あたしの価値は
ドリス視点です。
♢
師匠のもとを去って。
ドリスはタンジェロの大地を南へ縦断し、ついにトレカピ河を越えた。師匠の知り合いである冒険者たち――頼りになる存在であった彼らは、ベスナーク王国へ入るまで同行してくれて、とても助けられた。
王国の北西部に位置するナルドットは、トレカピ河の南岸に栄えている街である。冒険者たちの連れであった事情もあり、ドリスは通行料を支払うだけで、特にトラブルも無く、ナルドットに足を踏み入れることが出来た。
そして、この街でドリスは冒険者たちと別れた。以後、彼女は単独で行動するようになる。
(考えてみたら、あの日、目が覚めて、お師匠に出会って以来、1人になったのは初めてかもしれない。まぁ、お師匠の家から開拓者の村へ行くまでの道のりも、1人だったけど、あれは短い間だったし……)
ドリスがそんな風に思っていると
『ピギ――!』
小物入れの中から、ゴーちゃんが抗議の声(?)を発してきた。
「あ、ゴメンナサイ。そうよね。あたしは、1人じゃない。今も、あの時も、いつでも、ゴーちゃんが一緒なんだもの」
『ピギ』
「ありがとう。ゴーちゃん」
『ピギピギ』
「たとえアナタが、無責任に励ましてくるだけの、ミニサイズの役立たずゴーレムであっても、側に居てくれて嬉しい」
『ピギ!?』
辺境の街であるにもかかわらず、ナルドットには大勢の人が住んでいる。その人口は、およそ10万。
商売も盛んに行われており、街中の活気にドリスは圧倒された。
『ピギ~』
「ゴーちゃん、心配しないで。あたしは公爵令嬢なのよ。それに、お師匠の魔法の弟子なんだから! あたしから見たら、ナルドットに住んでいる人たちのほうが、むしろ田舎者なのよ。恐るるに足らず! 当たって砕けるべし」
『ピーピッピッピ』
「そうね。砕けちゃ、いけないわよね」
街のアチラコチラに張り巡らされている運河など――ナルドットへ来訪した当初、ドリスは経験する全ての内容を新鮮に感じた。一方、直面する事態への適切な対応が咄嗟に分からず、惑い、慌て、ウロウロしてしまうケースも少なくなかった。
しかし師匠から貰った金銭や、知らず知らずのうちに身につけさせられていた生活術を活用することで、ドリスは都会での暮らしを、なんとか成り立たせていく。
タンジェロ大地で師匠と過ごしていた日々において、ドリスは動きやすい、比較的簡素な服を着ていた。贅沢できる環境では無かったし、もとより師匠の家には、実用本位な衣類しか置いていなかったのだ。そのため、お洒落をしようと思っても、髪型を変えるくらいが精一杯の努力だった。
けれどナルドットに滞在してから、しばらく経って、ドリスは華美な衣装に着替えてみることにした。多くの人と交わるうちに、かすかな不安が、彼女の心中に生まれてしまう。自分が女性である事実を再確認しておきたい――そんな気持ちも、どこかにあったに違いない。
「どう? ゴーちゃん。このフリフリの服、あたしに似合ってるでしょ」
『……ピ』
「似合ってるでしょ」
『……ピピ』
「でしょ」
『……ピピ、ピー』
「はぁ~。あたし、明日はトレカピ河の岸に行って、遠投の練習でもしようかな? えっと、投げるのに手頃な大きさのものは……」
そう言って、ドリスがゴーちゃんを改めて見つめると、手頃なサイズのミニゴーレムは『ピギピギピギ!』と物すごい勢いで首を縦にカクカクと振った。
「分かれば良いのよ、ゴーちゃん」
派手なファッションを身に纏い……ドリスにとって、それは、一種の鎧の代わりだったのかもしれない。身体では無く、精神を守るための。
先行きへの心細さを誤魔化す手段としての、仰々しい着衣――タンジェロの地で師匠が共に居てくれた時には、そんなものは不要だったのだが。
師匠と暮らした数年、自分の身体に変化が起きていないことをドリスは分かっていた。10代という、成長時期であったのに。師匠は、その点に関して特に何も言わなかったけれど。
