ドリスの記憶
ドリス視点です。
♢
「あっちのゴーちゃんに連絡して」
自らの発する、か細い声……その響きは、眼前の小さなゴーレムへ確実に届いただろうか?
うなずくゴーちゃんを見て、ドリスはホッと息を漏らした。
崖の途中にしがみついている状態で、救援の綱に手が届いたような……。
そうだ。もう一方のゴーちゃんのところには、サブローとキアラが居る。《暁の一天》の残りのメンバーである、2人が。
この危機を、ボンザック村に留まっている彼らへ知らせるのだ。
敵は、サイクロプス4匹と正体不明の男――ソフィーやレトキンでさえ、打ち倒されてしまった。残念ながら、キアラがこの場に居たとしても、結果は変わらなかっただろう。だが、サブローなら……。
ドリスは考える。
サブローの身体の具合は、万全では無い。むしろ『絶不調』と言っても良いかもしれない。
強敵がズラリと立ち並び、味方は全て戦闘不能――ゴーちゃんを通じて、この絶望一歩手前の状況を知ったら、サブローはどうする?
怖じ気づく?
村に留まりつづける?
逃げ出す?
あたし達を見捨てる?
…………。
サブローは、秘密が多い少年だ。昨日、彼は幾つかの打ち明け話をしてくれた。けれどドリスたちには告げていない隠し事を、まだまだ少なからず抱えているに違いない。
水面に落ちた、一滴の油を見ているような…………〝サブロー〟という人物の側に居るとき、ドリスは常に微妙な違和感を覚えてしまう。
意識してか、それとも無意識にか、彼は四囲の環境に対して線を引き、わずかな隔てを作っている。サブローは魔法と武力、どちらにも抜群の才能を有しているが、そういう己をこの世界の中でどう位置づけたら良いのか、戸惑っているようにも思える。
サブローを今、現実と結びつけているのは…………あのメイドの少女だろうか? 猫族の少女だろうか? 噂に聞く、ナルドット侯爵家の令嬢だろうか?
『守りたい人』とサブローが呼んでいた少女たち―――3人の中の誰にせよ、その者の価値は、サブローにとって途方も無く高いはずだ。《暁の一天》の各メンバーなど、比較の対象にならないほどに。
サブローとドリスたちが出会って、未だ数日。〝信頼し合っている〟と言えるだけの関係は、築けていない。そして冒険者のパーティーに所属しているものの、サブローの立場は最低ランクの《見習い》だ。
クエスト遂行中の現在、《暁の一天》は敵との戦闘で壊滅しかけていて、サブローは離れた場所に居る。『助けに行っても、無駄死にするだけだ。救援要請は見て見ぬ振りをする』との思いが、彼の頭に浮かんだとしても、それは格段にオカしい話では無い。
あちらのゴーちゃんがどんなに騒ごうと、サブローは単に動かなければ良い。キアラが抗議してきても、彼女を黙らせる力がサブローにはある。
ここでサブローが自己保身に走ったとして、将来、表だって責める者は出てこないに違いない。頭が良いサブローならば、上手い言い訳をいくらでも考えつけるはず。なにより、今のサブローは療養中の身なのだ。それだけでも〝動かない理由〟としては充分だ。
パーティー仲間のためとはいえ、絶大なリスクを、敢えて取る必要など無い。
道徳も友愛も義務も連帯も
金銭も地位も名誉も誇りも
生命あってこそ意味を持つ。
サブローが合理的に、賢く、正しく判断するならば
彼は、結局――――
…………
……
…………いいや。
違う。
サブローは、来る。
きっと来る。
必ず。
絶対に。
ドリスは、必死に己へ言い聞かせた。
確証など一切ないのに。
明確な根拠など全くないのに。
(だって――)
今ここで、ドリスがサブローを信じなければ、全ては終わる。
〝サブローが来る、来ない〟の以前に、彼女の心が踏ん張れなくなる。精神の抵抗力が、その拠り所が無くなってしまう。
《サブローが、あたし達を助けにくる》――それこそが、今のドリスに残されている唯一の希望の光なのだから。
身勝手だろうと。
自己欺瞞だろうと。
理不尽な願いだろうと。
一方的な期待の押しつけは、相手にとっては非常な迷惑だと分かっていても――
(彼は、来てくれる)
ドリスは自分本位に、サブローに頼るのだ。望むのだ。彼を信じるのだ。
心の中に灯っている光を消すわけにはいかない。
その光を支えにして、ドリスはパーティーメンバーを守るための行動を起こす。
アレクもソフィーもレトキンも、重傷を負ってはいても、未だ絶命してはいない。瀕死であっても、生きている。
ならば。
(サブローが到着するまでは、あたしがアレク様の、皆の、生命を――)
痛みのあまり感覚が麻痺しかけ、猛烈な眠気が襲ってくるが、少女はそれに抗う。
失神するほうが、かえって楽な道だろう。
〝終わり〟を見ずに、済むのだから。
〝自身の非力さ・無能ぶり〟を改めて知らずに、済むのだから。
覚醒して、気を保ちつづけても、待っているのは更なる絶望かもしれないけれど。
わずかにでも〝皆で生き残る〟可能性が残っている限り、諦めることなんて出来ない。
それに――
(あたしだって、やられっぱなしじゃ終われない!)
