大切なこと
その日、雪緒は朝から体調が悪かった。高熱と吐き気があるため、水分をほんの少し取っただけで、局に出勤した。
局に着いても体調は回復しない。最低限の準備だけを整え、出演時間まで、椅子に深く腰掛けて時間を過ごした。
6時15分のお天気コーナーを青白い顔でやり終えると、カメラの切り替わりと同時に、たまらずその場でしゃがみ込んでしまった。
番組では、急遽、立浪が予報を原稿化し、衣笠アナウンサーが代読した。
彼はそのまま立浪に付き添われて、かかりつけ医でもある高木先生のもとにタクシーで運ばれる。
いま彼は、脱水症状を抑え、解熱効果と睡眠効果のある点滴をうけ、病室で眠っている。傍では、彼の母親、姉そして恋人が彼のことを静かに見つめている。
母と恋人は彼を心から心配しているが、姉は雪緒の体調を心配しつつも別のことを考えていた。
*****
<・・・もう一つ。もし、僕の魂が元の世界に戻り、この体に本来の「僕」が戻ってしまったとき、きっとこの日記が役に立つと思う。「僕」も、日記をつけてくれてるといいけど。でも、正直、もう転移は御免だ>
<・・・生放送だからいろいろ起こるけど、何とか無事に過ごせている。例の転移も起きてないし・・・>
あれは何?
医者は記憶障害だといった。眠っている間に記憶に齟齬ができたと。それ以外、考えられない。だけど、記憶を失うと性格も変わるのか?まるで、別の人格のように。
目を閉じれば、今でも思い出す。幼い時の雪緒の様子。泣き顔、怒った顔、笑った顔。
今の「彼」は、本当にあの幼いころの思い出に残る雪緒なのか?もし違うなら、彼は、私の大切な弟はどうなった?次に目が覚めた時、「彼」は本当に私が知る雪緒なのか?
泪の思考は混乱し、言いようのない不安が押し寄せるなか、雪緒の寝顔を見つめる。
*****
雪緒が目を覚ます。
心配する母親と恋人は彼のもとに近寄り、大丈夫かと尋ねている。雪緒はかすかに笑顔になり、二人に心配をかけたことを謝っている。
互いを思いやる3人を、泪は少し離れたところから見つめる。暖かい空気が3人を覆っている。
やがて泪は、自らの思考を整理し始める。
自分が大切なものは何?自分が守りたいものは何?自分が欲しいものは?
考え込む泪の表情は重い。雪緒はそんな姉の表情に気づき、ベッドから小さな声で姉にささやく。
「姉さん、心配かけてごめんね。もう大丈夫だから。・・・・姉さん?」
その声は、幼い時の雪緒が姉を呼ぶ時の声と重なる。
<ねえさん?まって!ねえさん・・・・ねえさん>
その言葉を聞いた泪は、自らの問いに対する答えに気が付く。
私が守りたいもの、それは今のこの幸せな時。永遠ではなく、かけがえのないこの時間。
それを意識したことで、泪の眼からは涙がこぼれる。私はなんて愚かだ。あんなことで心が乱されるなんて。
「雪緒、体を大切に。無理をしてはだめだよ。皆が心配する」
簡単なこと。どんな雪緒でも構わない。今のこの時を守る。ただそれだけ。
もう泪は迷うことはなかった。