〝自分は16歳〟――月日の経過に関係なく、次の年になっても、その次の年になっても、そう思い続けている。
より重大な、そちらのほうの不自然さをドリスは認識できず、師匠は敢えてか否か、弟子の年齢に注意を払う様子を見せなかった。
師匠はドリスの過去についても、詮索しようとはしなくて……でも、何ごとかを察してはいたらしい。
(お師匠……)
ドリスは、師匠の姿を思い浮かべる。
師匠は朝方、ドリスより早く目覚めるくらいに元気だった。しかしながら、さすがに老いの影響はあったのだろう。腰は曲がっており、常に杖をついていた。
ドリスはナルドットで、それっぽい杖を購入してみる。そして携帯する。あたかも、師匠のマネをするかのように。
知らぬ間に、ドリスは師匠に経済面だけでは無く、心理面でも依存していたのかもしれない。
「ゴーちゃん。これは、杖よ」
『ピ?』
「違うわよ! あたしは、腰も膝も足も痛めてはいないわ! これは……そう。あたしが魔法使いであることの、証なのよ。《魔法の杖》というヤツね」
『ピピ~』
「え? 『余計な出費は良くない』って……そう言えば、確かに、持っているお金が減ってきているような……」
旅立ち前に『アンタが、この家で働いた分のお金だよ』と師匠が渡してくれた、貴重な資金。まだまだ残ってはいるが、ドリスがナルドットで無分別に使ってしまったために、以前よりは少なくなってきている。
食事をしたり、宿泊をしたり――大きな買い物をしなくても、日々の生活をしているだけで、お金は無くなっていく。そんな当たり前のことを、ドリスはナルドットで、ようやく学んだ。
彼女の記憶の中にある〝公爵令嬢の暮らし〟では、いくら散財したところで、お金が尽きることは無かったのだが……。
『ピギ』
「うん。そうよね。〝運命の人〟に会うためにも、今はお金を稼がなくちゃ」
『ピ』
「それじゃ、ゴーちゃん。どこか適当な工事現場で、アナタが馬車ウマのように働いて、お給金を貰ってきて」
『ピギ~!!!』
「そんなに怒らなくても、良いじゃ無い。分かったわよ。あたしが働くわ」
ドリスは職を求め、冒険者になる。彼女が土系統の魔法使いである以上、そうなるのは自然な成り行きだったと言えるだろう。
貴族や豪商に雇われる道もあったが、『自分は公爵家の娘である』との意識を持つドリスは、最初から、それを選択肢に入れてはいなかった。
ナルドットまで同行してくれた冒険者たちが、みんな好印象なメンバーだったことも、ドリスの判断に大きく作用した。
ドリスは知らなかったが、もともとナルドットの冒険者ギルドは《お客様第一》をモットーとしている、評判の良い組織なのである。そして、ドリスに親切にしてくれた冒険者パーティーは、ナルドットのギルドに所属していた。
その《ナルドット冒険者ギルド》へ、ドリスは訪れた。客としてでは無く、冒険者志願の若者として。
彼女の教育担当となったエルフの女性は、ドリスの資質を高く評価して、丁寧な指導をしてくれた。
ドリスの新人研修が終了する、その間際。
「まもなく、ドリスも本物の冒険者になるのね。感慨深いわ」
「あたしへの奉仕、ご苦労様。感謝しているわ、スケネービットさん」
「奉仕……。ねぇ、ドリス。私は貴方の冒険者としての才能については、素晴らしいと思っているのよ」
「当然ね」
「ただ、仮登録であるうちに、貴方の性格を矯正できなかったことだけが心残りで……あと、服装も」
「あたしの性格にも格好にも、問題点なんか、欠片も無いわ。完璧だわ」
「やっぱり、もうしばらく研修期間を延長しようかしら。いっそ、山奥にある特別な精神修養施設へ入ってもらうのが良いかも……」
「ちょっと! 『エルフに二言なし』という、自らの種族の教えに背くの!? ビットさん」
「エルフには、そんな教訓も諺もありません」
