第六話
黒木さんが戯れに入れた茶々のせいで、話が中途半端になってしまった。せっかく色々と話をするチャンスだったのに。よくよく考えてみれば、俺は赤城さんの携帯番号とか知らないのだ。先日、本を売りに来た際に記入して貰った買取票に書かれていたのは自宅の番号だ。単に話がしたいだけなのにこの伝票を利用するのは如何なものか。
分からないものは仕方ないので、俺は諦めて本の続きを読むことにした。どうしても連絡を取りたければ、茜ちゃんなら番号を知っているだろう。それに、彼女はまたきっと来てくれる、と言う予感めいたものを俺は感じていた。
そういえば、栞にされていた桜の事も赤城さんなら知っているはずだ。また機会があれば、そのときに話を聞いてみよう。
そう思いつつ本を開いて読書を再会する。しかし、静かな店内はそう長い間続かなかった。
十分と経たずして、再び入口のドアは開かれた。
「やあ」
幾分、沈んだ声でそう言いながら明良が入ってきた。元気がない明良と言うのは、俺の記憶の中には存在しない。それ故に、かなり不気味ではある。
「いらっしゃい、随分おとなしいな。珍しい」
「昨日はごめんよ。あんなことになるとは……」
「いいよ。気にしてないし。さっき赤城さんも来てたぞ。元気そうだったけどな」
「ああ、そう。それは良かった」
余計な茶々を入れることなく、と小さく安堵のため息をつく明良。いつもの脳天気さが無いと、何となく今すぐにでも死ぬんじゃないかと思ってしまう。
「茜ちゃんが落ち込んでいるんだ……」
「赤城さんのことで?」
「うん」
昨日の様子からすると、色々事情を知っているみたいだったけど。
「何があったんだろうな」
「わからないよ。僕も碧ちゃんとは昨日が初対面なんだ」
それなのに昨日の段階で既に碧ちゃん呼ばわり。明良のこういう垣根の無さは凄いと思う。
「そうなのか。それじゃ、茜ちゃんに聞いてみるしかないな」
俺の言葉に、明良はまた一つため息をついた。
「僕も色々聞こうとしたんだけどね。話してくれないんだ。あんまりぺらぺら言うようなことじゃないって」
「結構何でも喋ってる仲っぽいのにな」
俺の言葉に、明良は困惑気味に苦笑いした。
「僕もこんなこと初めてなんだよね。ただ、小説の話をしていた時の碧ちゃんは本当に素敵だったってさ。だから、早く戻って欲しいんだってさ」
「そうか。事情は人それぞれだなぁ」
「そりゃ、分かってるんだけどね……」
そこでまたため息。ため息を一回着くと、幸せが一つ逃げると言う。さしずめ今の明良は不幸せの階段を転がり落ちる青年と言ったところか。
「でも、やっぱりすっきりと納得はできないな」
「やっぱり、そう思うかい?」
俺が頷くと、明良は少しほっとしたように笑顔を見せた。
「茜ちゃんと話していて、僕もさっぱり納得行かなくてね」
どうやら元気の無い原因は、茜ちゃんが心配だっただけではないらしい。明良なりに事態を収拾させる糸口などを模索していたのに、結局肝心な部分が抜けているから不満だったわけだ。相手が茜ちゃんであるからこそ、どういう事情であれ、頑なになられるのが辛いという事なのかもしれない。
「うん、やっぱり説明してくれるように言って見るよ」
「まあ頑張れ」
「悪いね、辛気臭い話ばっかりしちゃって」
「いいよ、別に」
珍しい物も見れたし、と言うのは心の声だ。
「ありがとう」
そう言って明良は出て行った。少し、顔つきが明るくなっていたような気がした。まあ、あいつの気が晴れたのなら、何よりだろう。元気なときは煩いけど、ああして静かなのを見てしまうと、やはりいつも通りの明良の方がましだな、と思う。
「それじゃ、どうもお邪魔しましたー」
元気の良い挨拶を残して、黒木さんが帰って行った。かれこれ二時間ばかり、いつもに比べると随分ゆっくりしていったものだ。太陽も既に西に傾いている。
「新作の打ち合わせですか?」
黒木さんの姿が見えなくなってから、俺は白井さんに聞いてみた。
「あ、ああ、まあね」
珍しく歯切れの悪い答え方。白井さんは間延びしているようで、イエスとノーは意外とはっきりしている。と言うか、態度でわかるので不自然さが自然と際立つ。
「もしかして、原稿サボっていました?」
「ああ、いや、そういうのじゃないんだけどね」
けど、何なんだろうか。まあ、なんでも言い合うと決めた仲ではないので、内緒ごとの一つや二つはあっても全然構わないのだが。執筆をサボっていたわけではない事にホッとした。これで執筆もしていなかったら、さすがの俺も怒っていたかもしれない。
