表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

痴漢冤罪をでっち上げられた

作者: 肥前文俊

 痴漢の冤罪なんて、どこか自分とは縁の遠い話だと思っていた。

 そんな人は日本中にいくらでもいるだろう。

 犯罪者に仕立て上げられた男の悲劇的な末路は可哀想だけれど、きっと自分には降りかからない。


 だって、自分は絶対に触らないんだから、誤解のされようもない。

 そんなふうに思っていたときが……自分にもありました。


「この人、痴漢です!」


 ――その一声を聞くまでは。






 毎日の通勤、ぎゅうぎゅう詰めの満員電車は不快の一言に尽きた。

 前後左右の押し合い圧し合いに人々は苛立ち、わずかなスペースを何とか確保しようと、四肢を踏ん張っている。

 圧迫感と熱気、香水や体臭の臭いに耐える通勤は、ストレッサーの塊だ。

 毎日の繰り返しとはいえ、決して慣れることは出来ない。


 その日の彼、山田完治かんちは左手を吊り革に、右手でスマホを操作していた。

 スマホゲームのイベントがあり、レアアイテムを獲得する必要があった。


 魅力的なキャラクターや、頭を空っぽにしていても、あるいは戦略的に使い倒しても楽しめるゲーム性。

 ストレスの貯まる電車通勤のなかで、どうにか心を保てているのは、そのゲームのおかげだろう。


 山田の目がスマホに注がれて、ボスを倒した瞬間に思わずニヤリと笑みを浮かべたとき、事件が起きた。

 吊り革を持った左手をぐっと力強く掴まれたのだ。

 一体何事だ!?