仮登録から見習いになって、ドリスは冒険者稼業に励んだ。服装や性格が多少、風変わりであっても、彼女は魔法使いである。ドリスの才能に目をつけて、誘ってくるパーティーは少なからずあった。しかし、どんなに良さそうな冒険者パーティーであっても、何故かドリスは興味を持てずに、単独で冒険者の仕事を続けた。
そのまま。
見習いから3級冒険者へ昇進して、すぐの時。
ドリスは出会った。
青い瞳。黒味を帯びた赤い髪。端正なマスク。スラリとした背。活発ながらも、どこか品の良い動き。やや甲高い、心地よい響きの声。
一目見て、分かった。心で、理解した。彼こそ、自分が探していた相手。運命の人だと――
(――アレク様)
惹かれた。
側に居たいと望んだ。
『生きていく意味』を見付けたと思った。
彼を見ているだけで、心は浮き立って。
この時間が永遠に続くことを願ってしまう。
〝出会いは偶然なんかじゃ無い。運命が、ここまで自分を導いてくれた〟――そう信じられた。
その時点で、冒険者パーティー《暁の一天》のメンバーは、まだアレクとソフィーの2人しか居なかった。ドリスは即座に加入を申し込んだ。
受け入れてもらえた。仲間になれた。嬉しかった。それからキアラ、レトキンと、パーティーメンバーは増えていった。
パーティーとしての冒険者活動は、やり甲斐も、喜びもあったが、総合的には決して楽なものじゃ無かった。意思統一の話し合いで、揉めたこともあった。強敵に苦戦したこともあったし、資金集めに苦労したこともあった。でも皆で力を合わせて、困難を乗り越えた。あと、最近〝サブロー〟という変な見習いもやってきて――
(お師匠。あたし、今、幸せだよ)
なにより、自分はアレクを好きだ。彼のことを想うと、胸の中がいっぱいになる。きっと、この感情は『恋』と呼ぶものに違いない。
お師匠と知り合う前の記憶は朧気で。
家族の顔など覚えてないけれど。
関係ない。自分には今、大切な人が――恋する相手が居るんだから。
世界が、自分を迎え入れてくれた。
(充分だ。あたしは満たされている)
それなのに。
(あたしが、アレク様へ抱いていた想いは…………偽物?)
魔族の男がドリスへ告げた、数々の残酷な言葉。
――『貴方は、ただの人型製造生物』
――『聖女を見つけるための探索器』
――『〝聖女が持っている神聖力に惹かれる性質〟を付与した』
――『もとより、その感情も偽物です』
ザ……ザザザザ……ガリガリガリ。
頭の内側が、深淵からのノイズで占められる。〝絶望〟を音にすると、こんな響きになるのだろうか?
同時に、グサリと胸に短刀を突き入れられたような感覚がドリスを襲う。しかし、その胸の奥は、ひたすら空虚で。
「あはは……は……」
漏れ出た声は、悲鳴か、自嘲か、諦めの告白か。
(ああ……そうか)
そして、ドリスは理解してしまう。己の心は――
(〝心が壊れる〟もなにも、あたしの中には最初から、壊れるモノなんて無かったんだ)
急激に失われていく、ドリスの気力。体力も魔力も、もう無い。視力と聴力が、なおも残っているのが不思議なくらいだ。
左腕を失っているドリスは、バランスを崩して、無様によろめいた。膝が、がっくりと折れそうになる。いま倒れたら、2度と起き上がることは出来ないだろう。
(あたしがアレク様に惹かれていたのは……あたしの中にあった〝恋〟という名の感情は……つまり……)
無意識のうちに頭を垂れると、まだら模様な茶褐色の地面が見えた。自分の血を吸って、変色している大地。
(汚い色。まるで、あたしのアレク様への想いのような……)
かつては、あんなに美しく、貴く、キラキラしたものに感じられていたのに。
魔族の男の気配が接近してきた。が、ドリスは視線を下げたままだ。
ドリスから抵抗する意志が消えてしまったのを、察したらしい。魔族は、妙に冷静な声で話しかけてくる。
「ホムンクルス」
「…………」
「貴方は先程『魔族はタンジェロ大地で生きていけば良い』と言いましたね。双子の女神の意図も、最初はそこにあったのかもしれません」
ドリスは戸惑う。
今更、この魔族は何を語っているのだろう?
