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研修中の一日


立浪 薫はいつも思っていた。自分は運に恵まれていると。


もちろん、常に自分なりに努力はしてきたし小さな失敗だってあった。でもこれまでの人生の選択は比較的恵まれた結果に結びついていたと自分では感じている。


今回もそうだ。まさか高卒男子がお天気キャスター候補として我が社に入社し彼の教育兼サポート係を会社が探し始めるなんて夢にも思わなかった。そのタイミングで自分の契約が “満了“ したのはもはや運命だ。やるしかない、そう信じて移動願を出した。結果、”先輩“という念願のポジションを手に入れた。しばらくの間、彼の一日で最も多くの時間を共に過ごす特別なポジションを。


今、このチームではチームリーダーを含む3人の女性が交代で彼と待ち合わせて駅から一緒に通勤している。清楚でかわいく隙の多い男子新入社員を独身女のナンパ地獄から守るためだ。今日は田尾TLチームリーダがその役得にあずかっている。


彼の乗る電車が駅に着くまで改札で待つ時間は至福の時だ。彼は私たちを待たせることを申し訳なく思うのかいつも小走りでやって来る。出会った瞬間の彼との会話は表現出来ないないほど自分に幸福感をもたらす。残念ながら今日はその幸運にあずかれなかった。それでもがっかりはしない。私には彼と出社しない日の日課があるのだ。


彼と一緒に通勤しない日、私は普段より30分早く会社に来る。重要なのはまだ誰もいないチームの部屋に一番乗りすること。今日も予定通り自分がこの小さな部屋に一番乗りだ。家に帰って長い時間、女ばかりの自宅で過ごした後にこの部屋に入ると、此処にだけ存在する特別な匂いが感覚を刺激する。暫くすると気が付かなくなるその香りは女ばかりの自宅には無い匂いだ。それは決して嫌な匂いではない。むしろずっと嗅いでいたいと思う何とも言えない香りだ。


初めて雪緒と会った彼の初出社日、自己紹介した彼に新しい社員証を首から掛けてあげた。その時、初めてこの匂いに気づいた。脳を直接刺激し体の芯から熱くなるような、彼を抱き締めその首筋に顔をうずめてこの匂いに身をゆだねたい衝動に駆られるような、そんな香り。翌日、偶然、朝一番にこの小さな運用チームの部屋に最初に来たとき、その残り香を強く感じることに気づいた。それ以来、彼と一緒に通勤できない朝は、誰よりも早く会社に来ることにしている。誰もいない小さな部屋で彼の席に座りこの匂いを堪能する。部屋の掃除をするついで、彼の机を拭きつつ大きく深呼吸しながら思う。


「この幸せな時間。こんな風に1日を始められるなど、本当に自分は運がいい」



*******



木俣恵美は達観していた。


自分は男性が大好きだ。こればかりはどうしようもない。でも周りを見渡せば分かる。優しい母も、美人の親友も、上司も部下も、親しい人で男性と結婚できそうな人はいない。自然妊娠の可能性がある人もいない。この世の女性なんて、生まれて学校に通い、部活で青春し、年が来れば人工授精で子供を産み、生まれた子供の為に仕事をして、老いて、死んでいく。男との性交など万に一つの確率も無く、結婚など夢のまた夢。ずっとそう思っていた。男など想像の中で楽しむ偶像だと。


最近は仕事が楽しかった。飄々としてそれでいて頼りになる尊敬できる上司と将来を夢見る部下たち。彼女達と一緒に好きな気象関係の仕事に携わることができるのは恵まれている。できればこの仕事をずっと続けたい、


そんな風に考えていた時だった。一人でなんとなくネットサーフィンをしていた時に、気象予報士試験での男性受験生のインタビュー動画を見つける。その衝撃はなんと表現すればよいのだろう。それ以降、彼は彼女の想像の中での恋人となり、弟となり、後輩となり、そして夫になった。昼は現実の中で気象予報に関わる仕事で充実した時間を過ごし、夜は想像の中で彼との幸せな時間を過ごした。自分は幸せだ、そう感じていた。


ある日、会社が新運用チーム結成のためのメンバーを探し始めた。新しく入社する男性お天気キャスター候補のためのチームだという。その男性の詳細は伏せられていたが、木俣はすぐに察した。私の愛しい人が来る。私の許に!


