絶体絶命! そして二人は――。
ちょい下ネタ注意です。
「黒猫くん、助けて……」
サシミが悲痛な声をあげた。俺は叫びたい衝動を抑えて必死で考えた。今、このエレベーター内は完全な密室状態だ。ミステリーでは禁じ手の秘密の抜け穴なんてドラえもんの四次元ポケットじみた便利なものは存在しない。この密室が開かれるのは約3時間後。だが俺たちに残された時間は約30分。この状況下でタイムリミットまでにサシミの直面している尿意を何とか解決しなければ俺たちは破滅する!
俺は苦しむサシミを横目にエレベーター内をあてもなくグルグルと歩き回って考えた。しかし、いくら必死で考えたところで良い解決法なんてちっとも浮かばない。だったら今度は何でも試してみようとコントロールパネルのボタンを片っ端から押してみた。
「動けぇぇ!」
駄目だった。エレベーターが動いてどこか近い階に止まってくれれば幸いなのだが駄目だった何の反応もない。ならば、
「開けぇぇ!」
手動で扉が開かないかも試してみたけど、ドアは天の岩戸の如くピクリとも動かなかった。早くも万策尽きた俺は又しても当てもなくエレベーター内をグルグルと歩き回る。あぁ、こんな難問、名探偵ポアロかとんちの一休さんでもなけりゃ解決できないだろう!…と諦めかけた時、午後ティーが入っていた空のペットボトルが足に当たって転がりカラカラと乾いた音を立てた。瞬間、俺の脳裏にある恐ろしい解決法が浮かんだ……。
「サシミ、どうしても我慢できないか?」
俺は努めて冷静に、そして可能な限り低い声でゆっくりとサシミに話し掛けた。サシミは黙って頷いた。それを見た俺は空になったペットボトルを静かにサシミの前に差し出した。
「俺は後ろを向いているから、その隙にこの中に出すんだ」
「えぇ!」
サシミは絶句した。サシミの顔から血の気がサッと引いていくのが分かった。だが今は一刻を争う非常事態。だから俺は構わず話を続ける。
「ペットボトルの中に出したらキャップを締めて鞄の中に隠せ。そして救助された後、何食わぬ顔でトイレに行き、中身とペットボトルを捨てるんだ。そうすればギリギリだけど他人に醜態を晒さずに済む」
「でもでも、それって私が黒猫くんの、その、アレに触るってことだよね?」
「当然そういうことになるな」
「嫌ッ!出来ない!」
「やるんだサシミ!どの道、入れ替わったままならその体で生活しなくちゃいけないんだぞ!」
「分かってる!でも今は出来ない!どうしても出来ないの!」
サシミは絶叫した。俺も絶叫。俺たちはまたもや罵りあった。それはもう激しく罵りあった。罵詈雑言の限りを尽くして罵りあった。しかし、サシミの次の一言が事態を一変させた。
「そんなこと言うんだったら黒猫くんが私の代わりにやってよ!」
「ええぇぇ!?」
今度は俺が絶句させられた。そんな俺に構わずサシミは言葉を続けた。
「本来これは黒猫くんのものなんだし、毎日触ってたんだから今触るくらい平気でしょ!?」
「り、理屈の上ではその通りだけど、それは傍目から見るとちょっと……」
「今は私たちしかいないでしょ!」
俺の頭の中は一気に混乱と混沌の極致へと叩き落とされた。いや、確かに医療や介護の現場では排尿の介助なんて日常の風景だろうし、ちょっぴり恥ずかしいことではあるが必要としている人にとっては切実なことなのだから変な目で見ること自体とても失礼な気もする。
しかし、今のこの状況はそれと似ているようで全然本質的に違う気がするし、本来は俺の体とはいえそんなことをすれば俺が生きてきた中で築いてきた男のプライドというかアイデンティティというか、何か大切なものが破壊されてしまうような恐怖がががががが――
「ううっ。も、もう限界ぃぃぃぃ!!」
この一言が俺の理性の最後の抵抗を木っ端微塵に打ち砕いた!俺はペットボトルのキャップを取ってサシミの前に屈む。次にズボンのベルトとボタンを外すとジッパーを下まで一気に下ろし、敢然とパンツの中に手を突っ込んでぇぇ……うわあぁぁぁぁああぁぁぁ!!以下略ッ!