「しかし双神の結界は、魔族の行き来を阻みこそすれ、ヒューマンは自由に出入りできる仕組みになっていたのですよ。人間では無い、ホムンクルスである貴方も、やすやすと結界のトレカピ河を越えることが出来たようですが……そこは《聖女を見つけ出すための探索器》ですからね。ギッシュビーネも製造の際に工夫したのでしょう」
《探索器》――何度、耳にしても、その単語にドリスの心は傷つけられる。
魔族の男は腹立たしげに、チッと舌を鳴らした。
「長い歳月の間、私たち魔族はトレカピ河の北側に閉じ込められていました。対して、南の地からはヒューマンが無遠慮に大河を越えて、ドンドンやって来る。そして数百年ほど前、人間はとうとう、タンジェロの地に新たな国家を建てるまでになった」
「人間が国家を……」
「ええ。《ルメンジェラ》です。実に巨大な国で、その規模は――それまでのヒューマンを代表する国家であった聖セルロドス皇国、更にはベスナーク王国をも超えていました。ルメンジェラ国は大河を挟んで皇国と王国に対峙し、やがて両国を圧迫するまでになった。ルメンジェラは勢いは盛んでも、歴史の古さでは聖国と王国には敵わない。なんと言っても、聖セルロドス皇国とベスナーク王国は聖女が建てた国ですからね。そこに、ルメンジェラ国の支配者層も民衆も、劣等感を覚えていたのでしょう」
「そんな事で……」
思わず、ドリスは呟く。
魔族の男は、ヒューマンの中の最大勢力である種族――人間の愚劣ぶりを嘲った。
「結局、他者へ醜い嫉妬をするのも、己の勝手な欲望を制御できないのも、私たち魔族では無くて、人間のほうなのですよ。皇国と王国は争いを避けるため、国宝とも言える《聖女の神器》をルメンジェラ国へ差し出したのです」
神器――魔族の研究者であるギッシュビーネは、神器が放つ聖力を利用して、自身が造ったホムンクルスへ【神聖力に惹かれる性質】を付与したはず。
ルメンジェラ国のもとにあった神器を、何故、魔族が……?
「聖セルロドス皇国とベスナーク王国を屈服させ、2つの神器を手に入れて、ルメンジェラは、ますます増長しました。『帝国』を名乗るまでになり、加えてタンジェロの地を完全にヒューマンのものにするために、魔族の討伐……いや、根絶作戦を始めたのです。圧倒的な人口を誇る強大な帝国らしく、その傲慢さにも際限は無かったのですよ」
魔族は個々の戦闘力は高いが、種族の絶対数は極めて少ない。生殖によって子孫を増やす能力も低く、ある意味で『脆弱な生物』とも言える。
「帝国側の数の力を考えれば、正面から戦っても勝ち目は薄い。私たち魔族は種族の生存を賭けて、帝国内部に潜入し、攪乱し、謀略によって内戦を起こさせ、帝国が自ら滅ぶように仕向けました。身内同士の殺し合いで疲弊しきった帝国の中心部へ、最後のトドメとして、大量のモンスターを放ち……ルメンジェラ帝国の終焉は、阿鼻叫喚の地獄絵図でした。実に痛快です」
「そんな言い方……!」
「魔王様は封印されており、レハザーシア様の助けも無く、絶望的な局面で、あれは魔族にとって、奇跡的な勝利だったと言えるでしょう。帝国滅亡の騒乱時に、帝国が皇国と王国から奪っていた《聖女の神器》を、こちら側に入手できたのも、もっけの幸いでした」
「まるで、自分がその場に居合わせたかのように喋るのね。数百年前の話なのに」
ドリスが水を差すような発言をすると、男は苦笑した。
「無論、私が生まれる前の出来事ですよ。私は魔族の間に伝えられてきた史実を述べているだけです。偉大なる魔族の先輩方には、敬意を払うばかりです」
男の述懐に、ドリスは沈黙する。
(魔族は憎むべき相手で……でも魔族には魔族の歴史もあれば、種族として誇りも、連帯意識もある。そんなの、当たり前のことだけど――)
「あれほど繁栄を極めていたルメンジェラ帝国の滅亡……その影に私たち魔族の姿を感じ、加えて地表には多くのモンスターが動き回るのを見て、ヒューマンはタンジェロ大地を恐れるようになった。治安が完全に崩壊している北の地へ、トレカピ河を越えて、南の地に住むヒューマンが訪れることは無くなった……そのはずでした」
魔族は忌々しそうに、表情を歪めた。
「しかしヒューマンどもは、どこまでいっても愚かです。過去の恐怖の記憶が薄れたのか、現在では、開拓者や冒険者といった輩がタンジェロ大地に少なからず顔を出し、居つくまでになってきた。彼らの多くは、皇国と王国の出身か、その地を経由してくる者たちです」
