第十五話
翌日、白井さんは元気を取り戻していた。和室に座って、湯飲みを抱えている姿は一緒だけど、その雰囲気や顔つきは、ここ数日とは打って変わって明るい。
「今日は元気なんですね」
「ああ、色々と悩みが取れてね。藍沢君もありがとう」
そういう白井さんの口調はすっかりいつもどおりだ。
「そういえば、黒木さんが昨日凄い勢いで店の方に歩いていくのを見かけましたけど、それも何か関係が?」
「ああ、まあね。うーん、まあもう隠すようなことでもないかな」
そう言って、白井さんはここ数日のことを話し始めた。
「そもそもきっかけは、彼女が原稿を取りに来たときのことなんだ。なんだか悩んでいるようだったから、聞いてみたんだ」
「ああ、それで長かったんですね、いつもより」
「そうそう、いまいち要領を得ないから、じゃあ今度ゆっくりって言ったら、本当に一日空けてくれって言われてさ」
「で、お店を休んだと。俺に電話をかけてきた日ですね?」
「そうなんだよ。そしたら、まあ、簡単に言うと家庭のことで悩んでいるって言ってね」
言いながら、白井さんはお茶を一口。
「まあ、旦那さんが子供が欲しいって言ったらしいんだよ。そうすると、いずれは仕事を休まなきゃならないからねぇ。どうも彼女はそれが嫌みたいでねぇ」
「ははあ、キャリアウーマンですね」
「まあ、それだけじゃないんだけどね。彼女も色々と苦労して今の立場にいるからねぇ」
「で、白井さんはなんて言ったんですか?」
「旦那さんが望んでいるなら、いいんじゃないのって。高齢出産は辛いらしいよって、言っちゃったんだよねぇ。変わりに来る担当さんとも仲良くしとくからって、まあ最終的にはこれが余計だったんだけど」
「というと?」
「つまり、彼女は自分無しで会社が動くのが嫌だったんだろうね。こっちは親切で言ったつもりだったんだけど、ものの見事に逆効果でねぇ。物凄く怒っちゃって。まあ、色々ときついことを言われちゃってね」
きついことの詳細はあまり言いたくないようだった。まあ、あれだけ呆けている姿を見せられると、わざわざ聞かなくとも相当に堪えたのだろうということは分かる。それと、あの晩、酔っぱらっていた黒木さんが言っていたことも、すべて理解できた。
「だけど、昨日わざわざ謝りに来てくれてねぇ。カッとなって言い過ぎたって。彼女、泣いちゃってね。とんでもない事したって。ただまあ、僕も向こうの事情を知らずに無神経なことを言っちゃったわけだし、それでチャラにしようってね」
実に白井さんらしい終わらせ方だ。白井さんは黒木さんが好きなのだろう。異性としてではなく、どっちかと言うと妹とか娘とか、そういうような扱いをしているような気がする。だからこそ、許せてしまうのだろう。何となく、そう思った。
「そうそう、藍沢君にもゴメンねって言ってたよ。絡んじゃってって」
「ああ、はい。分かりました。気にしなくていいのに」
「まあ、旦那さんとも話し合ってやっぱり子供は欲しいみたいなので、考えてみるって言ってたなぁ」
「黒木さんは、子供嫌いなんですか?」
「とんでもない。姪っ子を可愛がりすぎて、甘やかし禁止令が出されたほどの子供好きだよ。だから、本人も欲しいんじゃないかな。板ばさみって奴だねぇ」
「ははあ、大変なんですね」
「うん、何とかして上げられると、良いんだけどねぇ」
白井さんはそういった後で、残っていたお茶を飲み干した。
「さてと、それじゃあ今日から本格復帰ってことで、遅れた分を取り戻さなくちゃ」
一つ伸びをしてから白井さんはそう言って立ち上がった。
「何かあったら呼んでよ」
「はい、分かりました」
仕事場へ歩いていく白井さんを見ながら、俺はなんだかほっとした。
静かになった店の中で、俺は一つ息をついた。ここの所、妙に色々とイベントがあったような気がする。しばらくは静かに過ごせるといいな。そんな事を考えた矢先だった。
「ハロー!!マイ、フレンド」
珍妙な英語で挨拶をしながら店に入ってきたのは明良だった。いつもどおりのラフな格好で、何故かサングラスをしていた。
「元気?今日もいい天気だよね」
サングラスを外して明良は俺に向かってウインクした。こんなに気持ちの悪いものを見たのは久しぶりだ。
「確かにそうだが、俺はあんまり元気じゃなくなった。帰っていいぞ」
「いやいや、来たばっかりだし」
「店で騒がれると、他のお客さんのご迷惑なのです」
「いないじゃん」
それはそうなのだが、せっかくしずかに過ごしたいと思った矢先に、知り合いの中でも煩いナンバーワンに出会ってしまったのだ。ウンザリもしようというもの。
「用は何だ?」
「うん、実は暇なんだ」
「俺は忙しいんだ。帰れ」
にべもなくそう言って、俺は文庫本に目を戻した。
「実は用事があるんだよ」
「帰れ」
「クリスマス・イブは暇でしょ」
「……その決め付け口調が不愉快だ。黙秘する」
「茜ちゃんがね、四人で食事しようよって」
人の話を聞かず、一方的に用件を伝えてくる明良。
「碧ちゃんはオッケーだって。裕也もオッケーだよね」
まあ、どうせ暇だ。一人で過ごすよりは多少賑やかなほうがいいかもしれない。
「わかった。何時にどこだ?」
「六時に駅の北側」
「つい最近、同じ会話をした記憶がある」
「デジャヴュだね。実は僕もそう思ったんだ」
俺と明良はふと顔を見合わせてそれから同時に首を捻ったのだった。