迷宮の心
ドリス視点です。
♢
妹から姉へ……オリネロッテからフィコマシーへの皮肉。いや、暴言。
それを聞いて、ドリスの感情は沸騰した。衝動のまま、危うく身体が動きそうになる。
その時、強く固めた彼女の拳に、そっと温かいものが触れた。
(え。なに?)
思わず視線を斜め下へ向けると、左隣のキアラが掌で、ドリスの拳を包み込んでいた。まるで「落ち着いて」と語りかけるように。
(キアラ……)
瞬間、ドリスの頭は冷える。自分は志願し、フィコマシーのメイド役を務めるために、この場所に居るのだ。
軽挙妄動しては、フィコマシーに迷惑をかけてしまう。
(イチイチ取り乱すな、あたし)
ドリスは、自分の右隣も見る。そちら側には、シエナが背筋を凜と伸ばして立っていた。
シエナも無論、オリネロッテによるフィコマシーへの酷いセリフには、激しく憤っているに違いない。しかしシエナは表情を極めて硬くしつつも、懸命に冷静さを保とうとしている。
(シエナは長い間、1人でフィコマシー様を守ってきた。メイドとして仕え、護衛役として盾となり、友として側に居た。あたしよりズッと、フィコマシー様のことを大切に想っている)
そんな彼女が、主が侮辱されても耐えているのだ。自分だって我慢できないはずは無い。
フィコマシーの顔色が透きとおるほど白くなっていることに気付いたのか、オリネロッテの口調が一転して柔らかく、優しげになった。その急激な変化が、ドリスには気味が悪い。
「それとも、お姉様にはボルトラルさんより、美しく着飾った御自身を見せたい相手……殿方がいらっしゃるのでしょうか?」
「オリネロッテ?」
フィコマシーが戸惑う。
ボルトラルは伯爵家の次男で、フィコマシーの婚約者である。けれど彼はフィコマシーを邪険に扱い、オリネロッテにばかり関心を寄せて執着している。
「殿方とは……要するに、ボルトラルさんより好いている男の方のことですよ。あ。お姉様はもともと、ボルトラルさんについて、何とも思われてはいなかったですね」
「ボルトラル様は……私の婚約者です」
フィコマシーの返答を聞き、オリネロッテは小首をかしげた。
「そうですが、それが何か? お姉様」
「私はバイドグルド家の娘として、婚約者以外の異性と、特別に親密な間柄になるのは――」
「不謹慎だと? 貴族の家の娘である以上、あり得ないと?」
「え、ええ」
フィコマシーの小さな声での返事が耳に届いているのか、いないのか。
オリネロッテは、クスクスと笑い出した。
「お姉様は、お行儀が良いのですね。でも、お姉様。そのような道徳や礼儀が重んじられるのは、世の中が平和だからです。いざ騒乱が起こり、秩序が崩壊したら、どうします? 己の生命さえ失いかねない状況になれば、倫理や誇りなど何の役にも立ちません。ささいな物事に、こだわっている余裕も無くなります。不要なものは捨て去り、大事なものだけを手もとに置きつづけなくては。掛け替えのないものは、誰にも渡したくは無い。絶対に自分のものにしたい――そうではありませんか? ましてや、それが〝運命の人〟ともなれば」
「オリネロッテ。貴方は何を言っているの?」
「ああ。つまり、お姉様は遠慮をなさっているんですね? 彼……愛しの君が、灰色の髪の召使いに剣を捧げたから。そんなの、気になさらなくても良いのに。お姉様がお望みなら、私が、その女を排除して差し上げます。すみやかに。効率よく。一切の痕跡を残さずに」
「――オリネロッテ!」
フィコマシーが普段のポヤポヤした態度からは想像も出来ないほどの、鋭く厳しい声を発する。激しい叱責だ。
姉が本気で怒ったのを察したのか、オリネロッテは笑みを消して、真面目な表情になった。
「冗談です、お姉様」
「そのような冗談、聞きたくありません。不愉快です。二度と、言わないで」
「ハイ、分かりました。お詫びします。申し訳ありません」
軽く頭を下げる、オリネロッテ。
商人のカルートンは、眼前の状況に面喰らっている。
侯爵家の姉妹のやり取りに、ついていけないのだ。
オリネロッテは姿勢を正し、改めてカルートンと向かい合った。
「では、カルートン様。お持ちになったアクセサリーの類いは、お姉様に進呈しても宜しいですよね?」
「もちろんです! オリネロッテ様には、すぐに新しい品をご用意させていただきます。より高価で、より優れた宝石や装身具を!」
ドリスは思う。