会社からは田尾リーダー異動後の運用第二チームのリーダーを打診されたがすぐに断った。新チームを支える役は自分しかないと、持てる能力をフル回転して部長を説得した。もし自分がチームリーダーにふさわしいと評価していただけるなら、ぜひ、そんな自分を彼のサポートとして新チームに加えるべきだ。それが新運用チームを成功に導くカギになるのだ。だから自分をサポート役に選んでほしい。選ばれた際には自分は命を懸けて彼の教育に邁進する所存だ、と。そして見事、運命を引き寄せることに成功した。


新しいチームでは、会社での生活面やキャスターとしての発声や立ち振る舞いの技術面について立浪が教育を担当し、気象予報に関わる知識を木俣が教育することになった。


3か月でプロとして人前に出る必要がある。考えた末、彼には毎日、過去の予報が当たらなかった時の原因を考えさせるという課題を与えることにした。教科書にある知識だけではうまくいかない事を出来るだけ疑似経験できるようにと、木俣なりに彼を思って考えた教育だ。毎日、過去の実績の天気図とその時点の予報図、そして時間が経過した後の実際の天気図を与え、なぜ予報が外れたかを答えさせる。その時間は木俣にとって現実と想像が織り交ざった甘美な時間となっている。周りは誰もそのことに気づいていないはずだ。厳しい職場の教育係として見えるように細心の注意を払っているのだから。


昼食時、木俣は周りに気づかれないよう表情を崩さず心の中で思う。


<もうすぐ彼との至福の“教育”の時間がやって来る。ああ!待ちきれない>



*******



駅の改札付近で彼を待ちながら田尾は心の中で愚痴っていた。


まったく。あいつら、彼のこと好きすぎでしょう。立浪は見るからに彼を甘やかしている。教育中なのにメモを取らなくていいとか、自分が何度も質問されたいだけでしょう。


木俣にしてもそう。講義内容そのものはなかなか良いと思うけど、何、あの教えているときの眼!答えが分からないと彼から泣きつかれたときなんて、あなた半分、イっちゃってるでしょう。それで余計に難しい、ベテラン予報士でも分からないような問題ばかり作っているでしょう。まあいいけど。役に立ってるようだし。


大体、得意先のプロデューサーもそうだ。「あまり教育するな」って、何それ!おかしいでしょう。彼は当社の正式な予報士だって!素人高卒男子をそのまま出せるはずないでしょうが!


まったく。皆、甘すぎるんだ。確かに彼は若い。それに希少な男性だ。背も低いし、可愛いし。でも、だからと言って甘やかしていいことにはならない。これだから世の女性は男になめられるんだ。自分は彼の直属の上司だ。確かに彼のことは好きだし可愛いとは思う。いい匂いもするし。優しいし。スーツは似合っててエロいし。だけど自分は言うべきことは言うぞ!それが彼の為なんだ!そう!自分は彼の厳しい上司なのだ!


そのとき、彼が走って田尾のもとにやってくる。


「田尾さん、おはようございます。すいません。お待たせして」


「お早う、雪緒君!大丈夫だ。全然待ってないよ。雪緒君こそ走ることない。転んで怪我でもしたら大変だからね。歩いて移動するようにしなさい。大切な体なんだから」


「あ!はい。分かりました。では行きましょうか?」


「うんうん。そうだね。じゃあ行こうか?コンビニ寄ってく?お弁当ある?なかったら何か食べるもの買ってあげようか?」


この時、周りにいて偶然二人の会話を聞いた独身サラリーウーマン達は、見慣れない年増女に対し嫉妬に駆られた視線を投げながら心の中で一斉に突っ込んでいた。


『お前、甘やかせすぎだ!!!』



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