「……はっ?俺はいま何を?」
気がつくと全てが元の状態に戻っていた。見ればズボンのジッパーは上まできっちり上げられ、ベルトもしっかり締められていた。サシミはほっとしたような表情を浮かべている。俺はアレをどうやって達成したのだろう?思い出そうにも頭の中に霞がかかったみたいにぼんやりして思い出せない。俺の手の中にペットボトルは握られていないことから考えると、きっと無意識のうちに鞄の中に隠して仕舞い込んでしまったのだろう。忌まわしい記憶と共に……。
「ちょ、ちょっと黒猫くん大丈夫……?」
男としての大切な何かを失ったかのような喪失感に襲われ憔悴する俺。そんな様子を見かねてサシミが心配そうに話し掛けてきた。サシミの気遣いは嬉しかった。だが、正直今はとにかくそっと静かにしておいて欲しかった。悪いとは思いながらも俺はサシミの言葉を無視して壁に向かって膝を抱えて座り込み、沈黙した。今は手の施しようがないと見て諦めたのか、サシミは独り退屈そうにスマホをいじり始めた。
時間はゆっくりと牛歩のごとく流れていった。
どのくらい時間が経っただろう。俺はショックと疲労のあまりいつの間にか眠り込んでいたようだった。天井からは相変わらず非常灯が弱々しい光を投げかけていた。スマホで時間を確認する。あとちょっとで午後11時だ。ここには窓が一つもないので分からないけど、外はたぶんすっかり暗くなっていることだろう。
俺は振り返ってサシミを見た。サシミも壁に背を預けて眠っていた。まぁ、ただ待っているだけでも疲れるのに体が入れ替わるなんて理不尽極まることまで起こったんだ。眠ってしまっても仕方が無いよな。むしろ眠ってしまった方がのろのろとしか進まない時間を忘れることが出来るんだから好都合じゃないか。そう思って俺は再び眠ろうとした。だがそれは叶わなかった。俺はふと自分に微かに忍びよるおぞましい脅威に気付いてしまったのだ。
俺は心を落ち着け、忍び寄るおぞましい脅威のことを意識から排除しようと試みた。しかし脅威はそれ許してくれない。おぞましい脅威の気配は今やはっきりと認識できるくらいに強くなってきている。俺は何度もスマホで時間を確認するが時間は遅々として進まない。冷汗が頬を伝って流れる。俺は精神力を振り絞ってそのおぞましい脅威の気配を俺の意識から遠ざけようとするが、遠ざけようとすればする程に、また時間が過ぎれば過ぎるほどにおぞましい脅威はその力を増大させてゆく。俺はたまらず立ち上がってコントロールパネルの呼び出しボタンを押した。
『はい、四菱エレベーターメンテナンスです。どうしました?』
聞き慣れた若い男性オペレーターの声がスピーカーから聞こえてきた。
「あの、かれこれ随分待ってるんですけど、救助の人はまだ到着出来ないんでしょうか?」
『なんだ君たちか。すまないねぇ。こちらも全力で頑張ってはいるんだが、とにかくどこも渋滞が酷くてなかなか現場を廻れないんだ』
「そ、そうですか。そんなに渋滞が酷いんですか」
『あぁ、だから申し訳ないんだけどあと3、4時間くらい我慢してくれるかなぁ?』
「3、4時間!?もっと早くなりませんかっ!」
『どうしたの?慌ててるみたいだけど、どこか具合が悪くなったの?』
「いえ、身体はどこも悪くないんですけど……」
『じゃあ、お腹が空いたのかな?無理もない。もう一時間もすれば日付が変わる時刻だものなぁ……』
馬鹿野朗!このおぞましい脅威に比べたら空腹の方が百倍マシだ!…と、ふと後ろを振り返るとサシミが心配そうに俺の顔をを見詰めていた。俺は意を決して言った。
「ト、トイレに行きたくなっちゃったんですけど!」
『えぇぇ!?本当に!?それは困ったなぁ』
「そうなんです。メチャクチャ困ってるんです!」
『事情は分かった。出来るだけ早く行くよう現場スタッフに話ししてあげるけど、それでもたぶん2時間はかかると思うから出来る限り頑張って!』
「2時間ですね、分かりました。頑張ってみます!」
そう。数時間前、サシミを襲ったおぞましい脅威……つまり尿意は今度は俺にその魔手を伸ばしてきたのだ。通話を終了して再び後ろを振り返ると不安でいっぱいの顔をしたサシミがいた。俺は努めて明るい笑みを浮かべて言った。
「だ、大丈夫。2時間ならきっとギリギリ大丈夫だから……」
俺と尿意との長く激しい戦いの火蓋が切って落とされた。サシミは苦しむ俺の気を少しでも紛らわせようとあれこれ話し掛けてきたが、俺にはサシミの話に耳を傾ける余裕はほとんどなかった。時間の経過と共に尿は膀胱の容量の限界値に近づいていき、尿意は着実に俺の精神力を削り取り蝕んでいく。負けじと俺もありったけの精神力を振り絞る。ちらりと横目で時計を確認。くっそー。通話終了からまだ30分しか経ってねーじゃん。嘘だろう?何で時間ってやつはこういう時にはのろのろとしか進まないんだよ!遊んでるときはあっという間に進むくせして!つーか精神的にはもう軽く2時間くらいは我慢してるぞ!
