リセット
次の日の朝。
約束よりも5分ほど早く準備を整え、玄関で座って呼び鈴が鳴るのを待つ僕。7時30分ちょうどに呼鈴が鳴る。怖いくらい時間通りだ。もしかして外で時間まで待っていてくれたのかな? だとしたら悪いことした。早く外に出てあげればよかった。何でもないことがすごく切ない気がして急いで扉を開ける。
「おはよう!雪緒」
外には、とびきりの笑顔の瞳ちゃんが立っていた。なんだか瞼が腫れているようだ。
「おはよう!”瞳” ちゃん!」
「!!・・・うん! じゃあ行こうか?」
僕ができるだけの笑顔で名前を呼ぶと、彼女も笑顔になった。でもすぐに目を逸らし学校に行こうとする。
「ちょっと待って。少しだけ、話したいことがあるんだ」
「え?」
彼女は少し驚いた顔になる。言うべきことは、昨夜、寝る前に布団の中で考えてある。ちゃんと伝えないと。
「僕の記憶障害だけど、もう治らないかも知れない。ごめんね」
「うん。大丈夫よ。さ、学校行きましょう。遅刻するよ?」
「待って、大切なのはここから。僕ね、母さんや姉さんの事もすっかり忘れてしまったんだ。けど今はそれを後悔するより、これから家族3人で楽しい思い出を作っていくことに集中しようと思うんだ。だって忘れてしまった事を悔やんでも、いくら申し訳なく思っても、悲しみが消えることは無いから。これからの事を考えることが母さんや姉さんの悲しみを少しでも軽くできる気がしたから」
「・・・そうね。それがいいと思う」
俯く彼女の顔はよく見えない。きれいな雫が彼女の足元の地面に落ちてしみになっていく。
僕の声もかすれる。でも、まだだめだ。ちゃんと伝えないと。
「それでね、瞳ちゃんにもそうしたいと思っているんだ。これまでの大切な思い出は僕の中で消えてしまったかもしれない。そのことが瞳ちゃんを悲しませてしまったと思う。でも、だからこそ、せめてその悲しみを軽くできるように。これから瞳ちゃんと一緒に沢山思い出を作っていこうと思う」
何とかそこまで言うと、涙があふれ出てくる。目を閉じて最後の言葉を言い切る。
「忘れちゃって、ごめんね? でも、これからも一緒にいてね?」
彼女が僕を抱きしめた。
「ありがとう・・・雪緒。本当に、ありがとう・・・」
僕らはそのまましばらく抱き合って、互いの悲しみと後悔の念を分け合った。互いの体温を感じながら、お互いが相手を思いやっていることを体全体で感じあいながら。
本当は、僕は君の知っている「僕」ではない。記憶を失ったんじゃなく、本当の意味で以前の「僕」はいなくなってしまったんだ。ごめんね。
でも、こうしていると、今の僕でもちゃんとわかる。君がどれだけ「僕」のことを想ってくれていたか。今もそれは変わらないことも。だからこれからもこれまで以上に仲良くしようね。
「はい。そこまで!そろそろ行かないと遅刻だ、君たち」
突然、後ろから声をかけられた。見ると、あきれ顔の姉さんが、わざとらしいポーズで立っていた。
「姉さん、何時からそこに?」
突然の呼びかけに驚き、僕たちは急いで離れた。
「外に出たのは今だけどね。安心しなさい。母さんには言わないから。さ、早く行きなさい」
外に出たのは今だけど?まさか、中からドアスコープでのぞいていた?
「早く早く。遅刻だぞ!」
「じゃあ、行ってきます」
瞳ちゃんはあいさつすると、僕の手を引いて走りだす。このあたりの行動の速さはさすがだ。
「姉さん!誤解しないでね!」
僕は、遠ざかる姉さんに対して、叫んだ。
*******
早歩きで遠ざかっていく二人を見送りつつ、泪は小さくつぶやいた。
「まったく。お人よしだな、私も。これじゃあ、まるで敵に塩を贈る様なもんじゃないか」
彼女は分かっている。今の自分の気持ちが、弟を想う姉のものではないことを。この胸の痛みは、優しさとは全く異なる、極めて自己中心的な感情であることを。
「君が思うほど聖人ではないんだよ」
目の前で愛する人が誰かの腕の中で涙を流す。そんな姿を見るのは、正直、もうごめんだ。でも、今はまだ、本当のことを告げる時期ではない。ようやく雪緒は前を向いて歩き始めたんだ。いま、本当のことを告げても、混乱させるだけだ。だからもう少しの我慢だ。暫くは私は彼の”善き姉”でいよう。
「でも雪緒、そんなには待てないよ。私も女だからね」
もうすぐ、私は我慢できなくなる。君の”善き姉”ではいられなくなるだろう。その時君はどう思うだろうか? 私のこの気持ちを知って、君はどうなる?
雪緒。