第九話
本屋の三軒ほど隣にある古めかしい喫茶店に俺達二人は入った。幸いにも出る人と入れ違いになったので、席はすぐに確保できた。
「ブレンドコーヒー」
「私はカフェオレ下さい」
初老のマスターに注文し、それが来るまでの間しばし待つ。二人の前に、それぞれカップが置かれたところで、茜ちゃんはぽつぽつと話し出した。
「あの、碧はこの件のことあんまり知られるの好きじゃないみたいです。だから、その、明良にも言ったんですけど……、碧には黙っていてください」
そう言って茜ちゃんは話を切り出した。
「一年前になるんですけどぉ、当時、碧は隣町に住んでて、なんか曾お爺さんの時から住んでたとかで、大きな庭があるんです。私も何回か行きましたけど、すっごく良いところでした」
「うん」
そうか、以前は隣町に住んでいたのか。
「で、お兄さんが一人いて、凄く仲良しだったんです。歳が十ぐらい離れてて、可愛がって貰ったことしかないらしくてぇ」
この間売りに来た園芸本の持ち主だな。なるほど、わざわざ茜ちゃんが取りに来たのも、仲良しのお兄さんの本だったからか。
「それでぇ……、そのお兄さん事故で死んじゃったんです」
茜ちゃんは一旦ここで言葉を切った。俺の反応を伺うようにこちらを見たが、あまりに唐突な展開過ぎて、俺には何もいうことが出来なかった。
「家族の人も随分悲しんだらしくて、色々とあったみたいです。でも、一番ショックが大きかったのが碧だったみたいでぇ、えぇと、塞ぎ込んじゃったと言うか。もう二度と笑わないんじゃないかって言うぐらい落ち込んでてぇ。で、半年ほど前、やっと大学にも出てくるようになったんですよ。それを機に引越も決めたみたいです」
そこで茜ちゃんは大きなため息を一つついた。茜ちゃんの目から見れば、まだ全然回復していないってことなのだろう。確かに思い出のある家から引っ越すというのは大きな決断だろうと思う。赤城さんが立ち上がろうとしているのを、何かの形で支援したかったという親御さんの心意気だろうか。
「表面的にはある程度戻ったかなと、思っていたんです」
確かに、本を売りに来た時の彼女からは、悲しみのようなものを感じはしなかった。
「でも、お兄さんが死んで以来、あの子は小説を書かなくなったんです」
「そりゃまあ、大好きなお兄さんだったわけだし、仕方ないんじゃ?」
「確かにそうなんですけど……。うーん」
何か言いたげだが、上手く纏まらないという感じで首を捻る茜ちゃん。恐らく、赤城さんが小説を書き始めたきっかけと言うのは、何かお兄さんが絡んでいるのではないか。お兄さんが死んでしまったことで、どういう気持ちで小説に取り組めばよいのか分からなくなっているのではないか。だから、執筆そのものに背を向けてしまっているのではないか。
茜ちゃんが悩んでいる前で俺は何となくそう思った。もし、この仮定が正しいとすれば、赤城さんの力で立ち上がるしかない。俺にできる事は、立ち上がると決めた彼女を応援することぐらいだろう。
「アイデアの事でも、書きかけの小説の事でも、とにかくそう言う話をするときの碧はとっても楽しそうなんです。キラキラ輝いているっていうか。私はそんな碧の事が好きでした」
俺は茜ちゃんの話を黙って聞いた。
「私はもう一度、あの輝いている碧が見たいんです。我侭なのは分かってます。あの子の気持ち、考えてないなってのも……。でも、今のままで碧を放っておけなくて」
羨ましい。これほど友達の事を思える茜ちゃんは、本当に素敵な女性だ。不器用でおせっかいだけれど、こんなに誠実な友人と言うのは、一生でどれぐらい出会えるだろうか。
「何か切っ掛けがあれば、と思っていました。食事のときに、明良が裕也さんを連れてきてくれてじゃないですか。私、これはきっと運命だと思いました。裕也さんは碧の小説について真剣に意見してくれる人だって。」
面と向かって言われると随分照れる。頼って貰えるのは確かに嬉しいが、あの場でも言ったが俺は所詮素人だ。果たしてどれほどの力になるものか。正直に言うとまったく自信はない。
