ジャポン・ウェザー・ニュース社
目覚まし時計が鳴っている。
昨日は得意先のテレビ局のプロデューサーとの飲み会だった。放送関係者って、どうしてこう飲み会が好きなんだ?こっちはガチの理系で付き合いは慣れてないんだ。ちょっとは手加減してほしい。
現在、時刻は朝の6時、1月の朝の空気の冷たさに二日酔い気味の頭も覚醒しだす。
私の名前は田尾洋子、30過ぎ、独身、独り暮らしの典型的なサラリーウーマンだ。
大学は旧帝大の理学部出身だ。若い頃は気象関係の数値計算シミュレーションに興味を持ち、研究機関か気象庁への就職を夢見て理学部に進学した。しかし研究室に配属された辺りから、自分の実力に気づきだす。結果、シミュレータの開発者から利用者へ、自らの分をわきまえた職を得た。それでも今働いている会社、ジャポン・ウェザー・ニュース(JWN)社は、民間気象予報会社では国内最大手だ。この会社に就職できたのも旧帝大理学部に進学したおかげだろう。
朝の身支度を終え、会社に向かう。
今、私が所属する部署は計算機を操るシミュレーションソフトのユーザーである解析部ですらない。テレビ局との契約で天気予報を行うお天気キャスターを派遣する部に所属している。売上高は高くはないがこの会社にとって重要な広告塔的存在だ。
この部の花形は実際に天気予報を行うお天気キャスター。私の立場は運用第2チームのチームリーダーで、主に民放系列局との契約で派遣される予報士を束ねるチームの責任者だ。ちなみに、運用第1チームは国営放送と契約しており、同期の出世頭がチームリーダーとなっている。わが社が民間気象予報最大手足りえる理由はいくつかあるが、その一つが長年、国営放送との契約をがっちり掴んでいるからだ。その意味では第2チームリーダーの私の立場がいかに微妙か、ご察し頂けるであろう。中途半端な出世状態なのだ。これなら花形のお天気キャスターを目指したほうが良かったかもしれない。上も下も見なくて済むのだから。
予報士を束ねる立場上、気象予報士試験は何としても合格する必要がある。実際、軽く合格するつもりで第1回の試験を受けた。その結果、実技は受かったが学科試験で落ちてしまった。まあ試験科目が減っただけでもありがたい。おかげで先週受けた第2回試験ではしっかりと準備することができ、自己採点はまあまあだった。別に業務には何の支障もないが、早く資格を取っておかないと格好がつかない。
そんなことを考えながら会社で自分の席に着こうとすると、同期の宇野が声をかけて来る。彼女こそ運用第1チームのリーダーで、まごうことなき本物のエリートだ。試験だって第1回でちゃんと合格したらしい。まったくもってうらやましい限りだ。
「おはよう。何か用?宇野」
「おはよう。今ネットで話題の気象ボーイって知ってる?」
「気象ボーイ?男性アイドルか何か?」
「あなた他局の気象関係の番組やネットはチェックしていないの?今、かなり有名よ」
「見ないね。自分のとこで手いっぱい」
すると彼女はスマホを操作し、とある動画を私に見せてくる。それは他社のお天気キャスターのレポート動画だ。そうそう、こいつも試験に落ちたと言っていたから、妙に親近感がわいて覚えていた。どうやら試験日の会場からのレポートらしい。可哀想に、受験生なのに試験当日にレポートさせられるなんて、この局も鬼だな。
暫くするとそのレポーターが必死に誰かを呼び始めた。そして画面には飛び切りかわいい男の子が映る。うわ、こりゃ私好みの黒髪が似合う清楚な子だ。
「この子、たまたま会場でインタビューされたらしいわ。気象予報士試験を受験する最年少男性だってうわさよ。もっとも受験男性なんて数人らしいけど」
「へー。こりゃかわいい。受かったら、将来、わが社に来てくれるといいけど」
「そのことで貴女、多分、呼び出されるわよ」
「え?私が?なんで?」
「さっき、貴女の部署が契約している局のお偉いさんが来て、今、うちの部長と面談中」
「そうなの?でも、それとこの動画に何の関係が?」
「今、自分でも呟いたでしょ?わが社に欲しいって」
「そりゃそうだけど。大体、この子、きっとまだ学生でしょ?就職には早いんじゃない?」
そんなやり取りをしていたら、本当に部長から呼び出しがかかった。
「ほら。教えてあげたんだから今度おごってね?」
「本当にその情報に意味があったらね」
私は席を立ち部長室に向かう。部屋には40過ぎのかなり美人な上司が待っていた。早速、話を切り出してくる。この人の単刀直入で余計な話がないところは好きだ。
「田尾君、この動画を見てくれ」
部長は自分の机のノートPCを回して、私に動画を見せる。まさに今、宇野に見せられた動画だ。
「知っているか?今、ネットで話題になっている少年だ」
多少は知ってます。これは、宇野に1回、おごりだな。
「この子に関係して、先ほど、わが社のお得意様の局長が来られ、これを置いて行った」
部長は、目の前に書類の入った封筒を置く。表にはでかでかと“極秘”の文字がある。
「中を確認してほしい。今ここで。時間が多少かかってもかまわない」
田尾は中身を取り出す。数枚の写真と10ページ程度の文章だ。最初に目についたのは写真。遠目から望遠で撮られており男の子の周りだけ綺麗にピントが合っている。これは怪しい。よく男性の隠し撮りなんかして警察に捕まらないと感心する。普通なら即、逮捕だ。いや、でもかわいいな。可愛い子って、いつ、どんな表情でも可愛いんだな。
続いて文章に目を通す。読むにつれ空恐ろしくなる。住所・氏名・年齢・家族構成・病歴は言うに及ばず、趣味や交流関係など、まるでちょっとした個人の伝記だ。これを調べた女(確信できる)の執念というか趣味・嗜好まで滲み出ている。ここまで他人を知るってかなりディープな行為ではないか?正常の範囲を超えている気がするのだが。
最後にこうある。
<気象予報士試験の自己採点結果は上々で、合格の可能性が高い。本人は気象関係の会社への就職を強く望んでいる>
これは絶対、まともな方法で手に入れられる情報じゃないだろう。同時に驚く。あの子、高校生で受かっちゃうの?すごい・・・こんなにかわいいのに。
「読み終わったようだね。最初に言っておくが、これはテレビ局が持ってきた資料で、我々が調べたものではない。彼女らがどうやってこれを知りえたのかは、我々のあずかり知らないことだ。だからそのことについて何か言っても無駄なことだ」
はい、よくわかりました。ご安心ください。私は部長に何か言うような女ではありませんよ。
「重要なのは最後のところだ。彼は先の試験で予報士に合格した可能性が高い。これを受け我社に大至急、彼に対する採用活動を開始してほしい、というのが局長のご要望だ。本当は自分たちがアナウンサーとして採用したいそうだが、本人は気象関係会社に強い興味を示しており、自分たちが採用できる可能性が低いことを踏まえて私たちのところに来たようだ」
なるほど。それで当社が採用して、彼をお天気キャスターとして派遣しろと。でも彼、進学予定のようですが?
