灰色の空、赤い水たまり
前半は、アズキ視点です。
♢
決闘の日、アズキはヨツヤとともに、貴賓席に座っているオリネロッテの斜め後ろに起立していた。
サブローとクラウディが刃を交える前、彼らがゴノチョーからの最終確認を受けている最中に、オリネロッテは振り向きもせずにアズキへ語りかけてきた。
「ねぇ、アズキ。サブローさんとクラウディ、どちらが勝つと思う?」
「それは……」
オリネロッテは先日、全く同じ質問をフィコマシーへもしていた。余程、気になっているのだろう。
(お嬢様の真意は……ただの戯れでは無い?)
もともと決闘の発端は、オリネロッテの『シエナの身の潔白を、サブローさんが証明してください』という一言だった。
(責任を感じて……気を揉んでおられるのか?)
アズキは、そのように主の心中を推量してしまう。
無論、オリネロッテは焦慮に駆られている様子など微塵も見せないが。
「答えなさい、アズキ」
「それは、やはり……」
アズキが口籠もっていると、オリネロッテは今度はヨツヤへ訊いた。
「ヨツヤは、どう考える?」
「当然、クラウディ様かと」
「そうよね」
オリネロッテが頷く。ヨツヤの即答に、アズキも内心で同意せざるを得ない。
もし……サブローとクラウディ、両者が完全にフリーな状況で戦えば、勝敗は分からないとアズキは思う。サブローは魔法を派手に使うだろうし、頭が回る彼のことだから、自身にとって有利な条件を事前に整えてしまうに違いない。
しかし、今回の決闘では魔法の使用が制限されている上に、サブローは小細工なしでクラウディと激突する他に選択肢のない、ギリギリの事態へ追い込まれている。
(まして、相手は〝久遠の月光〟を持ったクラウディ……)
最初の一撃で、サブローが落命してしまう可能性は極めて大きい。
(サブローが……死ぬ……?)
この期に及んで、アズキは胸が苦しくなる。
サブローが決闘に負けたら、シエナは処刑される。サブローとシエナが死んだら、フィコマシーとミーアは…………。
〝破滅の連鎖〟が始まる予感に襲われ、黒髪の魔法使いはゾッとした。その絶望の渦にオリネロッテも巻き込まれ……そうなったら、バイドグルド家も…………いや、オリネロッテは王太子に熱愛され、彼女の信奉者は王国中に存在している。〝美貌の白鳥〟の現在の立ち位置を考えれば、ベスナーク王国そのものさえ……。
(王国が……揺らぐ……?)
王国辺境の街で行われる、騎士と平民の少年による決闘。ナルドットの住民の大部分は、命を懸けた戦いが今まさに始まろうとしていることを全く知らない。況んや、王都ケムラスの人々にとっては思い浮かべる切っ掛けさえ、あるはずも無い。
けれど、歴史は語る。崩壊の始まりは、常に小さな出来事。それが判明するのは、いつも後になってから。
(サブローとクラウディの決闘……その結果が及ぼす影響は、妾が考えている以上に大きいかもしれん)
アズキは危惧する。しかし、ならば〝サブローに勝って欲しいのか?〟となると、彼女は容易に結論を出せない。サブローが決闘に勝利する――ということは、即ち〝クラウディの死〟を意味する故に。
アズキは、クラウディにも死んで欲しくない。彼とはオリネロッテの側近同士として、それなりに長い付き合いだ。育んできた、情もある。加えて、クラウディが居なくなったら、オリネロッテの不安定さが更に増すのは明らかだ。
クラウディは、オリネロッテが信頼している数少ない人間の1人なのだ。
尤も、クラウディが負ける光景など、アズキは想像も出来ないが。
(サブローとクラウディ、そしてシエナ。誰も死なずにすむ、決着方法はないものか?)
苦悩するアズキの耳に、ゴノチョーの発言が響く。
(え?)
アズキは、驚いた。決闘の審判を務めるゴノチョーが、勝敗における基準の1つとして『どちらかが大地に膝をつけた場合』を挙げたのだ。ギルド長の言葉に、観客たちも意表を突かれたらしい。場内が、つかの間、ざわめく。
(膝を地につける……か)
これなら、もしかして――とアズキは無意識のうちにホッとしかけ、慌てて自分を叱りつけた。
(愚か者! 軽率に安心するな!)