「でも、結局あんなになっちゃってぇ……。ちょっとやりすぎたかなぁって」
「あの後、話はしたの?」
「はい、その日の晩に電話で。碧は気にしてないよ、こっちこそゴメンねって言ってたんですけどぉ……」
多分それは本当なんだろう。次の日に会った彼女は、少なくとも前日を引きずっているようには見えなかった。ただ、茜ちゃんの心に後ろめたいところがあるのだろう。まあ分からないでもない。
「会った?」
「いえ、何となく会いづらくて」
「でも、次の日栞取りに来てたし、それから一回あったけど、元気そうだったけどな」
「本当ですか! それなら、少しほっとしましたぁ」
ほっと息をつき、にっこりと笑う茜ちゃん。
「良い友達関係だね」
「はい、少なくとも私は親友だと思ってます」
茜ちゃんは元気良く頷いてそう言った。
「でも、焦りすぎると良くないと思う。あくまでこれは赤城さんの問題だからね。無理強いしても、あまり良い結果にはつながらないと思う」
「う……。はい」
「きっと、大丈夫だと思うよ」
俺の言葉に、茜ちゃんは満面の笑みでもう一度頷いた。
それから少しだけ明良との惚気話を聞かされて、程よくウンザリした頃に俺達は店を出て分かれた。
赤城さんの書いた小説。読ませて貰える物なら読んでみたい。
翌日、白井さんは朝からなんだか元気が無かった。
「どうしたんですか?」
俺が聞いても白井さんは「うん、まあねぇ」と要領を得ない。いつもならとっとと仕事場に引っ込んでしまうくせに、今日に限って和室で湯飲みを抱えてぼんやりしている。昨日の用事とやらで何かあったのだろう、と言う予測はできる。
「昨日、何かあったんですか?」
「まあ、ねぇ……」
今日、何度目かのやり取り。昨日、どこへ行っていたのかを教えてくれないので、こう聞く以外に無いのだ。
「仕事、しないんですか?」
「うん、まあ、ねぇ……」
抜け殻の様、とはこういう時に使う言葉だろう。
「あんまりサボってると、黒木さんに怒られますよ」
本当に何気なく言った言葉だった。しかし、返事の変わりにびくっと体を震わせた白井さんは、その弾みで湯飲みを取り落とした。中に入っていたお茶が畳の上にこぼれて水溜りを作りながら染み込んでいく。
「わわ、しまった」
白井さんはとっさにティッシュを数枚引き抜き、その水たまりにかぶせる。
「わっ、何やってるんですか」
俺は慌てて和室に駆け上がり、布巾を取るべくキッチンに駆け込んだ。更にティッシュで先に拭いていた白井さんからそのティッシュを受け取り、流しの三角コーナーに放り込む。代わりに渡した布巾で畳を拭きながら、白井さんは一つため息をついた。
「やれやれ、参ったなぁ」
「どうしたんですか?」
「いやぁ、何でもないよ」
そう言いながら、拭き終わった布巾を持ってキッチンにやってくる白井さん。
「でも、朝から変ですよ」
「変、かな?」
「とても」
「うーん、そうかぁ。変だったかぁ」
自覚が無いのが恐ろしい。
「俺で良ければ話を聞きますけど?」
「気持ちは嬉しいけど、ごめんね」
穏やかだけど、有無を言わせぬ調子と言うのだろうか。一枚の強固な壁を感じた俺は、それ以上聞くのをやめた。どうせ聞いても教えてくれないからだ。いつか教えてくれるかもしれないし、教えてくれないかもしれないが、とにかく今は何を聞いても無駄だろう。
「何かあったら呼んでよ」
大きなため息混じりにそう言って、白井さんは奥へと歩いていった。
昨日、白井さんに何があったのか。
単純に考えればデートだろう。仕事の合間に、ネットで相手を見つけたか。黒木さんの名前に過剰な反応を見せていたから、ひょっとすると紹介されたのかもしれない。
だとすると、こないだのやたらに長い打ち合わせにも納得がいく。
そして、昨日はその女性との初デートだった。ところが、何かしらやらかして相手を怒らせてしまった。
どうしてこうなってしまったんだろう、と言う事と黒木さんに何と説明すればいいのか、と言う事と、その二つで悩んでいたというところか。
そりゃ、人には言いたくないだろうなぁ。
俺は、白井さんの心を思い、これ以上は何も詮索しない事に決めた。