重くなる瞼を閉じまいと、懸命に堪えているドリスへ、心配そうにゴーちゃんが手を伸ばす。しかし、ゴーちゃんがドリスへ触れることは無かった。
何者かが、小さなゴーレムを無造作に掴み上げたのだ。
「ほぅ。これは興味深いですね。このゴーレムには、まるで命が宿っているかのような……ああ、そういうことですか」
『ピギー!』
暴れるゴーちゃんを捕まえているのは、あの赤い瞳の男だった。
サイクロプスどもの戦果を見届けた上で、アレクとドリスの側へ寄ってきたらしい。
「お、お前……は――」
ドリスは喉の奥から、なんとか声を絞り出す。
(コイツ……コイツだけは、ダメだ。アレク様に近づけちゃ……)
神経が壊れ、脳からの指令で動かないのなら――ドリスは自分の手と足に、魔力を残らず注ぎ込んだ。
その魔力を利用して、最後の体力を振り絞り、少女はヨロヨロと立ち上がる。膝に力が入らない。一瞬でも気を抜くと、倒れてしまうだろう。
「う……く……ぐ……」
ドリスは緩慢ながらも必死に歩み、アレクと男の間に、その傷だらけの身を置いた。そして、敵の男と向かい合う。
どれほど脆い防波堤であっても、無いよりはマシなはず。
(アレク様に、手出しはさせない)
絶体絶命の窮地にあっても、なお敵意の眼差しを向けつつ抗戦の意志を示す彼女を、男が面白そうに眺める。
「そんなボロボロの身体で、私の前に立ち塞がるとは……ふむ。瞳に、まだ〝決意の光〟がありますね。崖のもとに無様に転がっている人物が、それほどまでに大事ですか?」
「当たり前……でしょう」
(そうよ。アレク様に出会えたことで、あたしは初めて〝生きていく意味〟を見つけたんだから)
男が薄い唇を曲げて、ゆっくりと笑う。
「心配する必要はありませんよ。どのみち、私に聖女は殺せませんから。私は当然のこと、私の支配下にあるモンスターたちもね。傷つけるのが、なしえる限界です。ご覧なさい。一撃を食らわしたあとのサイクロプスも、それからは見ているだけで、完全に息の根を止めるまではしていないでしょう?」
ドリスは、先程のサイクロプスの態度を思い出す。確かにアレクを気絶させてから、更なる攻撃は控えていた。いつでも殺せたであろうに。
(どうして?)
その理由が分からず、警戒の姿勢を保ちつつもドリスの思案は乱れ気味になる。
男が口を開き、ペラペラと語り出す。意外と、喋ることが好きな性格らしい。それとも、勝利が確定している故の余裕だろうか?