サブローもクラウディも、誇り高い戦士だ。対戦者を前にして地面に膝をつけるなど、そんな無様な真似を己に許すはずは無い。もしも死なせること無く彼らの膝を地につけようと思うのなら、意識を強制的に失わせるか、片足を切り飛ばすか、いずれかの方法を取るしか無いに決まっている。
「アズキ……」
オリネロッテが小声で話しかけてくる。
「ハ、ハイ。オリネロッテ様」
「お願い。魔力を溜めておいて。いざという時、回復の光魔法を使えるように」
「――っ! 畏まりました」
アズキは、コックリと首を縦に振った。
(やっぱり、お嬢様は……………っ! 始まった!)
ゴノチョーが決闘開始の合図を告げるや、間髪を入れず、クラウディがサブローへ斬りかかった。その勢い、その速さ、エターナルムーンライトの威力。
圧倒的なまでの凄まじさにアズキは戦慄し、息を呑む。
サブローが真っ二つになったと信じかけ――――それが錯覚に過ぎなかったと知り、アズキは胸を撫で下ろす。サブローは後方へ跳びすさることで、クラウディの剣を躱していた。
まさに、一瞬の出来事。
運動が特に得意では無いアズキには、クラウディの神速の斬り込みも、それを回避したサブローの刹那の跳躍も、超人的な動作としか思えない。
次いで、クラウディは突きを放つ。
(な!? クラウディの剣が数本ある? 馬鹿な、エターナルムーンライトは1本しか無いはず――――あ!)
さすがのサブローの反射神経を以てしても、クラウディの絶え間ない連続の刺突――複数に見えるほどの素早い長剣による攻撃、その全てを防ぎ、避けることは不可能だったのだろう。
サブローの左肩が、剣の先端により穿たれる。傷口から、吹き出す真っ赤な液体。
(――っ! サブローが傷を負った。いや)
遠目では分かりにくかったが、よく確認すると、サブローの右足にも血が滲んでいる。最初の剣撃を受けた際に、負傷したに違いない。
どう見ても、サブローがクラウディに一方的に押されている展開だ。
(クラウディは、強い。如何にサブローといえど、手も足も出ないのか?)
ジリジリとした焦りを感じるアズキの耳へ、侯爵と騎士団長の会話が届く。
「ワールコラム様。あの少年……やりますな」
「うむ」
意外にも2人は、クラウディにヤられっぱなしのサブローを高く評価しているらしい。彼らは、サブローが手傷を負ったことよりも、クラウディの攻勢を受けつつ未だに生き延びていることのほうに感心しているようだ。決闘が始まるや、サブローが打ち倒されると確信していたのかもしれない。
(だが、このままでは……)
アズキは、クラウディとサブローの戦いから目を逸らしたくなった。しかし、出来ない。よそ見をした瞬間に、サブローが死んでしまう気がして――――
(ああ! サブロー!)
アズキは、危うく悲鳴を上げかけた。
エターナルムーンライトが振り下ろされるや否や跳ね返り、その斬撃をまともに食らったのか、サブローの身体が血しぶきを上げながら宙を舞ったのだ。
この決闘、勝負はついた――アズキならずとも、訓練場に集まっている観客は皆、そう思ったはずだ。
けれど。
サブローは諦めていなかった。
空中を回転しつつ左手を振り抜き――――
(え? サブロー?)
アズキは戸惑う。サブローは今、自らの血を飛ばしたような……? クラウディが剣を振って防いだ以上、それは攻撃であったと解釈するべきだろう。
しかも。
(―――っ、あ!)
