番外編③ ~ 心配性な母娘 その2~
母さん、まずいかもしれない。
行動開始三日目。雪緒が就寝後のリビングでの作戦会議で、私は母に悩みを打ち明けた。
「どうしたの?」
採精後のことを考えると、プランAはどうにも雪緒の負担が大きいよ。
「負担?どういうこと?」
本に書いてあったよね。精子はデリケートだから採取後は人肌の温度で保温して、できるだけ早めに凍結保存できる機関に持ち込むことが推奨されるって。雪緒は免許を持っていないから、電車で移動するんじゃないかな。近くの提出先登録病院は、公共交通機関を使うと40分ほどかかるよ。
「あの子一人で行かせるの?そんなの可哀そうじゃない?車なら15分ぐらいなんだから送ってあげればいいのに」
私もそうしたいよ。でも、私たちから切り出すのは変ではないかな?彼からも頼みにくいと思うし。
「・・・確かにそうね。タクシーを呼ぶ気はないのかしら?」
あまりニュースにならなかったけど、今年の初め、採精後キットを持った男性が、医療機関への移動中のタクシーで女性運転手に襲われる事件があったんだ。私たち女性はその匂いに対して極めて敏感になるらしく、密封が甘かったキットからする僅かな匂いが刺激になってしまったらしい。この事件を受け、警察は、採精後キットを持った男性が一人で長時間タクシーに乗ることを控えるよう呼びかけてるんだ。キットにはそういう注意事項も記載されているそうだよ。
「そうなの?それって重要なことじゃない、あの本には書いてなかったわよ!」
本の発行後の事だからね。本当は私か母さんのどちらかが車で送ってあげるのが一番いいと思うんだけど、どうにもそういう状況に持っていく流れが想像できないんだ。
「・・・そうね。ことが終わったころを見計らって、私たちから病院に連れて行ってあげることを切り出すのがいいんじゃない?」
それがうまく言えればいいけど。雪緒のことだから、こちらが気付かないと、電車で行くと思う。提出義務は毎月だから、結構な頻度で彼に一人で病院に往復させることになるよ。それって負担だよね?それに、私たちにはわからないけど、あの本によると、ことが終わった後の男性は肉体的・精神的に、疲労感・倦怠感を覚えるらしいから、それを思うと雪緒が可哀そうで・・・・
「それは可哀そうよ。終わった後なら、プランAから変更してもいいんじゃない?<お疲れ様。よく頑張ったわね。さ、病院行きましょう>って言ってあげるのが一番いいと思う」
私も当初は、採精前後での自然な形でのプラン変更を考えたよ。でも、そのためには私たちが採精のタイミングを把握している必要があるんだ。分かるかな?先走って事が済む前に言ってしまったり、知らない間に採精していた、なんてことにはならないかな?
「直感だけど、母さんは分かると思う。だから、あの子一人に行かすのはだめよ!可哀そうだわ。たぶん採精前はそっとしておいてあげるのがいいけど、後ならそれとなく病院に行くことを言っても、そんなに負担じゃないと思うわ」
やっぱりそうだよね?母さんが分かるというなら大丈夫だろうけど。でも、私たちがそれを待ち構えていることを雪緒に気づかれないようにしないといけない。
「態度に出してはだめよ。とにかく知らんぷりよ。今後、雪ちゃんがいるときは、あの子の部屋にはあまり近寄らないほうがいいわね」
そうだね。気を付けるよ。
「・・・もう、こんな時間。今日はこの辺でお終いね」
そうだね。来週には採精キットも届くだろうし。母さん、お互い慎重に行こう。
「そうね。落ち着いて、普段と変わらない態度を心がけましょう」
その日、私は採精後の対応が心配でなかなか寝つくことができなかった。
依然としてプランAを継続中だ。何とかこのまま採精日を迎えれば良いが。
*****
行動開始、1週間後。母が作戦会議で心配事を打ち明けてきた。
「泪!ちょっと気になることがあるの」
どうしたの?
