第十一話
片付けをして、白井さんの家を出たのは九時過ぎ。勤務時間はそれほど長いはず無いのだが、たまにある時間外労働が長いよなぁ。まあ、結果として食費等助かっているわけだし、家に誰か待っているわけでもない。家でやりたいと思うほどの趣味もないので構わないのだが。
この時間になると、商店街も飲み屋を除いて軒並みシャッターが閉まっている。人通りも殆ど無い。昼間に比べて冷え込みも激しくなってきて、先程まで暖かい所にいた体に寒さが突き刺さってきた。息が白い雲のように空中を漂う。
「うー、さむさむ」
こんな日は、早く帰って温かい風呂に入りたいものだ。
そんなことを考えながらの帰り道、クソ寒い商店街の居酒屋の前で見知った人が座り込んでいた。いつもはかっちりしているスーツもどこかだらしなく、髪の毛もバサバサ。街灯に照らされた顔は力なく、目付きもとろんとしていた。
正直、知り合いでなければ関わりたくないレベルだったが、知り合いなので勇気を振り絞って声をかけよう。
「黒木さん?」
「ふぇっ?」
奇妙な声を上げながら、黒木さんが顔を上げた。
「あらぁ、勤労少年じゃなぁい」
そう言ってケタケタと笑う黒木さん。顔が真っ赤でアルコール臭い。
「随分ご機嫌ですね」
「ご機嫌なもんですか。ばぁか」
いつものはきはきとした口調ではなく、酔っ払い特有の絡みつくような口調で黒木さんは俺に怒鳴った。テンションも少し妙な方向に行っているみたいだ。
「とりあえず、そんな所で座り込んでいたら、店に迷惑ですよ」
「ふーんだ。良いのよこんな店。私のこと酔っ払い扱いしやがってさぁ。ムカツクぅ」
店を見上げるようにしてあっかんベーとして見せる黒木さん。
この姿を見る限りでも、お店の人たちの判断は限りなく全うで、ついでに言えば正鵠を射ている。完全にこの人は酔っ払いだ。
「とにかく、どこか移動した方がいいですよ。この気温だと死ねますって」
「いいのよぉ、もう私なんて良いのぉ」
「良くないですってば」
駄々をこね始めた黒木さんの腕を持って、俺は無理矢理立ち上がらせようとした。見た目は細身なのだが、力を抜いているせいかとにかく重い。
「失礼しますよ」
仕方なく、腋の下に頭を突っ込んで、無理矢理担ぎ上げた。
「はーなーせー」
「暴れないで下さいって。マジで危ないから」
全く、この人は本当に俺より年上で、バリバリの腕利き編集さんなんだろうか。おまけに既婚者だと言うんだから、全く面白い。いや、面白くはない。
「さあ、動きますよ」
「はぁい」
むくれたようにそう言いながら、一歩踏み出した途端に膝から崩れようとする黒木さん。たまらず俺も黒木さんごとその場にひっくり返る。
「うおお、こ、腰ぃ……」
今のはかなり腰に来た。古本の詰まった段ボール箱を初めて持ち上げた時以来の衝撃だ。当の黒木さんは、こけた拍子に寝ころんで、そのままケタケタと笑っていた。
「しっかりしてくださいよ」
「無理ぃ」
無理じゃなくて。
「参ったなぁ……」
「ふはは、私の勝ちだぁ」
ほんとに、捨てて帰ってやろうか。でも、それで死なれちゃ寝覚めが悪い。肩で支えきれないとなると、背負うしかない。寝ている黒木さんを無理矢理起こし、何とか背負おうと四苦八苦してみる。運転免許講習か何かで、ぐったりしている人を背負う時の方法を習ったような気がする。その方法を何とか思い出しながら五分ほど格闘して、俺はどうにか黒木さんを背負う事に成功した。背負ってみると、意外と軽い黒木さん。支え方って大事なんだな。
「おー、らっくちん」
「そいつは何よりでございますな」
そんな嫌味も今の黒木さんには通用すまい。俺は黒木さんを背負って、再び歩き始めた。
「どこいくのぉ」
「そりゃ、とりあえずは駅ですよ。あそこなら電車もタクシーもあるし」
「うーん、帰りたくなぁい」
何を言っているんだか。俺は酔っ払いの戯言を適当に流して、そのまま駅のほうへと足を進めた。
「全く、ご家族の方が心配しますよ」
「してないよぉ」
「旦那さんいるんでしょ」
「いるよ。でも、心配なんてしてなぁい」
一言返事をするたびにケタケタと笑う黒木さん。
「子供さんとか」