(カルートンの奴……。フィコマシー様より、オリネロッテのほうを、はるかに尊んでいる。その事実を、あからさまに述べたわね。ここまで露骨な言葉を吐くなんて……狡猾な商人らしくもない。それだけ思考が混乱し、精神を揺さぶられているってことみたいだけど)
諂ってくるカルートンに対し、オリネロッテは素っ気ない言葉を返す。
「代わりの、新しい装飾品など私は要りません」
「そんな! オリネロッテ様……」
「それより私、カルートン様にお願いがあるのです」
「な、なんでしょう?」
「カルートン様が、とても珍しい宝石……黒いダイヤモンドを所有しているという話を耳にしました。黒い色のダイヤがあるなんて、噂であっても、王都では聞いたことがありません。富裕な平民は無論のこと、どの貴族も、持っていない。王室の財の中にも無い。本当に貴重な宝石です。それが、ナルドットにある。カルートン様が手に入れられている。ぜひ、その黒いダイヤモンドを私に見せてくださいませんか?」
「え!?」
カルートンが驚いた。
オリネロッテは、彼を安心させるように微笑む。
「どうぞ、ご心配はなさらずに。カルートン様。私は幸いにして情報を得ましたが、貴方が隠しておきたい事柄を、他の貴族たちに漏らしたりはしません。また『黒いダイヤを譲ってくれ』などと、不粋な申し出もいたしませんので」
「オリネロッテ様。どこで、黒いダイヤモンドのことを――」
「ふふ。王都にばかり居て、ナルドットについての関心を私は持っていないと、カルートン様は思われていたのですか? この街は、お父様の領地の中心です。そしてカルートン様は、ナルドットで指折りの、成功なされている優秀な商人。そのカルートン様が素晴らしい宝石を持っておられると聞けば、興味を抱くのは当然でしょう? 私は好奇心旺盛で、早耳なのです」
「おそれ入ります。けれど、あれは商品ではありませんし……私にとっては『秘蔵の家宝』とでも申すべきものでありますから……」
「まぁ! ならば尚更、見せていただかなくては!」
「え――」
「家宝だからこそ、店舗には置いていないのですね? ご自宅で大切に保管されている」
「そ、そんな事まで」
「カルートン様のお気持ちは、よく分かります。大事なもの――うかつに他人の目に触れさせたくないものは、自分の家の奥にシッカリと仕舞い込んでおくに限る……そうですよね?」
「それは――ハイ」
「『善は急げ』と申します。さっそく本日、今からカルートン様のご自宅にお伺いします」
「い、いくら何でも、それは――」
「ご迷惑は、お掛けしません。カルートン様のところへ出向くのは、私と、あとは、そうですね……この部屋に居るメイドのうちの数人だけです。お屋敷を少しの間だけ抜け出して、貴方に黒いダイヤモンドを見せてもらったら、すぐに帰ってきます」
オリネロッテが語り終わらないうちに、彼女の専属メイドであるヨツヤが動いた。
「お待ちください、オリネロッテお嬢様!」
ヨツヤはオリネロッテの前方へ回り込み、制止の声をかける。
「いきなりの外出は、おやめください。護衛も無く、メイドのみの付き添いでお出掛けになるなど、無用心すぎます。せめて、侯爵様のお許しをいただいてから――」
「お黙り!」
オリネロッテは立ち上がり、ヨツヤの顔を容赦なく平手打ちした。
パン! と高い音が室内に響く。
強烈な打撃を受け、ヨツヤが床に倒れる。
「ヨツヤ! 私に向かって意見するとは――お前はいつから、そんなに偉くなったのです?」
「も、申し訳……」
「分かりました。お前は今日で、解雇です。何処へなりと、行ってしまいなさい。お前は、もう私のメイドではありません」
オリネロッテが無情に宣告した。
鞭による一撃を浴びたかのように、ヨツヤの背中がビクッと震える。
「お許しください! 二度と、余計な差し出口はいたしません! どうか、貴方様の側に居られなくなることだけは……お慈悲です!」
長い濃紺の髪を波打たせながら、ヨツヤはオリネロッテの足もとに、にじり寄った。そのまま恥も外聞も無く、必死になって平伏する。
あまりに苛烈なオリネロッテの態度を見かねてか、フィコマシーが腰を浮かして、止めに入る。
「オリネロッテ、やりすぎです!」
「ああ、お姉様。大丈夫ですよ。本当にヨツヤを退職させるつもりはありません。ただ、躾をしなおしているだけです。私は飼い犬が敵に咬みつくのは大歓迎ですが、自身に吠えかかられるのは我慢がならないのです」