聖セルロドス皇国とベスナーク王国は、どの時代においても、魔族にとっては恨みの対象であるらしい。
男の声に、怒りの感情がこもる。
「到底、我慢ならない状況です。タンジェロに再び、かつてのルメンジェラ帝国のような人間の国家が出来るなど、御免こうむる。その前に、先手を打って、聖国と皇国には滅んでもらうのですよ。北の地を、ヒューマンには渡しません。逆に私たちのほうが、南の地を頂きます」
《魔王へ掛けられた封印》は、解けかかっている。ここで2人の聖女を抹殺することに成功すれば、魔族がビトルテペウ大陸の全てを手中にする――そんな未来も、あり得ない話では無い。
暗然たる思いに囚われてしまうドリスへ、魔族は口調を変えて、語りかけてきた。
「ここまで喋った以上、当然ながら口封じするところですが……貴方はギッシュビーネが造ったホムンクルスです。『聖女を発見する』という本来の役目も果たしていますし、私たちの陣営のほうに戻ってくるのなら、再利用も兼ねて――」
「断る」
「即答ですね。これが、生き残ることが出来る、最後のチャンスですよ」
「あたしの返事、聞こえなかった?」
「ふん。その潔さだけは、褒めてあげます」
男が長話をした理由は、ドリスに、魔族側への復帰を勧誘するためだったのだろう。
――けれど。
その誘いに拒絶の答えを叩き返すのが、ドリスのせめてもの抵抗だった。
魔族は薄く笑い、丸くて赤い目を鈍く光らせた。
「では、この場で死になさい。馬鹿なホムンクルス」
男が、サッと右腕を振るう。
ドリスには、分かった。
魔族は、闇魔法の武器――《不可視の鞭》を放ったに違いない。
が、躱すための動作など、もはや、満身創痍のドリスに出来はしない。
見えない鞭は、彼女の右の太腿に巻き付き、急速に締め上げてきた。極限まで。
悲鳴を上げる暇も無く。
ドリスの右太腿は、無惨に切断された。
鮮血が飛び散る。
片足を失ったドリスは堪らず、右側へとドッと倒れた。
地面に身体を打ちつけて――
激痛で頭が痺れ、まともに思考することが出来ない。
太腿の傷口から、血が容赦なく流れ出る。
自分の身体の中に、まだこれほどの血液が残っていたとは――それとも、この症状も、ホムンクルスの本能としての〝擬態〟の一種なのだろうか?
左腕は、もう無い。
右脚も、もう無い。
体力も。
魔力も。
視力も聴力も、弱まっていって――
でも、魔族の不快な声は、まだ聞こえる。
「ホムンクルスを処分するのに、わざわざ私が手を汚す必要も無いでしょう。貴方の始末は、モンスターに任せることにします」
男の宣告に応えるように、1匹の巨大な怪物が、のっそりとドリスへ近寄ってきた。鉄球を武器とする、一つ目巨人だ。
「せめてもの情けです。聖女を気絶させたのと同じ鉄球の攻撃を受けて、死になさい」
地面に惨めに俯せになっている、ドリス。顔だけは辛うじて横へ向け、その視界にアレクの姿を収める。
――これが、自分が最期に目にする光景なのだろうか?
サイクロプスの足音が聞こえる。次第に大きくなってくる、その恐怖の響き。
終わりだ。
戦えない。
逃げられない。
迫ってくる〝死〟を、避ける術を見つけられない。
ごめんなさい、アレク様。
ごめんなさい、皆。
ごめんなさい、お師匠。
あたしは、もう――
全てを諦めかけて。
ふと。
魔族の男が先程まで語っていた数々のセリフが、ドリスの脳内に甦る。
(魔族が、タンジェロの地にあった帝国を滅ぼした? ルメンジェラ帝国を?)
自分は、ルメンジェラ帝国とは何の関わりも無い。しかし――
(お師匠は、帝国に仕えていた魔法貴族の末裔だった)
師匠自身が『私は祖国の滅びを阻止できなかった、不忠の遺臣』と述べていた。
(それなら、お師匠の一族が没落して、お師匠が荒野に1人で暮らすようになった、その原因は、もともと魔族が作ったことになるんじゃないの?)
魔族は――師匠の敵だ。
(そもそも、お師匠は、どうしてタンジェロの地に留まり、隠れるように暮らしていたの?)
単に世間から離れて、隠遁生活を送るため?
それとも……それとも、他に目的が、あった?
もしかして――先祖の無念を晴らすべく、魔族への復讐を考えていた?
魔族の様子を探りつつ、だからこそ、発見されるのを警戒していた?
師匠は、何のためにドリスを拾った?
荒野に全裸で長期間、放置されて眠っていた謎の少女――その個体は、どう解釈しても、まともな人間、いや、生物であるはずが無い。
ドリスの正体について、何かに勘づいていた?