「あの本に書いてあったわよね?<採精キットにはしばしばアイテム不足があるから、同封リストでよく確認すること>って」
うん。書いてあった。
「あれ、もし、"同封リスト" が不足で入ってなかったらどうなるの?」
え?・・・それはないんじゃないの?だって、そんなことになったら、確認のしようが・・・・
「でも、ないって言えるのかしら。もしそうなると、最悪、アイテム不足の状態で、雪ちゃんが始めちゃったらどうなるの?」
・・・ちょっと、想像できないけど。それは最悪の惨事だね。雪緒があまりに可哀そうだ。
「私、そのことが気になりだしたら夜も眠れなくて・・・それでね、あの子がキットを入手する前に、私たちで中身がちゃんと揃っているか確認して、大丈夫そうなら郵便受けに戻しておけば良いんじゃないかって」
え?!確認?私たちが?・・・確かに彼には万全を期してもらいたいけど・・・
「それでね、実は・・・今、私が持ってるの」
そう言って母がテーブル下からオレンジ色の大きな封筒を取り出し机の上に置いた。
!!!こ、これ!!!・・・採精キット!!!
それは間違いなく、本に書かれた外見の封筒だ。私は思わず生唾を飲み込む。
か、母さん・・・すごい行動力だね・・・
「でもね、開封したら元の状態に戻せる自信がなくって・・・泪、何とかならない?」
なんとかって・・・私はそれほど手先は器用じゃないよ?・・・開封したらバレるよ・・・じゃあ、ライトで透かして中身を確認できないかな?あの本に内容物は書いてあったから。
私は例の本に記載されている採精キットの内容物を把握し、封筒の中身を確認しようと部屋の明かりで透かして見る。
・・・だめだ。よくわからないよ。
母は私に代わって中身を確認しようとする。
「ちょっと貸して!・・・(透かして見る)・・・うーん」
<ガチャ>(リビングの扉を開ける音)
!!!!!母はものすごい速さで封筒を背中の後ろに隠す。まずい!私はプランZに緊急移行する事も覚悟する。幸い彼は私達を見ることもなく寝起きの顔で無言で台所に行き水を一杯飲む。そして一言残し部屋に戻っていく。
「おやすみ」
「「おやすみ!!」」
・・・彼が部屋に入るのを確認。
・・・危険だ。あまりにも・・・危うくプランZになるところだった・・・
母さん、もうこれはこのまま郵便受けに戻そう。雪緒はしっかりしているところもあるから、アイテム不足はきっと気づくよ。
「・・・心臓が止まるかと思ったわ。そうね。私、明日、雪ちゃんが出勤したら郵便受けに入れておく。ちゃんと、中身がそろっているといいけど」
そうだね・・・今日は疲れたね。これで寝ようか?
「そうね・・・もう寝ましょう。お休み」
私たちは何とかピンチを切り抜けることができた。
依然としてプランAを維持している。これほど難易度が高いとは思わなかった。明日以降も慎重な行動が必要だ。
注意しなければ。
*****
翌日の放送。
私と母は、テレビの前で雪緒の出演する天気予報を見ている。母は、雪緒の出演をすべて見てから出勤して間に合うよう、今年から勤務時間を調整していた。最近はすっかりおばさんキャスターとの掛け合いにも慣れ、雪緒の自然な笑顔を見ることが多い。おかげでテレビを見るのがとても楽しい。
ここ最近、プランAを維持するため緊張を強いられている私達にとって、彼の番組出演中は、リスクなく過ごせる心休まる貴重な時間でもある。
<雪ちゃん、今月は誕生月なのよね?おめでとう!いくつになるの?>
今日は誕生日の話題か。
<ありがとうございます。二十歳になります>
ん?・・・嫌な予感が・・・まさか、生放送でさすがにそれはないと思うけど・・・
<そう。若いわね。羨ましいわ。ところで、雪ちゃん、この国の成人男性の義務って知ってる?>
「ちょっ!!何このおばさん!!何言ってるの?」
母が怒りを露わにテレビ画面に抗議する。私はすぐには怒りを感じることすらできない程、茫然としてしまう。まさかそんな・・・・
すると、画面に映っていた頼りにならない男性アナウンサーが即座におばさんに突っ込みを入れる。
<ちょっと、北別府さん。それ天気関係ないですよね?セクハラですよ!篠塚君!応える必要ないからね!!>
いいぞ、男性アナウンサー。頼む!!このおばさんを止めて!!