オリネロッテが口にする無神経すぎるセリフに、フィコマシーは言葉をなくす。
「お姉様は私と違って、黒いダイヤモンドに興味は無いでしょう? お留守番をお願いいたしますね。お屋敷に残って……ええっと、そうだわ! カルートン様がくださったアクセサリーを試しにつけてみたり、それに似合う衣装を探してみたり、私が帰ってくるまでの時間、いろいろと楽しんでいてください」
不自然なほど朗らかな表情で、オリネロッテはカルートンへ向きなおる。
「それでは、カルートン様。案内を頼みます」
「し、しかし、オリネロッテ様」
「カルートン様……お忘れですか? 私は、王太子殿下の最も有力な婚約者候補なのですよ? 殿下に望まれて、その立場に居ます。私は殿下に愛されています。殿下にナルドットの宝石商について、良い噂を聞かせるのも、悪い噂を聞かせるのも、私の気持ち次第です。私の機嫌を取っておけば、必ず貴方のためになります」
「…………」
「よろしく、お願いいたします。私は、黒いダイヤモンドが見たい。それだけです。私の頼みを聞いて、私を喜ばせて。出来るでしょう?」
オリネロッテは強引な口調で畳み掛けるように語り、更にカルートンの眼をジッと覗き込んだ。
侯爵家次女の緑の瞳に捉えられ、一流であるはずの商人は少しずつ緊張を緩め、やがて陶然とした顔つきになる。
華麗な蝶が、天敵の蜘蛛を、逆に捕獲している。
その美しくも、奇怪な光景。
(――魅了)
ドリスの背筋にゾクッと寒気が走る。
「承知しました」
気圧され、惹きこまれ、ついにカルートンは頷いた。
パッと明るい表情になり、オリネロッテは声を弾ませた。
「良かった! 嬉しいです。これより少しの間、カルートン様たちは別室でお待ちください。私は外出のために着替えなければなりません」
オリネロッテは案内役の使用人を呼び、その人間にカルートンと、彼の供の者3人を先導させた。
カルートンたちが、応接室の外に出ていく。この部屋の中に居るのは、7人の――既に知り合っている女性のみになった。
ヨツヤは、まだ床に伏せ、身を縮こまらせている。その打ちひしがれた姿は、哀れなのを通り越して、無惨なほどだ。
オリネロッテはドレスが汚れるのも構わず、床に膝をつけた。
「ごめんなさい、ヨツヤ! 貴方に酷いマネをしてしまいました。ミーアちゃん達が誘拐された事件の手掛かりを、少しでも早く見つけたかった。それでカルートンを言いくるめるのには、ああするより他に、仕方がなくて……もっと良い方法を思いつけば良かったのに。自分勝手な未熟者ね、私は」
「オ、オリネロッテ様」
「私を許してくれる?」
「もちろんです!」
「ヨツヤ……貴方が私の身を気遣ってくれたのは、本当に嬉しい。これからも、私の側に居てね」
「ありがとうございます! オリネロッテ様」
ヨツヤが顔を上げた。長い前髪に隠れて目もとは見えないが、彼女の感情が悲嘆から歓喜へと一瞬で変化したのは、ドリスにも分かった。
茶番劇……とは思わない。
(でも、これは……自覚の無い傀儡が、巧みな操り手に踊らされているさまを、観賞させられているみたい。見応えのある人形劇で――その演出が、イヤミなまでに完璧すぎる)
ヨツヤを慰めるためなのであろう。彼女の肩に優しく手を置きつつ、オリネロッテはフィコマシーを見上げた。
「お姉様にも、改めて謝ります。申し訳ありません。不快な思いをなさったでしょう? こちらの意図を見抜かれること無く、カルートンに自宅まで案内させようと、私は考えました。そのために、まずは彼を思いっきり動揺させなくては……と」
「…………」
「肝心なのは、今日中に訪ねてしまうことだと思うのです。そうすれば、カルートンが対策を立てる機会は無くなります。もしもミーアちゃん達がカルートンの自宅や、その敷地内にあるという倉庫に監禁されていたとして、別の場所に移動させる時間を、彼に与えてはなりませんから」
「オリネロッテ……貴方は、そこまで考えていたの」
「ええ」
フィコマシーは深い溜息をつく。
「だったら、オリネロッテ。先ほどまでの物言いは、貴方の本心では無いのですね?」
「…………」
オリネロッテは、あいまいに笑った。フィコマシーからの問いかけに、明確な返答はしなかった。
しかし、オリネロッテの全身を覆っていた剣呑な雰囲気はキレイに消え去っている。元の良識的で、清純で高貴な彼女に戻っている。