「ちょっと止めて。みっともないでしょ!」
突然サシミに腕をつかまれ、俺ははっと我に帰った。尿意のあまり俺はいつの間にか両手で股間を抑えていたのだ。確かに年頃の女子が股間に手をやりながら腰をくねくねと動かす様ははしたないことこの上ない。けど、無意識に手が股間に伸びてしまうほど俺の膀胱は限界に近づいている訳で……。
「わ、わざとじゃないんだ……」
激しい尿意と戦いながら、俺は搾り出すような声で反論した。俺の顔は冷や汗でびっしょりだった。顔だけじゃない。背中や腕や足も全身びしょびしょだった。ちょっとでも油断すればダムが一気に決壊しそうな、尿意はそんなところまで迫っていた。再び時計に目をやる。前回時計を見た時からまだ8分しか経過していない。
「ちょ、そんなに危ないの?やめて、負けちゃダメ!」
俺の窮状を察したサシミは何を思ったのか、突然大声を張り上げ応援合戦を始めた。
「頑張れ頑張れく~ろねこ♪負けるな負けるなく~ろねこ♪強いぞ強いぞく~ろねこ♪くろねこ~ふぁいと~!尿意なんてぶっ飛ばしちゃえ~!いくぞー!いち、にい、さん、気合いだー!」
はっきり言ってこれは全くの逆効果だった。もっとはっきり言うとうるさい。集中力の限りを尽くしてギリギリの所で尿意をコントロールしているってのに気が散って仕方がなかった。耳元で聞かされる大音声の応援は今の俺にはまるっきり拷問だった。つーか、サシミは俺と尿意のどちらを応援しているんだ?などと考えているうちにも俺と尿意の戦いは熾烈さを増していく。俺は膀胱が少しでも楽になる姿勢を求めてフラリと立ち上がった。もう時計を見る余裕もない。
「きゅ、救助が来るまであと何分?」
「あと1時間ちょっと。黒猫くん耐えられる!?」
「もっ、もう限界……。ギブアップしていい?」
「それはダメッ!絶対にダメッ!」
「で、でも……」
「あわわっ!ちょっと待って!い、いま何か方法を考えるから!」
サシミは慌ててコントロールパネルのボタンをばんばん叩き始めた。でもそれは俺も既に試したやつだ。次にサシミはドアをガタガタ揺する。それも既に俺が試した。今度は俺やサシミの鞄の中を引っ掻き回し始める。しかし、空のペットボトルなんて結構な裏技はさっき使ってしまってもうない。本当の本当に万事休すだ。……と、サシミは鞄の中を引っ掻き回していた手を止めて立ち上がった。思い詰めたようなちょっと恐い顔をしている。
サシミは何やら決意を秘めたような必死の形相で俺に歩み寄ると正面で立ち止まり、おもむろに膝をついてしゃがみ込む。そして何の躊躇も迷いもなく俺のスカートを捲り上げパンツに手をかけた。
「ちょ、いきないり何するんだよ!」
俺は反射的にサシミの手を払いのけ腰を後ろに引いて逃れる。
「黒猫くん、冷静に聞いてね。私、これから黒猫くんのオシッコを飲む!」
「はぁ!?」
俺は自分の耳を疑った。オシッコを飲む?そんな馬鹿な……と思うもののサシミの顔は至って真面目で真剣そのものだった。
「の、飲むって本気で言ってんの?…て言うか正気!?」
「もちろん本気だし正気だよ。それに私と黒猫くんにとって最悪の事態を避ける方法はこれ以外にはもう……」
「でも、オ、オシッコを飲むなんて汚いぞ?」
「出したてのオシッコは無菌でとってもキレイなんだよ。」
「し、しかし、オシッコなんて飲んで本当に身体に悪くないのか?」
「平気だよ。飲尿療法って健康法があるくらいで、オシッコを飲むのは健康にいいんだから」
飲尿療法?そういえばそんな名前の怪しげな民間療法を微かに聞いたことがあるような、やっぱり全然聞いたことがないような……。それに、オシッコって無菌だったかなぁ?ニュースでそれを否定する研究結果が出たとか何かそんな話をどこかで聞いたような……。あ、でも、岩に挟まって身動きが取れなくなったロッククライマーだかが自分のオシッコを飲んで脱水を回避して、最終的に生還したとかいう話もあるし、一回くらい飲んだところで死ぬようなことは無いだろうけど……。
「大丈夫、まかせて黒猫くん!」
「そんなこと言うけど、サシミ。お前、オシッコなんていきなり飲めんのかよ?」
「安心して、私、中学の時に飲尿療法やったことあるから!」
さらりと爆弾発言。こいつ、とんでもねぇ!
