彼女の背中
「ただいま」
家に入っても、瞳ちゃんの寂しそうな背中は僕の頭から離れなかった。彼女は今、「僕」が彼女のことを忘れてしまったことで、とても悲しい思いをしているんだ。申し訳ない気持ちでいっぱいだ。
「お帰り。どうだった?学校は?」
部屋に行こうとする僕に、リビングから姉さんが声をかける。母さんはまだ仕事のようだ。
「うん。なんとか大丈夫だったよ。先生がいろいろ気を使ってくれたみたい」
できるだけ普通に答えたつもりだった。それでも姉さんは僕の変化にすぐに気づいた。
「どうしたんだい?何かあったのかい?」
気にかけてくれることはとてもありがたい。心配して待っていてくれたのかもしれない。本当は一人でいたい気持ちだったけど、この人には隠し事ができそうにない。下手に隠しても余計に心配かけるだけだろうし。ちゃんと、話そう。
「姉さん、相談があるんだけど」
*******
僕は鹿取さんとのやり取りを姉さんに相談した。僕が彼女とのことをすべて忘れてしまったことを、彼女は口にはしないけど、とても悲しく思っていること。そのことが僕に本当に申し訳ない気持ちにさせることを。
僕が話をしている間、姉さんは真剣な表情で話を聞いてくれた。話が終わると、一息ついて優しい表情に変わる。
「そうか。瞳君がそんなことを」
「うん。なんだかとても可哀想なことをしている気がするんだ。どうしたら良いんだろう」
姉さんは、僕を安心させるように柔らかい笑顔で話し始めた。
「雪緒。私だって大した人生経験があるわけではないからね。立派なことは言えないけど、瞳君の気持ちについては私自身の経験が生きるようだから参考に聞いてほしい」
うん。ていうか、姉さんほど頼りになる人はいないよ。
「雪緒、君の意識が戻って記憶を失くした事に気づいた後、母さんと私がとても悲しんだことは、先日話したよね?」
先日、3人で抱き合って泣いた日に教えてくれたことだね。
「その悲しみの中で、少し気づいた事があるんだ。人が生きてるってどういう事かって」
え?なんか急に話がでかくなったね。
「雪緒は、人が”生きる”ってどういう事だと思う? 私はね、”生きる”って事は、”経験する”って事だと思っている。本人も周りも含めてね」
まあ、生物学的には呼吸する事とか体温があるとかいろいろありそうだけど。自分とか周囲の意識としては、姉さんの言う事も少しわかる気がする。
「そしてね、雪緒。これが大切なんだけど、”生きてる” って事は ”経験したことを覚えている” って事だと思う」
”生きてる”って・・・状態のことを表す言葉だよね?自分の知っている人が、一緒に経験した事を共有してくれるからこそ其処にその人がいる意味があるってことかな。確かにそうかも。
「だから雪緒に忘れられたって思ったときの私たちの悲しみは、雪緒がいなくなってしまった悲しみと似ていたんだと思う。私たち3人で経験してきた沢山の思い出が消えていくような、君の中の私たちが消えていくような、とても悲しい気持ちだよ。もちろん実際の雪緒は生きていて目の前で不安そうにしていたから、なんとかその不安を取り除こうと必死だったけど。心の中ではとても悲しかったんだよ」
「・・・」
そうか。姉さん、分かったよ。確かに長い間にお互いに共有してきた思い出が忘れ去られるって、その人がいなくなってしまうのと同じぐらい悲しい事なんだね。鹿取さん、いや、瞳ちゃんは、それが悲しくて少しでも良いから何か覚えている事はないか確かめたくて、僕に確認したんだ。
「瞳君は私たち家族と同然に君とつながりがあったから私たちと同じように悲しかったんだろう。でも彼女はいい娘だね。それを必死で乗り越えようとしている。同時に、君に心配させまいとその事は隠し通すつもりなんだろう」
「・・・」
「私たち家族は互いに思いを語り合い涙を流すことでその悲しみを乗り越えようとした。実際、あの日、涙を流した後は、気分がすっきりしたろう?」
「うん」
「彼女は、今、一人でその悲しみを乗り越えようとしているんだ」
「姉さん、ありがとう。明日の朝、彼女と会ったら最初にちゃんと話すよ。思い出すことはできなくても彼女が悲しい思いをしてるなら、少しでもそれを軽くできる為に僕にできることは何か、考えるよ」
「それはいい考えだね。彼女はいい娘だから思っていることを素直に話すのが一番だ。こんな事を言うのもなんだが君が言葉を交わす人は少なかった。私たち家族と瞳君ぐらいだ。そう考えると私たちと本音で語り合った今、君がきちっと話すべき残された人は瞳君ぐらいだ。だから彼女には大切なことを伝えるべきだよ。ただし、不順異性交遊は姉さんが許さないからね?」
姉さん、ありがとう。相談できてよかったよ。
最後の一言は余計だけどね。