第七話
店に戻ると、店内はちょっと悲惨なことになっていた。レジ横に積んであった本の塔が消え去り、変わりに店内は本の絨毯が出来上がっていた。
「あ、藍沢君。待ってたよぉー」
白井さんの困り果てた声。軍手にタオルで作った即席マスク、三角巾と完全防備姿をしてはいるが、大量すぎる本を前に手を出しあぐねている。
「これはまた、派手にやりましたね」
「久し振りだからかなぁ、参ったねぇ」
苦笑いの白井さん。俺も言葉の返しようが無い。
「さっき、この間本を売りに来た子、ええと赤城さんだっけ?が来てねぇ、本を一冊返して欲しいって言うからさ。返してあげようにも、どれなのか分からなくて。何冊か取り出して見せたんだよ。そこまでは良かったんだけど、積み直すときに失敗しちゃってねぇ」
「こりゃまた、大した数ですね」
「いやぁ、まさかこんなに積み上がってるとはねぇ」
頭をぽりぽりと掻きながら、白井さんは眉をひそめてため息を吐く。そろそろ片付けた方がいいですよ、とはいつも言っていたのだが、まさかこれほどの威力を秘めていたとは。
「まあ、とにかく片付けてしまいましょうよ」
「悪いねぇ、一人じゃどうにも手がつかなくてね」
「いえいえ、仕事です」
俺は外していたエプロンをつけ、袋の中から早速新しいマスクを取り出して装着した。最後にエプロンのポケットに入れている軍手をつければ俺も準備万端だ。
「取りあえず、本をかき集めていきましょうか」
「うん、じゃあ僕が積み上げていくから、次々持ってきてくれる?」
さり気無く楽であろうと思われるポジションを取る白井さん。勿論店長のいう事なので異論はないが、さっき積み上げるのを失敗したとか何とか。次に崩れてきたら見捨てようかな、と言う考えが頭をよぎりつつ、俺は本を集め始めた。
「戻ってくる途中に、赤城さんに会いましたよ」
黙って本を集めるのも詰まらないので、とりあえずそんな話を振ってみる。
「本、返して貰えたの、凄く喜んでいましたよ」
本当は困惑気味ではあったが、まあ、喜んでいたことには違いない。
「そうかい。何でもお兄さんの本らしいねぇ」
「ああ、そうなんですか」
彼女にお兄さんがいたのか。それは初耳だ。
「大切な本、とは言っていましたけど」
「売るつもりの無い本だったらしいねぇ」
「ええ、それは聞きました」
お兄さんの本を勝手に売っちゃったと言う事だろうか。でも普段は仕舞い込んでいると言っていた。
「引越ししたばっかりで、家がごちゃごちゃしているんですかね」
「あ、引越ししてきたんだ」
「この間の食事会で、そんなことを言ってましたよ」
「どっから引越してきたの?」
「ああ、それは聞いている暇が無かったですね」
「ああ、そうだった。ごめん」
白井さんは面目無さそうに言いながら、俺の渡した本を慎重に積み上げていく。先程本をひっくり返した事が、かなり堪えているようだ。
「そういえば、栞の桜、分かりましたよ」
「ああ、あれね。分かったの?」
「御衣黄ですよね」
「正解だよ。僕が五十点って言った意味も分かった?」
「え……と?」
そう言えば肝心のそこを聞いていないじゃないか。桜の名前がわかっただけで満足してしまった。
「……藍沢君。ほんとに調べた?」
懐疑的な視線が痛い。
「えっと、あの……。さっき、赤城さんに……」
結局、その視線に耐えきれず、俺は本当のことをつい口にした。
「なんだぁ、カンニングかい?」
少し呆れたように白井さんはそう言ってため息を吐いた。
「どうしても分からなくって。聞き取り調査を……」
「要は面倒だったんだね。で、どんな花なのか聞かなかったと」
「ま、まあ、この辺じゃ見当たらないって事は」
針の筵とはこういう状態の事を言うのだろう。自業自得過ぎて、申し訳なさそうにしている以外の姿勢も思いつかない。
「やれやれ、学生なのに探究心が足りないねぇ。ダメだよ。何につけても探究心や好奇心てのは大事なんだから」
そう言って、白井さんは片付けの手を止めて本棚のほうに歩いていった。