間違いない。クラウディは左腕に傷を負っている。サブローの反撃が成功したのだ。
サブローが何をしたのか、アズキには分からない。おそらくは魔法、それもアズキの知らない特殊な魔法による攻撃を行ったに違いない。
(妾の知らない魔法じゃと……? サブロー、其方は……其方というヤツは……)
クラウディが負傷するという異常事態を受け、観客の間にどよめきが走る。
侯爵や騎士団長も驚愕しているようだ。たとえサブローが善戦したとしても、時間稼ぎに終始するのが精一杯で、結局はクラウディに傷一つ負わせることも出来ずに敗北する――〝そんな結末が決まっている戦闘を、ただ眺めていれば良い〟と両人とも考えていたらしい。
そしてオリネロッテ…………何が起ころうとも、滅多に動揺を見せない15歳の少女。その肩がピクッと波打った。
(お嬢様……)
オリネロッテは現在、どのような思いを抱いているのか? 問いかけたくなり、しかし、アズキは身分を自覚して堪える。
クラウディに一撃を与えたとはいえ、サブローが劣勢である事実に変わりはない。それどころか、サブローは満身創痍、血まみれの状態だ。
なおも戦えるのか、アズキは疑問に感じてしまう。いや、その酷い有りさまを見れば、立って、生きて呼吸しているのが不思議なほど――
あり得ないこととは承知していても、アズキはサブローへ棄権を勧めたくなった。…………サブローは絶対に、死んでも棄権などしない、戦い続けるに決まっているのに。
(――そう)
勝ち目が薄いことを、サブローは最初から知っていて、それでも敢えてクラウディへ決闘を申し込んだのだ。少女を――シエナを救うために。
如何なる衝動が、彼をこれほど駆り立てて止まないのだろう?
黒衣の魔法使いは、その小さな胸を痛めた。
(妾でさえ、これほど辛く、苦しいのじゃ。ミーアやシエナ、フィコマシー様は、どんなにか――)
不意に。
アズキの頬を何かが打つ。
(水滴……?)
エゴイストの自分が、他人の生き死にで涙を流すはずも無いが――――自嘲し、アズキは天を見上げた。
ナルドットの空に掛かる灰色の雲から、雨が降り始めていた。
♢
雨……か。
思ったより、雨脚が強い。これではすぐに、地面が泥濘んでしまうに違いない。それ自体は、僕とクラウディ、どちらの得になるわけでも無いけれど……。
とは言え、手に持った武器であっても、足もとがシッカリしているほうが振るいやすいのは間違いない。
思い出す。
先ほどクラウディが行った、ムーンライトによる切り返し……まるで伝説的な剣豪である、佐々木小次郎――彼の秘術として有名な《ツバメ返し》のようだったな。
佐々木小次郎は〝物干し竿〟という名の大太刀を用い、《ツバメ返し》によって幾多の強敵を葬ったと聞く。無論、クラウディが佐々木小次郎の存在を知っているわけも無いが、剣の道を極めた2人の人物が、世界の境を超えて類似した技を生み出している――その事実に、興奮とも恐怖とも判別できない心の震えを覚える。
右足を前に、左足を後ろに構え、袈裟懸けに振り下ろされた剣が瞬時に斬り上がってくる……間合いに入ってきた敵を決して逃さない、必殺の技。
脇腹に重傷を負った僕は、もう前ほど思い切った動きは出来ない。
もしも再び、同じ方法で攻撃されたら、今度こそ……。
対処法を懸命に思案する。
上からの1撃目を辛うじて回避できても、下からの2撃目は――
クラウディは、佐々木小次郎では無い。
そして僕も、佐々木小次郎に巌流島の決闘で勝利した宮本武蔵では無い。
ここは、ウェステニラ。
魔法のある世界。
魔法――クラウディへ打ち込んだ、《血弾》の魔法。その効き目が現れるまで何とか少しでも時間を稼いで…………イヤ。それは、ダメだろう。そんな消極姿勢では、ひたすら受けに回った挙げ句に最後は惨めに敗北するだけだ。
何より、僕は肢体のアチラコチラから出血している。魔法の影響によりクラウディの体調が悪化する前に、急激な血圧低下によって僕の身体機能が鈍化してしまう可能性のほうがはるかに高い。
血を流しすぎた身を雨粒が打つたびに、体力が奪われていくのをヒシヒシと実感する。
決着は早めにつけないと――よし!
パッと。心を定めると同時に。
僕のほうから斬り込む。剣の腕ではクラウディに及ばないことは、充分に了解している。しかし――
ガキン!