「彼の望みは気象関係会社への就職でそのための進学だ。であれば説得の道があるはずだ。テレビ局としても予報士であれば学歴はいらないらしい。まあ、むしろ若いほうを好むのであろうことは想像に難くない」
それはわかります。若い子のほうが良いですよね。でも、たとえ本人の将来の希望が気象関係会社でも、入学が決まっている男子学生ですよね?企業としてどうなんですかねえ。
「君の言いたいことはわかる。とはいえ先方としては、この先、彼が入社した会社と派遣契約を結ぶ意向とのことで、私たちのところに“最初に”来た理由は、長年の円満な関係を感謝しての事らしい」
・・・つまり、部長は先方の局長に半分脅されたわけですね。大変でしたね。
「察しが良くて助かる。あの会社は君のチームのところの担当だから、この件は任せる。仮に競合他社がいても我社が彼に選ばれるような提案を考えてくれ」
採用に動く会社はありますかね。ここまでやるところは少ないと思うけど。
「いずれにせよ、私たちは彼の試験合格の確認と同時に行動を起こし、最速で彼のもとに伺う。それまでに彼に対しどのような提案をするか、私たちの会社の受け入れ準備等、しっかり考えてほしい。分かっていると思うが、この件は常務と私、そして君の3人だけで進める。今から始めて欲しい」
はい。承知いたしました、部長。私は察しが良い社員ですからね、他言無用なのは心得ております。ご安心ください。
田尾は自席に戻り彼が試験に合格していた場合に、如何にしてわが社に就職してもらうか、検討を始める。何せ進学はすでに決まっている。たとえ本人の将来の希望が気象関係会社でも進学を蹴って入社してもらうには特別な提案が必要だろう。それは何か?よく考えないと。
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あれから約2週間が過ぎた。
いよいよ今日は気象予報士試験の合格発表日だ。正直自分の結果が気になるのだが。私は今、常務の部屋で常務と部長の目の前でノートPCを操作している。他人の試験結果を見るためだ。常務は今か今かと結果を待ちあぐねているようで何度か同じことを言ってくる。
「田尾さん、まだですか?」
言葉使いは上品だが、正直かなりうっとうしい。年を取るとこういうことに短気になっていくのだろうか?気を付けよう。常務に言われる度に私はホームページの情報を更新する。
「まだのようです。もう少しお待ちください」
何度か更新を繰り返しているうちに、ホームページが表示されなくなる。応答しないというようなメッセージが出ている。
「変だね。アクセスが殺到しているのかな?」
さすが部長、おそらくその通りですよ。わたしは、ダメもとでもう一度更新する。すると突然、画面が変わりだした。情報の取得に時間を要しているようだがホームページがゆっくり切り替わる。
「田尾さん、これですね?」
はいはい。分かっております常務。私は急いで合格発表のPDFをダウンロードする。ダウンロードに時間がかかる。この時間がもどかしい。ようやくファイルがPCに作成され、PDFが開かれる。そして事前に入手した彼の受験番号を検索する。
結果はすぐにわかる。合格だ。
「合格ですね。喜ばしいことです。それでは高木部長、田尾さん、さっそく交渉に入ってください。今日が勝負です。とにかく今日中に我社が出せる最上級の条件を彼と家族に伝えてください。部長には必要な権限はすべて与えますが、判断に迷うことがあればすぐに連絡をください。今日は一日、私の携帯はつながるようにしておきます」
「承知しました。それでは早速、彼の自宅に向かいます」
部長が恭しく対応する間、私は別の情報もPDFで確認する。うん、予定通りこちらも合格だ。この情報が重要なんだ。場合によってはわが社の武器になる。確認後、PCの電源を落とす。
「田尾君、準備はいいかね?」「はい」
私たちは役員室を後にして、そのまま玄関に向かう。すぐに出発できるように準備は整えてあった。幸いにも、本人の合格も含め全て予定通りだ。きっとうまくいく。
会社の玄関で部長と一緒にタクシーに乗り込む。走りだしたら背中をシートに沈め、これからの交渉に集中する。そのとき、ふと思い当たる。
「あ、私は受かってたのかな?」
ま、いいか。きっと、些細なことだな。
(よくねーよ!)