(お師匠は、あたしが〝魔族に造られたモノ〟だと気付いて、使い道があると……)
――――いや、関係ない。
本人に、どのような意図があったにせよ。
お師匠は、お師匠だ。
あたしを助けてくれた人。
あたしの面倒を見てくれた人。
あたしに魔法を教えてくれた人。
あたしに優しくしてくれた人。
別れの時に師匠が贈ってくれた言葉を、ドリスは思い出す。
――『忘れるんじゃないよドリス。人にとって大事な時は、生まれた瞬間じゃ無い。今だ』
――『どのように生きてきて、今をどう過ごし、将来どのように生きていくか』
――『それが、その者の価値を決めるんだ』
――『家柄も血統も、誕生した理由も経緯も、当人の経験と、現在と、目標に比べたら、どれだけ無視しても構わないチッポケなものでしかないんだ』
公爵家の娘なんかじゃ無い、自分。
魔族によって造られた、自分。
ホムンクルスで――人間でさえ無い、自分。
そんな〝自分〟の、経験・現在・目標。
(あたしは……あたしの価値は)
冒険者としての経験。
敵の魔族と向かい合っている現在。
皆を守って、助けて――これからも一緒に頑張っていく、そんな目標、そんな未来。
公爵令嬢としての自分の家族は、物語の中の登場人物で――作り物だったとしても。
この現実世界で、あたしに、家族は居ない?
違う。家族は、居た。掛け替えのない、たった1人の家族が。タンジェロの大地に、今も彼女は生きている。
あたしの……あたしの、お母さん。
(お師匠――)
サイクロプスが鉄球をブンブンと振りまわす音が、聞こえる。
あれが大地へ向かって叩きつけられた瞬間、ドリスの頭は粉砕されるだろう。
如何にホムンクルスとはいえ、首から上が粉々になったら、修復するのは不可能だ。
(あたしが、死んだら……)
ソフィーは間違いなく殺されて。
レトキンもそのまま息絶えて。
アレクは自らの生命を――
(ダメ!)
それだけは、許せない。耐えられない。認められない。
歯を食いしばり。
必死になって身体を動かして。
けれど。
立ち上がれない。
心は折れずとも、体力・魔力は既に尽きていた。
(たとえ、そうだとしても!)
右腕を支えにして、ドリスは上半身を起こし、首を上げ、魔族を強く睨みつけた。
魔族の男は、呆れる。
「やれやれ。いつまで、あがき続けるつもりですか? いい加減、みっともないですよ。そこまでして、〝生〟にしがみつく必要も無いでしょう? 貴方は出来損ないのホムンクルスで、たいした価値など無い、地を這う虫けらに等しい存在なのですから。貴方のつまらない運命は、ここで終わりにするべきですよ」
「黙れ!」
ドリスは、吠えた。
「あたしは、人間じゃ無いのかもしれない。造られたモノなのかもしれない。だからって、あたしの生死を、あたしの価値を、あたしの運命を…………お前が決めるな!」
ドリスの反抗の意気に、魔族は一瞬、気圧され……それを振り払うかのように、配下のモンスターへ素早く指示を出した。
「戯れ言を……やりなさい、サイクロプス」
魔族の命令を受け、サイクロプスは鉄球つきの鎖を手に握り、大きく振りかぶる。そして、振り下ろそうとした、その刹那。
霞みつつあったドリスの視野の中で、何かが、宙を駆けた。
(大きな影が通り過ぎた? 突風? それとも、鳥? ……でも)
突然の事態に混乱するドリスの眼前に、ゴトンと丸い物体が落ちてきた。
地面に転がる、それは……鉄球では無い。胴体から切り離された、サイクロプスの頭だった。
(え? な、なに?)
誰かが、空中より着地する。1人の少年だ。
彼は、首を失ったサイクロプスの巨体を蹴飛ばして倒し、続いてドリスを守るように魔族と正対する。少年が抜き放った大刀は、分厚い刃をモンスターの血に塗れさせていた。
その姿を目にして。
(来て……くれた)
少年の名を――彼の背へ、ドリスは呼びかけた。
感情が錯綜し、声が震えるのを自覚する。
「サ、サブロー……」
「ごめん、ドリス。遅くなった。…………頑張ってくれて、ありがとう。あとの事は全て、僕に任せて」
ついに今回は、1万文字を超えてしまいました……(汗)。
でも、どうしても主人公の登場シーンまで書きたかったので。