僕のククリによる攻撃は、クラウディのムーンライトによって易々と防がれてしまった。
くそ! ダメか。
歯ぎしりする。
今、僕はなけなしの魔力を使って、ククリの分身――フェイクであるが――を作り出して見せたのだ。
水系統の魔法――《水影》である。降雨による環境の変化も利用したため、いけるかと思ったが、クラウディの目には通用しなかったようだ。彼は本物のククリの太刀筋を瞬息で見抜き、何の迷いも無く対応してきた。
クラウディほどの達人が、幻影に惑わされるはずも無かったか……。
けれど。
これは一種の牽制。
クラウディは僕の魔法に警戒心を覚えたのか、少しの間ではあるが、攻勢の手を止めている。
ククリを握り直し、クラウディと睨み合う。
雨ざらし状態の僕の身体。足もとに出来た血だまりが拡がっていく。もう、どれくらいの血を流したのか……武器が、重い。ククリを持つ両腕が、僅かに下がる。
僕が作った隙を見過ごさず、クラウディが突進してきた。上段より振り下ろされる、ムーンライト。
僕はみっともなく、退却する。もはやクラウディと戦える手段を思いつかず、逃げに徹している。傍目には、そう見えたに違いない。
だが。
クラウディは――――踏んだ。僕の血と雨水によって出来上がった、赤い水たまりを。
クラウディの猛進が突然、止まる。血だまりへ踏み入れた左足が、動かないのだ。赤い液体がボンドのような粘着力を発揮し、彼の足を絡め取っている。
闇魔法と水魔法の合わせ技――《血の沼》だ。
卑怯なトラップ。しかし、クラウディに勝つためなら僕は何でも使う。偶然の雨であろうと、己自身の血であろうと。
いったい何が起こったのか、咄嗟に判断がつかなかったらしい。クラウディが困惑する――その一瞬の好機を逸せず、僕は右手でククリを振るった。狙うは、彼の左足。
クラウディは、太腿には〝太腿当て〟を、脛には〝脛当て〟を装着している。けれど、膝部分は防具によって守られていない。
クラウディの左膝を、ククリで断つ!
左足を失えば、彼は当然ながら倒れざるを得ない。やってやる!
ガン!
クラウディがムーンライトを巧みに操り、ククリの白刃を受け止めた。雨を浴びた剣と刀が交わり、水しぶきが上がる。
クラウディ、相変わらずの反応速度だ――――だが。
本命は、コチラだ!
僕は、左手を振るう。何も握っては、いない。しかし、掌は血まみれだ。
「《血弾》!」
至近距離から三度放たれる、鮮血の弾丸。《血の沼》により左足を動かせないクラウディには、躱せない。ムーンライトを打ち振るって、弾き飛ばすことも不可能だ。もしもクラウディがそうしたら、僕はすかさず、彼の左膝を自由になったククリの刃で砕き斬る。
そして、僕の目論見をクラウディは間違いなく察している。
クラウディの右半身に、5発の《血弾》が命中する。彼は身を捩り、急所を外してみせる。そもそも鎖の鎧の上からでは、如何に《血弾》といえど致命傷とはならないが――それでも、クラウディの腕や腹、足に少なからぬダメージを負わせることが出来た。
微かに傾ぐ、クラウディの長身。
ここで攻撃の手を緩めず、勝つ!
僕は躊躇わず、一気に踏み込む。が、クラウディは――後方へ、飛鳥のように跳び退いた。
くっ! 力ずくで、左足を《血の沼》から引き剥がしたのか! なんて脚力だ。
ククリがいたずらに空を切る。
既に体勢を整えている、クラウディ。
ほんの少しだけ、勝利への光明が見えたのに……千載一遇のチャンスを逃した。
しかし、この決闘において、僕は初めてクラウディを後退させた。更に、彼が負った複数の傷。クラウディは表情を変えない。だが、僕には分かった。彼は、己の身体が変調を起こし始めていることに気付いている。
撃ち込まれた多数の《血弾》が、ジワジワとクラウディの神経を蝕んでいるのだ。
戦いの最中に、心身のコントロールを失う―――おそらく彼にとっては、初めての経験なのだろう。春雨に濡れたクラウディの顔に、チラリと不安の影が差す。
考える。
このまま決闘を長引かせれば、状況は有利になるか?
だが、僕の身体も既に限界だ。いや、とっくに限界を超えている。脱力感と吐き気が酷い。頭がガンガンする。狭まる視界、継続する耳鳴り、引きつる筋肉、重くなる一方の手足。激痛には、もう慣れてしまったが……刹那でも気を緩めれば、水が浸み込んだ地面に崩れ落ちてしまうの確実だ。
ならば。
……ああ、クラウディも決意したようだ。彼から放たれる、氷のような殺気が勢いを増している。
僕とクラウディは視線を交わし、互いに相手の意図を理解し合った。
――――次の一撃で、勝負を決める。