部屋の中の全員が、ホッと肩の力を抜いた。
同時に、ドリスは気付く。
(オリネロッテは無理を通して、カルートンに言うことを聞かせるために、わざと傲慢で軽率な女を演じたんだ)
――ベスナーク王国の王太子に熱愛されている。
――実の姉を侮蔑する姿を、簡単に他人に見せる。
――献身的に仕えるメイドを痛めつけても、何も感じない。
――オリネロッテは、そんな女だ。
――だから、逆らわないほうが良い。要求を断ったら、何をしてくるか分からない。その一方でオリネロッテは所詮、わがままで甘やかされた、愚かなお嬢様でもある。たとえ自宅に招き入れても、脅威とはなり得ない。ここは適当に媚びておくのが、得策だ。
そう、カルートンに考えさせたのだ。加えて、トドメとなった魅了の瞳――
これで今日のうちに、オリネロッテはカルートンの家の中に入り込める。この面談で、彼女は思うとおりの結果を得ることに成功したのだ。
「ヨツヤ、立って」
オリネロッテに言われて、ヨツヤは身体を起こした。
起立しているメイド姿の5人の女性を、オリネロッテはグルッと見回す。
「皆に、今後のことについて話します。カルートンの自宅へ赴く際に、私についてくるのは、ヨツヤとアズキと……あとはドリスさんとキアラさん。シエナは、お姉様の――お姉様だけのメイドですからね。お姉様と一緒に、このお屋敷に残ってください。更に可能な限り、すぐに、隣の部屋に居るサブローさんやクラウディ、リアノンへ事情を伝えるように。良いですね? シエナ」
「承知いたしました」
少ない口数で、静かにシエナは頷く。
灰色の髪の少女――シエナも、オリネロッテの先ほどの『剣を捧げられた、その女を排除して差し上げます』との発言には、深刻な感情を抱いたに違いない。けれど、余計な言及はしない。
過剰な反応で傷口を広げない聡明さが、シエナにはあった。
「サブローさんのところには、腕が立つ……頼もしい人たちがサブローさんも含めて、7名ほど居るはず。彼らにはコッソリ、カルートンの家に向かう私たちの跡をつけてきてもらいます。そしてカルートンの自宅や倉庫がある敷地の外で、待機していただいて……中の私たちが不審なものを発見したり、怪しい状況に遭遇したら、合図を送ります。それを機に、即座に敷地内に踏み込んでくるように……そう、彼らに話してください」
「ハイ」
オリネロッテのシエナへの指示が終わったタイミングで――
「あの、オリネロッテ様。宝石に詳しいキアラはともかくとして、どうして、あたしまでカルートンの家に同行させるのですか?」
(出来れば、フィコマシー様のほうに、ついていたいんだけど)
と考えつつドリスが尋ねると、オリネロッテは彼女を正面から見つめた。
「あら、それは当たり前の話ではなくて? 外部との連絡を瞬時に取るのに、ドリスさんのゴーレム……ゴーちゃんほど役立つ存在はないでしょう?」
オリネロッテの言葉を受け、ドリスの小物入れの中に入っているゴーちゃんがゴソゴソ動く。ドリスは、それを掌で押さえた。すると、ゴーちゃんがプルプル震えているのが、ポーチ越しに伝わってくる。
(オリネロッテから名指しされて……ゴーちゃんは、怯えている? あるいは、何かを警戒しているの?)
フィコマシーの前では、ゴーちゃんは、あれほど喜び、はしゃいでいたのに。その妹に対しては、近寄ってきて欲しくはない様子だ。
が、それはそれとして『ドリスも共に、カルートンの家に行くべきだ』というオリネロッテの思案は、理屈としては正しい。ドリスは従わざるを得ない。
ドリスは、渋々ながら「分かりました……」と返事する。
オリネロッテは、フッと笑った。
「ねぇ、ドリスさん」
「何でしょう?」
「貴方、私のことが嫌いよね?」
「――っ!」
あまりに突然のオリネロッテによる質問に、ドリスは息を呑んだ。
肯定はしない。しかし、否定の言葉についても、いつまで経っても返さない。
それだけで、その場に居る者たちにとって、ドリスの気持ちは丸分かりだった。
しばしの沈黙のあと。
ヨツヤの怒声が響き渡る。
「貴様! 下賤な冒険者風情が、オリネロッテ様に無礼な! 許さない!」
ヨツヤが長いスカートを翻し、ドリスのほうへ右手をサッと横一文字に払う。
物凄い殺気が迫ってくるのを、ドリスは感じた。
(え! なに? 見えない――線……まさか、糸!?)