「ええと、この辺にあったんだけどな。ああ、あった」
そう言って、白井さんが本棚から引っ張り出してきたのは、古臭い植物図鑑だった。
「これの桜のところを見てごらん」
言われるままに、そのページを開く。その中には何種類もの桜の絵が載っていた。写真じゃないところが、いかにも古臭い。その中に御衣黄桜があった。
「ええと、開花は四月の下旬から……。サトザクラ種で、ええと花が……緑色!?」
これは驚きだった。緑色の花が咲く桜なんて、ついぞ見たことが無い。初耳もいいところだった。確かに、図鑑のイラストにも緑色の花が描かれている。
「これは……珍しいですね」
「面白い花だろう?」
僕は正直に頷いた。これは確かに一見の価値ありだ。
「緑なのは最初だけで、徐々にピンクになっていくんだけどねぇ。そこがまた面白いだろう」
「白井さんも詳しいんですね」
「まあ、僕も実物はこの間の押し花でまだ二度目なんだけどね」
「前はどこで見たんですか?」
「あれは島根に行ったときかなぁ。取材でね。綺麗な緑色がずらっと並んでいてねぇ。あれは綺麗だったなぁ」
そのときの風景を思い出すかのように、遠い目をしてしみじみと呟く白井さん。
「島根かぁ。結構遠いですね。あの栞は旅行にでも行ったときに作ったのかな?」
「いや、結構いろんなところで見られるらしいよ。僕は見たことないけれど、この近所でも探せばあるかもね」
「ありがとうございます。勉強になりました」
「いやいやぁ。でも、色々と興味を持つってのは良い事だと思うよ。まあ、一応ほら、人生の先輩としてね……」
そう言って、白井さんはちょっと照れたように笑った。
「さあ、片付けちゃおうか」
「ああ、はい」
俺は図鑑をカウンターの上において、再び本を拾い集め始めた。
最後の一冊を慎重に積み上げ、片付けは一応の終わりを見た。状態は何も改善されていないが、とりあえず店内は元通りになった。
白井さんは「それじゃ、後はよろしく」と言って再び奥の部屋に引っ込んでしまった。カウンターに置き去りにされた図鑑を元の位置に差し込みながら、ふと先ほどの白井さんを思い出す。
確かこの辺にと言いながら、一直線に本棚に向かった。普段は俺に任せっきりにして姿を見せないが、やはりここは白井さんの本屋なのだと感じる。そして、今、俺はそのことに対して悔しく感じている。
バイトを始めて二年。俺はこの小さな店にある本をどれぐらい把握しているのだろうか。読書好き、本を良く読むと言いながら、一番近くにある宝の山を探そうともしていなかったのではないか。店員として、あるいは一人の本好きとして、穴があったら入りたい気分になった。
確かに白井さんはいつも俺を褒めてくれる。いてくれるから助かる、任せられる、と。しかし、実際はどうだろう。本の買取、レジの精算等は結局白井さんがやっている。本の在り処を知っているのも白井さん。俺ができる事と言えば、レジ前の椅子に座って文庫本を読むことと、白井さんの為に茶を入れることぐらいか。
考えた末にやって来たのは無力感だった。座って本を読むことや茶を入れることぐらい、高校生でもできる。つまり、俺の代わりなんてのはいくらでもいるという事だ。気づいてしまった事実が、どうしようもない無力感を俺に与えてくれる。
だが、その事実を受け入れることを心が拒否した。
俺はこの店が好きだ。ゆったりと時間が流れる感じや、古本の匂い、白井さんの人柄も含めて。
この店を本当に任せて貰うために、俺は何かを始めなければいけなかった。
いつも本屋でやっているように、端から本棚をずっと見ていく。殆どがハードカバーで、背表紙も色あせているような本が多い。小説、エッセイ、研究書、辞典、図鑑。大型書店にも引けをとらないような、種類の多さ。ただ、ある程度の棲み分けがされているだけで、本棚はやはり雑然としている。
まずはここの整理をしてみよう。そうすれば、どんな本がこの店にあるのかも見えてくるはずだ。
その結果、どうなるかは分からない。ただ、何かをしたかったのだ。