<ちょっと、衣ちゃん。私はこの国の政策の話をしているのよ!国の政策をセクハラなんて、局アナとしては暴言じゃない?> <・・・>
もう終わり?!!やっぱりこの男性アナウンサー、全然頼りにならない!!誰か、このおばさんを止めろ!!
私と母は息をのんで事の成り行きを見守る。
<さあ、雪ちゃん。応えてね?この国の成人男性の義務。知ってるわよね?>
<はい。国への精子提供ですよね?>
雪緒が罪のない笑顔で答える。私と母は途端に敗北感を味わう。おばさんキャスターの攻撃はさらに続く。
<そうそう。雪ちゃんは今月からよね?国に協力するつもり?>
<はい。そのつもりです>
お願い!もうやめて!私たちの計画が!!
私も母も、もはや言葉もなく、ただ画面を眺めるだけだ。
<えらい!!ところで、雪ちゃんはどっち?病院派?自宅派?>
!!!そこまで聞くかあ!!!このおばさん、絶対、減給処分だ!!プロデューサーは停職だ!!これは明らかにセクハラ行為だ!顧問弁護士として、必ず鉄槌を下す!!
握りしめた拳の震えを止める事が出来ない。
<うーん。まだ決めてませんが、病院に行くほどではないかなと思ってます>
<はい!!頂きました!!皆さん、雪ちゃんは自宅派だそうです。雪ちゃん、えらいね!!頑張って国の政策に貢献してね!!はい、それでは今日はこの辺で。今日も元気に行ってらっしゃあい!!>
・・・私も母さんも肩を落とし座り込む。やがて、母が力なく私に尋ねた。
「ねえ、泪。私たちが放送を見てるのは、雪ちゃん、知ってたわよね?」
そうだね。夕食時、良く話題に上るし。
「今、プランはどういう状態なの?この後どうすればいいの?」
私には答えることができなかった。
*****
その日の午後、雪緒は帰宅後、郵便受けの採精キットを自分で部屋に持ち込んだようだ。
そして、土曜日、朝食の席。
彼は笑顔で私に尋ねた。
「姉さん、このあと病院まで車で送ってくれる?成人の義務を果たしてくるよ」
母は完全に機能が停止し、石のように固まっている。私は恐る恐る答える。
それはいいけど、もう採精は済んだのかい?
「うん。今朝採ったよ。って、そんなこと聞かないでよ。はずかしいなあもう!」
雪緒は何の衒いもなくさわやかな笑顔で答えてくれる。
そう・・・よく頑張ったね、雪緒・・・・
私と母は顔を見合わせ、力なく笑った。
母さん、直感は働かなかったんだね。
それ以降、我が家では暗黙の了解として毎月第1土曜日が雪緒の採精日となった。朝食は遅めになり、朝食後は私が車で病院に送迎するのがお決まりのパターンとなっている。移動中の車で匂いを嗅いでしまった私になにか変化が起きないか警戒したが、今のところ何も起きない。しっかりと密封されていたのだろう。
あの緊張の日々は何だったんだろうか。
ちなみに母は、今でも時々あの本を借りにくる。
私はその本が売れている理由をようやく理解した。
因みに、封筒の中身は愛さんが確認済みです。
彼女、監視カメラは外しましたが、盗聴器は外したんでしょうかねえ?
次は例のあの人ですね。