咄嗟の判断ができず、ドリスは動けない。飛来する細い物体により、彼女の身体が切り裂かれる寸前。
ドリスの前に、キアラが素早く飛び出した。そして躊躇なく、左の拳を前方に突き出し、振り下ろす。
バシッと、キアラが何かを叩き落とす。
(やっぱり、あれは……鋼の糸?)
ヨツヤが放った糸には、キアラの血が付着していた。そのため、その物騒な存在が露わになっている。
「キアラ! だ、大丈夫!?」
「私は平気」
キアラの左腕の服の袖は破れ、肌には裂傷が出来ていた。血が滴っている。けれど、それほど深い傷では無さそうだ。ドワーフの皮膚は、人間より厚くて頑丈だ。加えて、キアラは経験を積んだ冒険者であり、戦闘に慣れている。おかげで、大きなダメージを被らずに済んだらしい。
「ドリス、さがって」
キアラは背後を見ずに、ドリスへ声をかける。専用の武器であるメイスは持っていないが、彼女は素手で戦ってでも、ドリスを守り切るつもりだ。
攻撃してきた糸を左腕で防いだのも、今後のことを考え、利き腕である右腕を負傷させないためだったのだ。
忌々しげに、吐き捨てるようにヨツヤが言う。
「そこを退け、ドワーフ」
「断る」
「私が殺したいのは、そちらの金髪だ」
「させない」
ヨツヤとキアラが、対峙する。一触即発の状態になった両者の間に、魔法使いのアズキが割り込んだ。
「2人とも、何をやっておる! オリネロッテ様とフィコマシー様の御前じゃぞ。戦いの構えを解け!」
アズキは、己の右腕をヨツヤへ、左腕をキアラのほうへと伸ばした。いざとなれば、ヨツヤとキアラのどちらへも、風魔法を発動できる体勢になっている。
メイド姿の3人の女性が、それぞれ極度に緊張しつつ、牽制しあう状況に――
オリネロッテが、どことなく浮き立つ声でドリスに再び問いかけた。
「ドリスさんは、私を嫌いで……それで、お姉様のことは、どうなの? お姉様を、好き?」
「ハイ。当然ながら」
ドリスは、認める。フィコマシーへの自分の好意を、周りに隠すつもりは無い。
「〝当然ながら〟…………ふふふ。ドリスさん、貴方は素敵よ。お姉様を好きで、私を嫌いなんて……大正解だわ。褒めてあげる!」
オリネロッテが、心の底から嬉しそうな表情を浮かべる。
その異様な侯爵令嬢の態度に、ヨツヤもキアラもアズキも呆気にとられたのか、3人は戦闘の姿勢をやめ、立ちすくんだ。
ドリスも、驚きの視線をオリネロッテへ向ける。
(オリネロッテ……。この侯爵令嬢……ニセモノの聖女は――)
オリネロッテの口から出る言葉、彼女が示す表情は、どこまでが本心のもので、どこからが偽ったものなのだろうか?
他者へ見せるオリネロッテの振る舞いは、どこまでが真実で、どこからが演技なのか?
オリネロッテの心の模様は複雑怪奇で、まさにラビリンス――迷宮のようだ。
ドリスは、サブローが倒した魔族――ターナダクが、自分に告げた言葉を思い出した。
(双子の女神様と2人の聖女様、そして聖女様の妹たちの危うすぎる現状について、アイツは――)
何と言った?
そう――
『妹は姉とは違い、聖女では無い。俗人だ』
『神聖力と神魔力の混在を、ただの人が浴びたら、狂ってしまう』
『狂気の渦が旋回し、光彩をまき散らしている様相は、人間どもにとって、はなはだ美しく感じられる』
『王国の聖女の妹は、強い魅了の力を発揮して、過剰に称賛されている』
『どちらにしろ〝破滅へ向かっている〟のは、同じこと』
つまり。
(オリネロッテは、狂っている?)
しかし……これまでの様子から推測するに、オリネロッテは普段、理性的な対応を保っているようだ。まれに異常な言動をするが、それもすぐに消え、元の知的な彼女に戻る。
(自制している? 狂う己を、懸命に抑えている?)
優雅に湖に浮かぶ白鳥が、水面下で必死になって足を動かしているように。
(だったら、オリネロッテは……オリネロッテ様は――)
そこで、ドリスはハッとなって思考を止めた。
(ダメ。考えるな。取り込まれちゃ、いけない)
不用意に迷宮の奥へ進んだら、2度と出てこられなくなる。行き先も帰り道も、失ってしまうのだから。
全ての希望を無くし、歩きつづけることになる。永遠に、暗闇の中で――