それから何日か後のこと。俺は店番を白井さんにお願いして、店の近所のコンビニに来ていた。いつも持っているマスクを忘れてきてしまったのだ。洗濯して干しっぱなしにしていたのが失敗だった。取りに帰ると時間もかかるので、近所のコンビニで買うことにした。まあ、スペアがあった方が便利だし。
と言うか、あんな埃っぽい店にスペアのマスクが無いのはどういうわけか。
コンビニにもすっかりクリスマスが来ていた。店内にはちっちゃなツリー。窓ガラスにはトナカイの絵。もう少ししたらお菓子のブーツとか並ぶんだろうな。
久しぶりに外に出た。冬だから当然寒いのだが、今日は幸いにも快晴で散歩にはもってこいの日だった。白井さんには悪いと思いつつ、俺はのんびり歩いて、ついでにちょっと雑誌なども立ち読みして、気がつくと小一時間ほど過ぎていた。さすがにのんびりしすぎたな。そう思いつつ、店への帰り道を急いでいると、向かいから赤城さんが歩いてくるのが見えた。
「やあ」
「あ、こんにちは」
俺が挨拶をすると、赤城さんも立ち止まってぺこりと会釈をしてくれた。
「この間は黒木さんがごめんね。悪い人じゃないんだけど」
「あ、いえ。私のほうこそ逃げ出しちゃって。失礼なことをしてしまいました。何というか、軽くパニックに……」
さもありなん。黒木さんがあまりに無遠慮なのだと思う。
「気にしないで。あの人はちょっと特殊なんだ」
「あ、はい……。でも、藍沢さんは嫌な気分しなかったですか?」
「俺?なんで?」
「あ、いえ……していないなら……良いんです」
少し曖昧な返事。軽い落胆が見えるのは気のせいか。
ふと見ると、赤城さんは胸元に紙袋を一つ抱えている。うちの店の袋だった。
「あれ、お買い上げ?ありがとうございます」
俺がそういうと、赤城さんは慌ててパタパタと手を振った。
「い、いえ、違うんです」
「というと?」
「実は……、これ前に買い取って貰った本なんです」
そう言って、赤城さんは中身を見せてくれた。それは、一つだけ新しかった、あの園芸の本だった。
「これ、売るはずじゃなかったもので、その、お父さんが間違えて入れてたみたいで。私も、今まで気付かなくって。普段は大切にしまっているので」
「貴重な本なんだ?」
そうは見えない。少し年代が古くはあるが、よくある園芸の本だったと記憶している。
「はい。私にとっては……。でも、無理を言ってしまいました……」
なんとも申し訳無さそうな赤城さん。恐らく白井さんが気軽に渡したのだろう。いいよ、いいよ、もって行ってとか何とか言って。
「お金、返しますって言ったんですけど、計算が面倒だからいいって」
やはりそうか。まあ、店長が言うならバイトの俺がどうこう言えるものじゃないけど。
「まあ、店長がいいって言うならいいんじゃない?」
俺としてはこう言うしかない訳で。赤城さんも複雑な顔をしつつ、「はあ」と呟くように言った。
「そういえばさ、前に返した栞」
「はい?」
「桜の栞さ、あれなんていう桜?」
「あ、あれは御衣黄と言います。御意の御に衣、それから黄色の黄で御衣黄です」
随分と物々しい名前だ。
「珍しい桜なの?」
「そ、そうですね、この辺じゃ見かけないかもしれないです」
「へえ、何でその栞を赤城さんが?」
「え……、あ、頂き物なんです」
何となく、そう言った赤城さんの表情に影が出来たような気がした。
「そうなんだ。うちの店長が良い栞だって言ってたよ」
「そうですか。ありがとうございますとお伝えください」
途端に影は消えて、赤城さんは嬉しいような、照れくさいような顔をしてみせた。ふと、この間聞きそびれたことを思い出し、俺が口を開こうとした瞬間、携帯電話が音を立てた。
「あ、ちょっとゴメンね」
赤城さんにそう断って携帯電話を引っ張り出すと店からだった。
「もしもし」
「あ、藍沢くーん。まだ帰らない?」
白井さんの声は明らかに困っていた。どうしたんだろう、突然店が繁盛して手が足りなくなったかな?
「え、あ、もう帰りますよ」
「悪いんだけど、ちょっと急いで帰ってきて〜」
「はーい」
電話は切れた。ちょっと慌てているような感じだったな。話はしたいけど仕方が無い。
「ごめん、店に戻らなきゃ」
「あ、お引止めしましたか?ごめんなさい」
「いや、声を掛けたのはこっちだし。栞の話が聞けてよかった。店長に宿題を出されてたんだ。その栞は何の花でしょうって」
「あ、カンニングですね?」
ふざけて咎めるような口ぶりになる赤城さん。
「いやいや、聞き取り調査……ってことで」
「はい、分かりました」
「それじゃあ、また、店に来て」
「はい、是非」
別れ際に見せてくれた笑顔をお土産に、俺は店への帰り道を急いだ。