「いないもぉん」
お子さんいなかったのか。悪いことを言ってしまったな。
「いないのよ……」
一言返事するたびに、ケタケタと笑っていた黒木さんが急に静かになった。
「……つもこいつも」
「はい?」
「どいつもこいつも……子供、子供ってさぁ。そんなに生まない女はダメ?」
「は?」
「子供生まないとぉ、ダメですかぁ!?」
急に腕と足に力がこもる。首に腕を巻きつけられ、耳元で叫ばれた。どうやら、子供の話題は地雷だったらしい。
「黒木さん、苦しい……」
「勤労少年!!あんた、この後用事あるの?」
「いや、あの……苦しい」
「ちょっと付き合いなさいよぉ」
「でも、明日も朝から仕事で、ちょ、ほんとに苦しいですって」
細い腕は簡単に俺の首に食い込んできた。
「そういう台詞はサラリーマンになってから吐きなさぁい。別に飲み直すって言ってるんじゃないのよ。私の話を聞けっての」
いいえを言う余地は無さそうだった。なぜなら、後少し力を籠められたら、俺は多分崩れ落ちるだろうから。やれやれ、姿勢を間違えたな。
「わかりました、聞きます。でも、寒いから路上は止めましょう。それと、首の力緩めて」
そこまで言ってやっと、俺の首に食い込んでいた腕が緩んでくれた。ちょっとだけ、命の危機を感じてしまったじゃないか。
「私だってさ、欲しくないワケじゃないのよぅ」
「はあ」
「でもさ、何て言うか、一年も空白作れないでしょぉ? するってーとさ、明け渡す羽目になるんじゃん?」
話し始めると、黒木さんはとめどなく喋り続けた。
「そうすっとさ、戻って来れるとするわねぇ? ところが、場所がありませぇん。ってなるわけよ」
「そ、そうなんですか……」
「そうよぉ。だって、ねぇ。そうなるでしょうよ。一年も経つんだもん」
つまり、出産や育児で休んでいる間に、自分の帰り場所がなくなると言いたいわけだ。
「でも、法律とかで……」
「んなもん当てになるかーい。若造め、この若造めぇ」
いや、だから苦しいってば。
「そりゃ、あんたらは仕込むだけだもんね。大体、あのとんちき……」
そこまで言ったとき、黒木さんの言葉を遮るように、黒木さんの持っているバッグの中から電子音が響いてきた。
「何よ?」
ぶつぶつ言いながら、黒木さんは背負われたままで鞄の中から携帯電話を引っ張り出した。器用だな、と思うがバランスが崩れるのでちょっと怖い。折りたたみ式の赤い奴で、裏側にはプリクラが一枚張られていた。良く見えないけど、男性と撮った写真みたいだった。旦那様だろうか。
「何よぉ、今日は帰らないって……。急にそんな殊勝な態度をとったって…………うん、分かった」
テンションが急落するのに五分とかからなかった。恐らく相手は旦那さんだろう。
「勤労少年。駅まで送って。んで、私をタクシーに放り込んで」
それぐらいならお安い御用だ。俺は快く承諾した。
「今日は自分で店番するよ」
白井さんがそんなことを言い出したのは、その日の昼過ぎのことだった。本棚の物色をしながら、のんびりと店番をしていた俺は、突然の申し出に面食らった。
この間は突然作風を変えたいとか言い出すし、今日は店番するとか言い出すし、スランプとやらの程度はなかなかに酷いようである。何をするにしてもどことなく上の空だし、奥に引っ込んでいても、仕事なんて手についていないのだろう。
だからといって、駄目です仕事してくださいと言える雰囲気でもなかったので、俺はその言葉に甘えることにした。
「夕飯はどうしますか?」
「はは、どうしようねぇ」
弱々しい笑顔。これは本当に重症だな。このまま放って置くと、中年の餓死死体が出来上がりそうだ。俺はうっかりそれを想像してしまい、ひどく切ない気分になってしまった。
「分かりました、店を閉めるころにまた来ます」
「うん、ごめんねぇ」
そう言いつつも、白井さんの表情には生命力の影が見当たらなかった。
何があったかは分からないが、今日はそっとしておいた方がよさそうだ。俺は小さくため息をつきながら、エプロンを外して和室の隅っこにかけているハンガーにかけた。それからその下に置いていた自分の荷物を持って、改めて店の入り口から外に出た。