第十七話 完結
冬が過ぎて三月。春の訪れを告げるように、日ごとに暖かさが増していく。近所の梅の蕾もそろそろ綻びそうだ。
俺は相変わらず満月堂のカウンターにいる。けど、今までとはちょっとだけ状況が違っている。この間、白井さんに正式に雇ってくれと話をした。
「藍沢君が望むなら、僕は大歓迎だよ。でも、本当に良いのかい?」
白井さんは心配そうにそう俺に尋ねた。
俺が本気だと分かると、それじゃあ色々覚えてもらうからね、と言って嬉しそうに笑った。一昨日は本に値段をつける方法を教えて貰った。今日はその時のメモ書きを見ながら、無造作に積みあがっている本に値段をつけて整理するという作業をしている。白井さんが延々と溜め込んでいたおかげで、暫くはこの作業に忙殺されそうだ。長時間マスクをつけての作業はなかなかに辛かったが、自分で値段設定してみるというのはなかなか楽しい。
「こんにちは」
涼やかな声でそう言いながら入ってきたのは赤城さんだった。
「いらっしゃい」
俺はマスクを外して出迎えた。
「お忙しいですか?」
「まあね。オーナーが仕事をたっぷり溜めてくれていたから」
「先生はお仕事中ですか?」
あれから、ちょくちょく赤城さんは遊びに来てくれる。吃驚させようと思ってある日、月夜満が白井さんだと言うことを話したら、驚きのあまり気絶してしまったのにはこっちが吃驚させられた。
「うん、籠ってるけど、なんか用事?」
「いえ、別にそういうわけではないですけど。差し入れを持ってきたものですから」
そう言って、赤城さんは手に持っていた包みをこっちに差し出して見せた。和菓子屋の包みだった。
「美味しそうなお饅頭を見つけたんです。藍沢さんのもありますよ」
「へぇ、ありがとう。呼ぼうか。俺も呼ばれたいし。ちょっと休憩」
「あ、でも忙しいんじゃ?」
「大丈夫だと思うけど。……白井さーん」
俺は和室の奥に向かって大声で白井さんを呼んだ。ガタン、ゴトンと何かがひっくり返るような音が聞こえてきた。
「寝てたみたいだ」
「お疲れなんですね」
確かにそうには違いないだろう。けど、営業中に寝るのはやめて貰いたい。買取はまだ教えて貰ってないから、白井さんに頼むしかないのだから。
「まあ良い、上がって。お茶入れるから」
「あ、はい、失礼します」
赤城さんは靴を脱いで和室に上がった。俺もエプロンとマスクを外して和室に上がり、キッチンのほうで手を洗う。
「なんだい?……あっ」
白井さんが和室に入ってきて、それから慌てて出て行った。言うまでもなく、赤城さんの姿を見たからだ。赤城さんはおかしそうに体を震わせ、声を殺して笑っていた。客だったときには無関心だったくせに、自分のファンだと分かった途端に身だしなみに気を使おうとしだした。立派に手遅れだと思うけど。
「全く、何をやっているんだか」
貰った饅頭を皿に移して、ちゃぶ台の上に置きながら、俺はため息混じりにそう言った。
それから座って、三人分の湯飲みにお茶を入れる。
「そう言えば、小説の進み具合はどう?」
「自分なりには結構順調です」
「どんな話?」
「……それは、書きあがるまで内緒です。でも、実話を基にした話です」
「へえ、楽しみだね」
俺がそういうと、赤城さんはふと心配そうな表情を浮かべた。
「あの、読んでも笑ったり怒ったり引いたりしないで下さいね」
「もちろん。なんで?」
「それは……いえ、いいです」
言いかけて止められると余計に気になる。俺がもう一度尋ねようとしたとき、風が入り口のドアを強く揺らした。
「びっくりした……」
「春一番、かな?」
「そっか、もう春なんですね」
赤城さんがしみじみと呟いた。
もうすぐ春休みが終わる。
赤城さんの小説は、どう言うのなんだろう。実話を元にしたといっていたけど、俺の出番もあるんだろうか。締め切りは四月らしいから、もう少しすれば読ませて貰えるかな?
そう言えば、明良の奴もいよいよスーツ姿で走り回るらしい。気楽に過ごしていたようで、下準備とかは着々と勧めていたようだ。
茜ちゃんはクッキングスクールのようなところに行って、腕を磨き直すといっていた。
黒木さんは二月に無事御懐妊なさった。ギリギリまでは働くといって旦那さんを冷や冷やさせているらしいけど。
そして俺は学生生活最後の年にして、ようやく先のことを見据え始めたという気がする。遅いか早いかは知らないけれど、これが俺のペースなのだろう。
それと……満月堂の店員以外に、一つ目標も出来た。
「赤城さん」
「はい?」
赤城さんは少し緊張した面持ちでこちらを向いた。
「いつか……」
「いやー、ごめんごめん。恥ずかしい格好を見せちゃって」
俺の言葉は、こざっぱりとした格好に着替えてきた白井さんの乱入によって遮られた。
「……あれ、ひょっとしてお邪魔だったかなぁ」
申し訳無さそうに後ろ頭をかく白井さん。
ぷっと赤城さんが吹き出した。つられて俺も笑ってしまった。最後に白井さんが笑い出すと、なんだか緊張した空気はどこかへ言ってしまった。
「さっきの続き、いつか聞かせてくださいね……」
赤城さんは顔を赤らめながら、そっと俺に耳打ちした。
というわけで、完結でございます。
拙い文章でしたが、お付き合いいただきまして、ありがとうございました。
感想、ご指摘、その他なんでもご意見いただけたら嬉しいです。