「さっきは黒猫くんが私のこと助けてくれたでしょ?だから今度は私が黒猫くんのことを助ける!黒猫くんのオシッコは私が一滴残らず全部飲み干すから!だから私を信じて!黒猫くんのオシッコを私に飲ませて!」
言ってることはさっきから滅茶苦茶だったが、サシミの言葉には一点の嘘も迷いも感じられなかった。
「でも、コップも何もないのにどうやって飲むんだ!?」
「私が黒猫くんの(自主規制)に口をつけて――」
「直飲みかよっ!!」
俺は絶句した。俺はサシミが俺のオシッコを飲む様を想像してみた。かなりやばい。本人達にとっては真剣で切実なんだけど、傍から見ればいかがわしさ爆発だ!それに、そんなことをしたら俺の男としてのアイデンティティにまたしても致命的な傷をつけることになる。だからこんな行為は断固としてにお断りしたいところなのだが、しかし一方、そんな贅沢が許されない程に膀胱はのっぴきならない逼迫した状況であることを俺自身が一番自覚している訳で……。
「……よ、よし。じゃあ飲んでくれっ!」
俺は決心した。俺はサシミに指示されるままにパンツを脱ぎ捨てると足を大きく開いて立ち、スカートを捲り上げて股間をサシミの顔前に突き出す。漏らして醜態を他人に晒すよりは、サシミに従って黒歴史を一つ増やす方がまだマシだ。だけど、クソっ、やっぱりこれ凄く恥ずかしい。恥ずかしくて死にそうだ!
「じゃあ、ゆっくり力を抜いて……」
サシミの指示に合わせて尿道口を締め付けていた括約筋を緩めようとした。その瞬間、それまで天の岩戸みたいに固く閉ざされていたエレベーターのドアがゴゴゴッと大きな音を立てて開いた。懐中電灯から放たれた強烈な光のビームが俺たち二人を照らす。
「若人たちよ、助けに来たぞっ!」
それは俺たちを救助しに来たエレベーター会社のエンジニアのおじさん達だった。予想時刻より50分以上早い到着だった。おじさんたちの中でリーダーと思しき一人が俺たち二人の様子をちらりと一瞥し、髭剃り跡の青々とした顎を困ったように指でなぞると、コホンッと小さく咳払いをして言った。
「あー、お取り込み中失礼。助けに来るのが少し早過ぎたようだな……」
それは俺がこれまで生きてきた人生の中で紛れもなく正真正銘最凶最悪の瞬間だった。
「うわぁぁぁぁああぁぁ!!」
「きゃぁぁぁああぁぁぁ!!」
俺たちの悲鳴がエレベーターシャフトに木霊した。
最後まで読んでくれてありがとう。これは後日談みたいなものなんだけど、身体が入れ替わったまま救出された黒猫くんと私は、なかなかお互いの元の身体に戻れず、結局そのまま高校三年間を過ごして卒業することになったんだよね。それで、再び元の身体に戻れたのは大学入学一年目に二人で行った名古屋旅行でのことで、ここでも私たちは大地震に巻き込まれてエレベーターの中に閉じ込められちゃうんだよね。それで、ここでも色々あってようやく元の身体に戻れたわけ。……でも、それはまた別のお話しね。
妻戸三四三




