第十話
本の整理を心に決めたは良いが、まずは何からかかるべきか。店の中をゆっくりと歩いてみながら、俺は心を落ち着けて考えた。
まずは……。
「いよぅ、元気かい、親友」
俺の思考をぶった切る能天気な声。立っていたのは、黄色のダウンジャケットを着た明良だ。たったの二日で、随分と様子が変わるものだ。
店である以上、入ってくるなとは言い難いが、考えているところを邪魔されたのが大変気に食わない。俺は明良を雑に扱うことにした。
「何か用か、浮かれ虫」
「虫は酷いなぁ」
そう言いつつも、明良の声は弾んでいた。この前とは大違いだ。
「いやぁ、茜ちゃんと話したんだって? 昨日の夜、聞いたよ」
「ああ」
「僕も説明しなきゃと思ったんだけど、店が閉まってたからさ」
「携帯があるだろうが」
「こういうのって、直接言いたいじゃない」
だから、電話で呼び出せばいいだろう、と思ったが口に出すのは止めた。茜ちゃんはこのぼんくらの何が好きなんだろう。俺の中では世界七不思議の一つだ。
「で、お前の気持ちもすっきりして、俺への説明も手間が省けて、それでまだ何の用があったっけか?」
「ひどいなぁ、親友。ただ会いたいときもあるだろう?」
「気持ち悪いから却下。失せろ」
「やれやれ、冷たいねぇ。まあ、ほんとはただ会いに来たわけじゃないけどね」
肩をすくめ、やれやれ、と言ったように頭を小さく振る明良。その仕草がまたむかつく。
「昨日茜ちゃんがケーキを焼いてくれてね。まあ、話はその時に聞いたんだけどさ」
「ああ、そういえばそんな本を買っていたな」
ケーキを焼いてご馳走してやるとかなんとか。俺と別れて帰ってから、すぐに作ったらしい。
「それがすっごく美味しくてね。俺が美味しいって言ったら、茜ちゃんが喜んでくれるんだけど、その笑顔がまた可愛くて……って、本を読み出さないでよ」
俺は精一杯嫌な顔を作って明良の方を向いた。
「その馬鹿馬鹿しい惚気話を聞かせに来たのなら、速やかに回れ右して帰れ」
似たような話は、昨日喫茶店でも聞かされたし。
「違うよ。それで、茜ちゃんが差し入れて持ってけってさ」
そう言って、明良はバッグの中からタッパーを取り出して俺に見せた。
「それを最初に言えよ」
「あれ? なんか急に態度が変わってない?」
明良の抗議は無視。開けて見ると、中には白いケーキが二切れ入っていた。
「新作だってさ。ハイパーふわふわチーズケーキと名付けていた」
そのネーミングセンスはどうか。
「んー、良くわからんが美味そうじゃないか」
「美味そうじゃなくて、美味いの。食べたら吃驚するよ」
「そりゃ楽しみだ」
とは言え、勤務中に食べるのはさすがに気が引ける。俺はそれを冷蔵庫にしまって、後で食べることにした。
「茶でも飲んでいくか?」
「そこまで扱いが変わると泣くぞ。まあでも今日は遠慮しとくよ」
「そうか」
いつもは何かしら理由をつけて長居しようとするくせに、今日に限って珍しい。
「プレゼント買いに行くんだ。そろそろクリスマスが近いしね」
「ああ、そういう事か」
「裕也はなんか準備してるの?」
「俺が? なんで?」
送る相手も特にいないのに。
「碧ちゃんにあげたら? 喜んでくれると思うけど」
「んなわけあるか」
適当な事は言わないで欲しい。本当に。
「まあ、良いけどね。それじゃ、バーイ」
明良は言うだけ言って店を出て行った。しょうもない言動であるのはわかっていながら、不完全に焚き付けられた俺は、仕事が終わるまで悶々として過ごす羽目になった。
ケーキは二切れ入っていたので、白井さんと夕食後に一つずつ食べることにした。
「うん、美味しいねぇ」
白井さんが舌鼓を打つ。俺も食べてみて驚いた。美味いとは聞いていたが、そこらの店で買うよりもずっと美味い。百聞は一見にしかずとはよく言ったものだ。
チーズケーキと言うよりは、チーズスフレに近いような感じだったけど、それよりも更に口当たりが軽くて、そのくせにチーズの味はしっかりしている。作り方なんて見当もつかないけど、間違いなく美味しかった。
夕食の間も元気の無かった白井さんだけど、このケーキのおかげで少し元気そうな顔が見れた。茜ちゃんに感謝だな。
「藍沢君さぁ……」
ケーキを切り分けながら、白井さんが口を開いた。何と無く真面目そうな雰囲気に俺は手を止めた。
「なんでしょうか」
「例えばだけどね。例えば、月夜満という作家が新しいジャンルを書くとしたら、どういうのが似合うと思う?」
「は?」
突拍子もない言葉が飛び出してきた。この人は突然何を言い出すんだか。
「何でまた?」
「そうだなぁ……。自分の作風に自信が持てなくなったとか。他のジャンルに挑戦することで、自分の新しい世界を開きたいとか、まあいろいろ」
「うーん、パッとは思いつかないな。月夜満の作品といえば、ゆったりとした世界と豊かな描写の暖か味のある作品というイメージしかないですね」
俺の答えに、白井さんはちょっとがっかりしたようにため息をついた。
「他の読者もそうなのかなぁ」
ケーキを口に運びながらそんなことを呟く白井さんは、何だか随分と弱気になっているようだった。
「さあ、どうなんですかね」
俺は一応含みを持たせてみた。けど、多分そうだと思う。確かに何冊か単行本を出しているけど、作品に漂う空気のようなものは大体同じだ。推理小説でトリックや犯人が変わっても、推理小説に代わりがないように、展開や背景が変わっても月夜満の世界は守り続けている。俺はそれが好きだから何の不満もなかった。
「こう、テンポアップしたコメディとかさ、仰天のファンタジーとかさ」
「良いと思いますよ。それで新境地が開拓できるなら、俺は読者として嬉しいです」
「そうかい? 嬉しいねぇ……」
言葉とは裏腹に大きくため息をついて、白井さんはケーキの最後の一口を放り込んだ。そのため息が、白井さんの気の進まなさ加減を物語っている。
「本当に、どうかしたんですか?」
「うーん、まあ、ちょっとスランプかなぁ」
そう言って、白井さんは力なく笑うだけだった。
これは随分と重症だ。
「黒木さんに相談してみたらどうです?」
何しろあの人は担当編集者だ。作家が作風について相談するなら、俺なんかよりよっぽど持って来いの人に決まっている。
「それが出来れば苦労しないんだよね……」
そう言って、白井さんはのろのろと立ち上がり、和室を出て奥へと引っ込んでしまった。