屋?」
フィコマシーの部屋から、随分と歩いた。ここは、侯爵家の屋敷の中でも端のほうになる。
(こんなところで、メイド長様が私を待っている? 何の用事があって?)
良くない予感がする。
引きとめる間も無く、サリーが扉を開いて室内へ入ったので、やむなくシエナも後に続いた。
警戒はしていた。
が、それは瞬時に起こる。
シエナが入室すると、即座に背後のドアが閉じられた。閉扉と施錠の音が、連続で響く。
前方に居たサリーが、素早い動きでシエナの後ろにまわり、扉の錠を内側から下ろしたのだ。
普段の彼女の姿とは、かけ離れすぎている機敏さだ。何かが、異常で――
しかしシエナは、振り返ることが出来なかった。
室内で待ち受けていた、2人の男性。
どちらも30歳くらいの年齢で……彼らから、一瞬でも目を逸らせない。
(まさか――!)
シエナの眼前に立っている人物の1人は、ムロフト。
あの時、アルドリューと組んで、サブローとシエナを殺そうとした。サブローへ火の魔法《火球》を放った、長身の魔法使い。
もう1人は、ランシス。
やはり、あの時……いや、そればかりで無く、決闘の時までも、サブローを殺そうとした騎士。オリネロッテの護衛隊の隊長であったが、その暴挙を咎められて、隊長職から降ろされたという――
部屋の中に、メイド長の姿は無い。
〝メイド長からの呼び出し〟は、嘘だった。
サリーがシエナを騙して、この部屋まで連れてきた。
そこに居たのは、魔法使いのムロフトと騎士のランシス。
この2人が、依然として注意を払っておくべき相手であることは、シエナも充分に理解していた。
けれど、サブローとクラウディの決闘騒動が落着し、シエナの無実が証明され、アルドリューが去った後となっては、さすがの2人も大人しくしているに違いない。ここで更なる問題を起こせば、ムロフトもランシスも侯爵家から追放されてしまう。わざわざ、事を荒立てるはずは無い。
――そうシエナは思っていた。
それは、早合点だった。甘すぎる考えだった。大きな油断だった。
2人がシエナへ向けてくる視線は、悪意に満ちている。こんな卑怯な手段でシエナを誘い出して、2人がシエナにやろうとする事は――
(ドリスさんは忠告してくれたのに)
ドリスはシエナへ言った。
『これから……シエナは現在のミーア以上に、危険な状況に陥るかもしれない。王都へは必ず、サブローと一緒に行きなさい。生き延びたいのなら』――と。
ドリスは間違っていた。
シエナは王都へ戻る前に、今このナルドットの、侯爵家の屋敷の中で、2度目の……いや、街道での馬車襲撃を考えれば、3度目の生命の危機に直面した。
魔法使いのムロフトと騎士のランシスが登場したのは、6章30話の「最低の私」や32話の「渦巻く炎」の回などです。サブローがシエナを守って、戦っています。
メイドのサリーは、今回が初登場です。




