第三話
「ふうん、こいつはなかなかいい栞だねぇ」
本を片付けた後、俺は白井さんを呼んで、さっきの栞を見せた。和室のほうでお茶を飲みながら、白井さんは興味深そうに栞を見ている。
「たまにあるんだ、こういうのは」
「そうなんですか」
「ここに持ってくるような本ってのは、大抵読まれなくなった本だからね。持ってくるときに中身なんかチェックしないんだろうね」
「へえ」
「まあ、殆どの人は取りに来ないけどね」
「そうなんですか」
そうそう、と頷きながら白井さんは俺に栞を返した。
「親父の頃なんかは、たまに現金が出て来たらしいよ」
「現金?」
「ほら、へそくりを本に挟んで隠すとか、そんな話聞いたことない?」
「ああ、ありましたねぇ」
昔の漫画なんかでそんな場面を見たことがあるような気がする。
「そう言うのをやってね、忘れちゃったりするんだろうねぇ」
「どうするんですか?」
「昔は今みたいに買取票に電話番号とか書いて貰わなかったらしくてね。連絡の取りようが無かったらしい」
そう言いながら苦笑いを浮かべる白井さん。その苦笑いが金の行く先を物語っている。
「まあ、それも大事なものなら取りに来るだろう。とりあえず置いといてよ」
「分かりました」
俺は栞を受け取って、とりあえずレジと横の文具立ての間に挟んでおいた。
「あ、気になるなら電話で連絡してみても良いよ。買取票に電話番号あったでしょう」
「え、僕がですか?」
「そりゃ、君はここの店員だし、不思議な事はないと思うけど」
そう言いながら白井さんは悪戯っ子のように含みのある笑顔を見せた。
「来週になって、来ないようなら連絡してみますよ」
「割と可愛い子だったね」
「白井さん!!」
全く、何を言い出すかと思えば。まあ、確かに可愛いとは思ったけれど。そんな中途半端な状態で荒げた声など白井さんの心に響くわけもなく、相変わらず湯呑を持ってにやにやしている白井さん。
「若いねぇ、藍沢君。はっはっはっはっ」
わざとらしい高笑いが、何とも言えず悔しい。
「そういえば、君はその花が何か知ってる?」
唐突に話を変える白井さん。多少面喰いつつ、栞を改めて眺めて見る。
「え、桜でしょう?」
「それじゃあ、五十点かな」
悪戯っぽく笑ってそう言ってから、白井さんは残りのお茶を飲み干して立ち上がった。
「さて、仕事の続きでもしようかなぁ」
「あ、ちょっと待ってくださいよ。五十点てどういうことですか」
「まあ、少し考えてごらん。暇潰しにはなると思うよ」
「考えて分かるんですか?」
「ここは腐っても本屋だよ。分からなかったら調べてみたまえ」
冗談めかしてそういいながら、白井さんは和室を出て行った。やれやれ、ああなるとなかなか教えてくれない。調べて見たまえとか簡単に言うってくれたものだ。
そもそも買い取った本を端から置いて行っているだけで、ジャンル分けなんて一切されていない。どこに置きますか、と俺が白井さんに聞くと、決まって適当に置いといてという答えが飛んでくる。おかげで、どこにどんな本があるのかさっぱり分からない。小さい店なのに意外と本の量も多いから実に混沌としているのだ。
言われた通りに調べようかと思って立ち上がったけど、すぐにうんざりして止めた。また今度にしよう。俺は再び読みかけの本を手にとって開いた。
そして夕方六時。満月堂の本日の営業は終了だ。入り口のドアに鍵をかけ、カーテンを引く。ショーウィンドウの電気を消したら、とりあえずの作業は終わりだ。
「白井さ〜ん。終わりましたよ」
「はいはい、お疲れ様でした。夕飯、食べていくだろう?」
「……またですか」
それは即ち、俺に作れと言っている。まあ、一人で食べるより面白いから良いのだけど、男に作ってもらって嬉しいんだろうか。相手を探せばいいのに。
「カレーで良いですか」
「ああ、そりゃ助かるよ」
何日か食い繋ぐつもりらしい。
俺はエプロンを外し、和室の隣にある台所に入った。腕まくりをして、埃にまみれた手と顔をしっかりと洗う。
「ああ、そういえば」
台所用のエプロンをつけながら、俺は白井さんに話しかけた。白井さんはレジの片づけをしている。と言っても、今日は買取が一件あっただけだけど。