「レハザーシア様に、固く止められていましてね。〝聖女のすり替え〟自体が、神々の世界における禁止事項に触れかねない、ギリギリな行為であって…………戦争開始前に、私たちの陣営に属している側が直接に聖女の生命を奪ったら、厄介な双子の女神が怒り、地上の現象に介入してくる怖れがあるのですよ」
「いったい……何を……」
男が話している、その半分の意味もドリスには理解できない。レハザーシアが魔族の女神である事実は知っているが。
つまり、この男は――
「お前は、魔族なのね……」
「そうですよ」
男はアッサリと認め、皮肉な口調でドリスへ言い返した。
「そんな反感に満ちた目で見ないで欲しいですね。貴方だって、私たちの側でしょう?」
「ハ? 何を、馬鹿げたことを――」
「だって、貴方は私が発している言葉について、その内容をキチンと認識しているじゃないですか。私は魔族語で話しているのに」
「えっ!?」
(男が喋っているのは、魔族語?)
狼狽するドリスへ視線を向けつつ、男は嘲るような、あるいは蔑むような表情になる。
「言語が通じていない以上、貴方のパーティーの他の冒険者たちは、私の話の中身などサッパリ分からなかった。不審な男が意味不明の言葉を並べ立てているとしか、思えなかったのでしょうね。そのため、私が何を言っても、誰も特に動揺はせずに、ひたすら戦闘態勢で向かい合っていたのです。判断に困る事柄の分析は後回しにして、目の前の危機にのみ集中する――――冒険を生業としている人間だったら、ごく普通の反応ですよ」
「それは……」
「加えて、もうひとつ。貴方が今、喋っているのも魔族語です」
(――な!?)
「くっくっく。人間語を話しているつもりだったのですか? 頭の働きが鈍っているせいで、メッキが剥がれて地金が出ていることに気付いていなかったようですね」
(あたしは――魔族語を知っている? 無自覚に話している? そんな――それじゃ、まるで)
「あたしは――」
「そう。貴方は違う。人間では無い」
『人間では無い』――その一言を受けて、ドリスの心と身体は凍りついた。
衝撃のあまり言葉を失っている少女の全身を、魔族の男はジロジロと舐めるように見回す。悪意に満ちた、歪んだ笑みを浮かべながら。
「おや? まさか、自分のことを〝人間である〟と思っていたのですか?」
「あ、あたしは、人間よ。決まりきっていることでしょう? あたしは、れっきとした公爵家の娘なんだから――」
「公爵家…………ぷ! アハハハハハ!」
堪えきれず、男は哄笑する。
「ハハハハ! こ、こ、公爵家! そんな戯言を、まだ信じ込んでいるのですか! やれやれ。まったくもって、あの女――ギッシュビーネの製造技術は凄いですね。それとも、おざなりに作られた記憶に、未だにしがみついている貴方が愚かなだけなのか……」
「製造……作られた記憶?」
ドリスは、訊きかえす。〝これ以上、聞いてしまえば、知ってしまえば、自分はもう、戻れなくなる。いや、壊れてしまう〟――そんな、胸の奥から突き上げてくる、とてつもない恐怖感を無理矢理に抑え込んで。
自分の声は、みっともなく震えてはいないだろうか?
「ええ。ギッシュビーネは魔力物質や魔法素材活用に関する、魔族随一の研究者なんですよ。だが他方では、冗談好きな性格でもありましてね。たまたま入手した人間世界の娯楽本を参考にして、貴方の記憶を作成したのです」
冗談?
娯楽本?
記憶の作成?
――なんだ、それは。
「ふ、ふざけないで!」
ドリスが怒鳴る。けれど喉は枯れ果てているため、爆発する多大な感情に反して、叫びの音量は小さかった。
悲鳴のような少女の声を聞いても、男の表情は変わらなかった。その嗜虐的な笑顔を目にして、昆虫の足を遊びで引きちぎる子供の残酷さをドリスは連想した。
魔族の男にとって、ドリスは取るに足りない、それこそ昆虫のごとき矮小な個体なのだろうか?