 腕に走る痛みに驚いて、手の持ち主を見たら、そこには気の強そうな女が山田を睨んでいた。


「この人、痴漢ですっ!」

「えぇっ、俺が!?」


 一瞬にして車中のすべての視線が山田と、もう一人の女に注がれた。

 視線が圧力となって、肌でピリピリと感じるほどだ。

 女は人並みには綺麗な顔立ちをしていたが、山田が触りたいと思うほどの魅力はなかった。


 ――少なく見積もっても、痴漢で捕まるリスクを秤にかけてまでは。


 となると、誰かが触って勘違いされたか、あるいは狂言回し、でっち上げの類かだ。

 とはいえ、自分は脅迫されるほどの金は持っていないし(ボーナスが入ったらガチャに注ぎ込んで少しも貯まらない)貧相な顔立ちは己が一番自覚するところだ。


 なんだよ、勘違いか。めんどくせーな。


 その時の山田は、まだ冷静さを保てていた。

 こんなことを考える程度の余裕さえあったほどだ。

 ため息を一つついて、山田は女に言った。


「俺じゃありませんよ」

「誤魔化さないで! 私のお尻触ったでしょ!」

「いやいや、俺はずっと吊り革を持ってましたし。それに、もう片手はずっとスマホしてたから無理ですって。ねえ?」


 助けを求めて周囲に視線を向ける。

 迷惑ごとを避けたいのか、明確な返答はなかった。

 だが、誰もが目線では同意を示していたし、中には頷いている人間もいた。


 ここで誰かが大きな声で証言してくれれば、もっと助かったんだけど。

 世の中から人情味が欠けてしまっているらしい。

 答えがないことで女が勢いづいた。


「ほら、誰もあんたじゃないって証言しないじゃないの。触ったんでしょ!」

「違う、違います」

「違わない! お前が触ったんでしょ! いい加減認めなさい!」

「違うって言ってるだろう!」

「私のお尻触ったとき、あんたがにやけた笑い顔してるの見たんだからね!」


 あの時か。

 山田が丁度ボスを倒して、笑みを浮かべた瞬間。

 その表情を見て、自分が触ったと判断したのだ。


 なんてタイミングが悪いんだろう。

 山田が間の悪さに顔をしかめたとき、近くに立っていた女から思わぬ援護が入った。


「触ったんなら認めなさいよね」

「はあ、だから触ってないって!」

「ほら、私だけじゃないわ。そろそろ白状しなさい!」

「ちゃんと見てないオバサンは黙ってろよ!」


 被害者の擁護者が出てきたことで、周りの視線の質も、より山田に対して敵対的になっている。

 だいたいこのオバサンはなんなんだ。

 どうして急に女の味方をしてきたんだ。


 本当によく見ていたならば、自分が触っていないのは理解されて当然のはずだ。

 となると、この女は勘違いか、それとも共犯か。

 援護をしている女の顔が鬼の首を取ったように喜悦にまみれていたから、余計に腹立たしかった。


 しかし、このままでは不味い、と山田は思った。

 なにせ、痴漢冤罪はただでさえ被害者の証言が有力だ。

 そこに第三者の「おせっかい」が加われば、有罪は確定したも同然。

 そうなれば社会的な信用を失い、仕事を失うことになるだろう。

 山田の表情からは笑みが失われ、血の気が引いていった。


「そもそも俺はね、あんたみたいなのはタイプじゃないの!」

「な、なんですって……!」

「俺のタイプはこういう女の娘なの。分かりますか?」

「うわっ、オタク。キショっ!」


 山田が操作したスマホの画面には、先程までプレイしていたゲームのキャラクターが映っていた。

 編成画面に映った少女たちは、どれも山田のお気に入りだ。


 途端に気持ち悪そうに顔を歪める女の態度に、山田の頭も煮え上がった。

 売り言葉に買い言葉。

 ついつい、相手のプライドを傷つける言葉が口をついて出た。


「お呼びじゃないの。オ、バ、サ、ン。俺に触らせたかったら芸能人みたいにもっと美人に生まれるか、画面の中にでも入ってみろ!」


 言ってやった。

 啖呵を切った瞬間、どことなく車内からおおっ、というどよめきが走った。

 なかにはよく言った、という声までかかる始末だ。


 山田の言葉に合わせて女の顔が怒気に赤く染まっていく。

 そして、次の瞬間、またしても山田の想像以上の行為に出た。


「このっ! 犯罪者! 変態! お前だ! お前が痴漢したんだ!」

「ちょっ、痛っ!!」


 ぎゅうぎゅう詰めの満員電車の中で、器用にも腕を走らせると、女の平手が山田の顔に直撃した。

 パン、と乾いた音が車内に響いて、それまでの雑然とした音が一瞬にして消え失せた。

 電車の走る音と、ヒステリックに叫ぶ女の声が響き続ける。


「お前だ! お前が痴漢したんだ! 認めろよ!」

「やってないって言ってるだろ! 傷害だぞ! これ以上言うなら名誉毀損で訴えてやる」


 山田は必死に訴えた。

 誰かが止めに入ってくれたらしく、女の暴行は止んだが、叩かれた頬はじんじんと熱を持った。

 厄日だ。どうして俺がこんな目に合わないといけないんだ。


 内心で悪態をついていると、ようやく電車が止まった。

 駅についたらしい。

 扉が開き、一部の乗客が降りていく。


「ちょっと、何ぼっと立ってるのよ。あんたも降りなさいよ!」

「はぁっ!?」


 女がスタスタと電車を降りると、ヤマダに向かって降車を命令する。

 山田としては同意する謂われはない。

 そもそも誤解であるし、むしろ暴力を振るわれた被害者は自分だ。

 もちろん、女も被害者ではあったのかもしれないが、もはや山田にはその点について同情する気は一切なかった。


「何言ってるんだか。俺は降りないよ」

「降りなさいよ! 本当に無実だって言うんだったら証明してみせなさいよ!」


 電車の中と外で睨み合う。

 ガヤガヤとした騒音が周りを包んでいる。

 扉は閉まらない。騒ぎを聞きつけた駅員がやってくる。

 遠巻きにしている乗客はスマホを構えて撮影を始めだした。


 折しも通勤のラッシュ時だ。

 イライラとした。


 早く降りろよ!

 お前のせいで電車止まってるだろ!

 心無い男の罵声が響き渡って、山田の心はますます苛立った。

 どうして自分が降りる必要があるっていうんだ。

 俺は被害者だぞ!


 やがて鉄道警察隊の人員が社内に入ってきて、山田を取り囲んだ。

 口々に話を伺いたいから降りろと言い続ける。


 この時になると、さすがに山田の味方をする乗客が現れ始めた。


「彼はやってませんよ」

「俺、この人が吊り革をずっと握ってるの見てました」

「一方的に痴漢扱いした上に、暴力まで振るってましたよ」


 あまりにも一方的な女の態度に、おかしさを覚えたのだろう。

 山田としたら、もう一刻も早くこの騒動から開放されたかった。


 だが、鉄警隊は山田の証言も、周りの証言も耳を傾ける様子はない。

 とにかく話を伺うから、の一点張りだ。


「絶対俺は電車から降りないからな! なんで触ってないのに逮捕されなきゃならないんだよ!」

「良いから。話を聞くだけですから」

「嫌だ! 弁護士を呼んでくれ!」


 以前聞いたことがある。

 冤罪だろうとなんだろうと、駅員室に連れて行かれたら、ほぼ起訴されて有罪判決が降りるらしい。

 この国は起訴されたら99.9%有罪判決が下る。

 そして痴漢の犯罪はほとんど確実に起訴されるのだ。

 認めたほうが結果として楽だとか、かえって刑が軽くなるとか言われるんだ。

 どうしてやってもいないことで認めて罰を受けなきゃいけないんだ。


 山田は必死だった。

 絶対に降りたくない。

 いっそ逃げ出してしまうか?

 駅から逃亡したという話も聞いたことがある。

 だが、一度逃亡したら今度こそやっていないと信じてくれる者はいなくなるだろう。


「あなたの言い分が正しいだろうとしても、このまま帰らせてしまったら確かめられなくなるんですよ。一度は話を伺わせてもらいます」

「……どうしても行かせてくれないんですか?」

「はい」

「分かりました…………一つ聞いていいですか?」

「なんです?」

「あなたが痴漢に間違われたら、どう対応しますか?」


 鉄警隊の男は、その質問に何も答えなかった。


 もはや、どうしようもなかった。

 世の中腐ってる。

 山田は鉄警隊とともに、駅員室に向かうことになった。


 その日、とあるSNSに一件の投稿があった。


 電車内で痴漢扱いされた上、暴力まで振るわれました。

 やられたままでいられません。

 人を痴漢冤罪で犯罪者扱いしてくるこの女、名前を×× ×××といいます。

 RTで拡散お願いします。

 #痴漢冤罪


 その日、山田の投稿した一文はバズり、トレンド入りを果たした。

 数万人に拡散し、数十万人の目に止まった女の言動が、その後どんな受け止められ方をしたか。

 それは本人だけが知れば良いことだろう。

Twitterとかで最近話題になってますよね。

私は自転車通勤で本当に良かった……。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
[一言] こういう話を書くと「なんで法律って何のためにあるんだ」と感じる。一つに日本は法整備途上国と言わられている。法律は政治家にしか出来ない事なのに政治家は変えてくれない。→誰か改革者は現れないのか…
[一言] どんどん対話が不能になる様な言い分は大抵冤罪の常習犯
[気になる点] これ、しててもしなくてもやってないって言うからこわいんだよねぇ 必要なものは男女問わずモラル、ですね [一言] 新幹線形式、観光列車だと痴漢はほぼないそうです。 ほぼ、って所に恐怖があ…
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