「うん」
「今週の土曜日、お休みを頂いても良いですか」
「ああ、もちろん構わないとも。随分急だね」
「ええ、さっき友達が来てどうしてもって言うんで」
「いいよ、いいよ。楽しんできてよ」
そういう白井さんの声は、妙に嬉しそうと言うか安心したような感じだった。俺を店に縛り付けているような気分になっていたんだろうか。ある程度は休みを貰った方が、白井さんの心の安心に繋がるのかもしれないな。変な雇い主。そう思うと、つい笑いがこみ上げてきた。
「どうかした?」
「いえ、何も」
「そう言えば、藍沢君は来年四回生だよねぇ」
ふと思いついたように白井さんがそういった。
「そうですよ」
「卒論は書けそう?」
「ええ、まあ何とかなるでしょう」
「はは。藍沢君らしいね。その後は?」
「つまり、卒業後の進路ですか?うーん、具体的にはまだ何も……」
「のんびりしてるねぇ。大丈夫かい?早い子は三回生からかかってるって聞くよ?」
確かに、白井さんの言うとおり、ちらほらと就職課の建物に入っていく知り合いを見かけたことがある。
「なんか、イメージが湧かないんですよねぇ」
「でも、いつまでもバイトって分けにもいかないだろう?」
「そうですねぇ」
俺はそれ以上何も言えず、白井さんもそれ以上何も言わなかった。レジのお金は正確に合っていた。
夕飯を食べているときに、桜のことを聞かれたので、俺は適当にはぐらかした。白井さんはちょっと残念そうだった。
十時を廻る頃になって、俺はやっと自宅に戻ってきた。
1Kの狭いアパート。ここが、俺の城と言うわけだ。
「ただいま」
言いながら電気をつける。返事があるはずも無い。半日以上空けていた部屋の中は冷えきっていた。俺は何はともあれ風呂に入ることにした。
鞄を置いて着替えを用意し、風呂の湯を溜め始める。溜まるまでに十分弱。この近代化の世の中にあって、追い炊きすら出来ない貧弱な設備の風呂だが、それを言い始めたら贅沢と言うものだ。
読みきれなかった文庫本を鞄の中から引っ張り出す。風呂のお供に決定。長風呂は一人暮らしに許された数少ない贅沢。これを満喫することはまさに至福のひと時と言って過言無い。風呂で読むと本が皺になると嫌う人がいるけど、俺はあんまり気にしない。本を読むのは好きだけど、本その物の外観とかにはあんまり興味が湧かないのだ。読めればいい、とすら思う。
浴槽に体を浸すと、冷えた指先にゆっくりと血液が流れていく。それがたまらなく幸せだった。
限界まで体を湯に浸しながら、俺が読書を楽しんでいると、携帯電話の着メロが風呂場の外から流れてきた。
全く持って万死に値する愚行だ。そう思いつつ放置。暫くすると、電話は鳴り止んだ。
うむうむ、それで良い。
しかし、五分と経たずに再び流れ始める。後十ページぐらいで読み終わるので、何とか待って頂きたいなぁ。と思いつつ、二回目も放置。そして三回目。なにやら緊急の要件なのだろうか。俺は諦めることにした。後、七ページだったのになぁ。
名残を惜しみつつ風呂場から出たところで電話は切れた。
「間が悪いな」
呟きつつ、体を拭いて着替えを済ませてから洗面所を出る。
渇ききらない髪を拭きながら、携帯電話の着信履歴を見ると明良からだった。ああ、そういえばまだ連絡してなかった。悪いことをしたな。
「もしもーし」
「あ、裕也!?なんで連絡をくれないのさ」
「悪いな、さっき帰ってきたところなんだよ」
嘘だが。正直に風呂に入っていたとか言うと怒りそうだし。
「まあ、いいけどさ。で、どうだったの?」
「ああ、構わないってさ」
俺がそう言うと、電話の向こうから安堵のため息が聞こえてきた。
「あー、良かった。助かるよ」
「おう。で、何時にどこだ?」
「えとね、駅前に六時で」
「分かった」
その後、どうでもいい話で少し盛り上がって、電話を切ったら十一時を廻っていた。あいつは話しが上手いせいか、喋りだすと俺も止まらなくなる。まあ、楽しいからいいんだけど、この電話、俺からかけたよなぁ。
反省しつつ、携帯電話を充電器に戻し、それから読み終わりかけの小説を読んでしまう事にした。まあ、後七ページだから、すぐだけど。