男が楽しそうに話を続ける。
「ふざけていたのは、その本の内容で…………ええと、確か『王子に婚約破棄された公爵家の令嬢が、故国を追放されて苦難に遭うが、いろいろあった末に名誉を取り戻し、王子へもキッチリ仕返しをする』といった筋の物語だったはず。ジャンルは〝悪役令嬢モノ〟だとかなんとか……まぁ、よく覚えてはいませんがね」
「何を言って――」
「気に入りませんか? 貴方の人格は、物語の半ば――〝追放直後の公爵令嬢〟ということで、設定されましたからね。しかしながら、そちらの方が『【聖女を見つけるための探索器】としては相応しい』とギッシュビーネは結論づけたのですよ。冗談半分の悪ノリで、面白がっていたのも間違いないですが」
「…………」
男のあまりの言いように、ドリスは反論の言葉が咄嗟に出てこない。
メチャクチャで、おぞましくて、酷すぎて、思わず耳を塞ぎたくなる。
(コイツが語っているのは、本当にあたしのことなの? だったら――)
「おやおや? 黙り込んでしまわれましたね。良く思いだしてご覧なさい。貴方は自分が〝公爵家の娘である〟と信じているようですが、それでは、その家名は? 父親の名は? 母親の名は? そもそも、家族の顔を覚えているのですか? 幼少期の記憶は? その歳になるまでの、知り合いは居るのですか? 気が付いたら、ある日、突然にタンジェロの荒野を彷徨っていたのではないのですか?」
「…………あ」
ドリスは愕然とする。
訊かれたくなかった。
過去を振り返りたくはなかった。
振り返れば、答えを探さなくてはならなくなる。
だから、目を背け続けて――
「自身が置かれている不自然な状況について、貴方が疑わなかったのも無理はありません。そうであるように貴方の脳は設計され、真っ白な状態であるところに、ギッシュビーネが、手作りした《公爵令嬢の記憶》を〝複写と保存〟したのですからね」
もう、いやだ。
聞きたくない。
「貴方が後生大事に抱え込んでいる記憶は、ギッシュビーネが鼻歌交じりに捏ち上げた代物ですよ。参考のための三流本を読みながら、片手間作業でね」
「……違う」
「違いません。面倒だからと、国名・家名・人名といった固有名詞に関しては、ギッシュビーネは考えなかった。さすがに主人公の――貴方の名前だけは、別でしたがね。したがって、貴方の頭の中にある〝自己の記憶〟は、枝葉が無い幹のみの、抽象的なストーリーとなっている」
「…………違う」
「ところが貴方は何故か、その説得力皆無な過去を素直に受け入れていた。物語の中の登場人物たちは、自らの来歴が穴だらけであったり、異常なまでに単純であったり、出来あがりが適当で粗略であったとしても、内容に文句を言うことはありません。〝不満や疑問を抱く〟という発想そのものが無い。それと同じですよ」
「違う。違う、違う、違う! あたしは人間よ! お前たち、魔族とは違う! 一緒にしないで!」
ドリスは叫ぶ。喉が破れようが、肺が潰れようが、そんなの関係ない。
血を吐くように……いや、実際にドリスが声を発するたびに、口内から落ちる鮮血は大地を赤く染めていく。
「は? 一緒? 貴方が、私たちと? ふ……ふ……ふははははは!」
「笑うな!」
「いや。これは、笑わずにはいられませんよ。こんな愉快な話を聞けるとは……今日はもう、一生分は笑わせてもらった気分です。貴方が――貴方ごときが、私たちと同族だと? 思い上がりも、はなはだしい。そんなわけ、あるはずも無いじゃありませんか。貴方はもちろん、魔族では無い」
「え――?」
魔族じゃ無い?
だったら、さきほど男が口にした『貴方だって、私たちの側でしょう?』とのセリフには、どのような意味があったのだろうか?
(それなら、やっぱりあたしは人間で――)
「貴方は魔族では無い。人間でも無い。もっとつまらない生き物……いえ、〝生き物〟であるかどうかも疑わしい存在です」
(魔族でも……人間でも……生き物でも……無い?)
ダメだ。
聞いては、ダメだ。
「貴方はギッシュビーネが造った、ただの〝人型製造生物〟ですよ」
「――っ!」
《ホムンクルス》――その言葉を聞いて
ドリスは。