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ティトノス(ジャンル不明)

『蝉』


 契約している保険会社から貰ったカレンダーをめくると、今日6月21日に書かれたそんな文を見つけた。

 達筆とも稚拙ともとれるその字は赤いが、オレンジともいえる。これを表すならば、そう『暁』である。

 夜明け前の色かと聞かれれば言い澱むかもしれないが、思ったのだから仕方ない。


「…………」


 そこまで考えて、男はふと蝉の声を聞いた気がした。

 しかしそれは決して珍しい事ではない。昼間も聞いていたし、夜になったとしても鳴く蝉はいる。

 時計を見れば二時を少しばかり回っている。

 こんな時間に鳴く蝉もいるのかと思ったが、こんな時間まで起きている人間の都合になど、合わせはしないだろうと考えた。

 何の気なしに起きてはいたが、いくら明日が休みとはいえ堕落していると思った。

 別段何かしたい訳でもなく、何かしていた訳でもない。

 なら何で起きていたのかと考えれば、すぐには思い付かない。案外蝉は、こんな何も考えていない自分を嗤いにきたのではと思った。

 が、そんな事があるかとすぐに思い直す。 そうこうしている内に蝉の声は止み、時間も二時半だ。


「…………」


 寝るかと布団に潜ったが、なぜか眠気は一向にやってこない。 寝苦しいわけではない。今夜はエアコンも扇風機もいらないくらい涼しく、窓を開けていれば充分涼める。

 うるさいわけではない。蝉の声は止んだし、他に聞こえる音といえば、時折の車の音くらいだ。

 眠れない、寝たいのに眠れない。

 そこで、男はまた思考の淵に落ちてしまう。

 今の自分は本当に、眠いから寝ようとしているのだろうか。 寝ようとしているから眠るのかもしれないではないか。 はたまた寝させようとする何かの意志に従い、寝る準備をしているだけかもしれない。

 莫迦で不毛な考えだと頭の隅では分かっているのだが、思考は中々に終着点を見つけ出さない。

 悶々と時間だけが過ぎていく気がして時計を見ると、驚いた事に時間は二時半のままだった。

 自分の中では十分は過ぎたと思っていたが、それは思い違いだったかなと首を傾げるも、実際時間は進んでいないのだ。

 自分がどう考えても、事実はそうなのだろう。


「…………」


 男は自分の視界の中に違和を感じはじめた。

 小さな羽虫が視界の中を飛び回るように、その違和は妙に思考に引っかかる。

 原因は何だと布団の上から首を捻ってみるも、よく分からない。

 ならばと布団から立ち上がり部屋中を歩いてみるも、やはりよく分からない。

 何周も部屋を周りながら、ふと時計を見て男は驚愕した。

 短針も長針も、さっき見た時とまったく同じ位置にいたのだ。つまりは同じ時刻、二時半である。

 これはおかしい、さすがに変だと思い時計を手に取ってみるも、それは外見にはまったくの普通に映っていた。

 電池が切れたのかも知れない、だから止まったのだ。 男はそう結論付け時計を布団の上に放った。考えるまでもない単純な事だと決めつけ、はて次には、仕方ないから電池を買いに行こうと思うのである。

 財布を持ち、歩いていけるコンビニを思い浮かべながら男は玄関の扉を開けた。

 夜の街は声帯を失った人間のような寒気をもった、肌に張り付く静かさに充ちていた。


「…………」


 喋るのがあまり好きではない男はこの時妙な親近感を覚え、もし夜の街の化身がいたら抱擁してあげたい気持ちになった。

 左右等間隔に植えられた木々は街灯の光で光沢を持ち、青々とした葉は油を塗られたように光を照り返している。

 深夜の散歩と称されそうなこの行為は男にとって珍しい事ではなかったが、今回はなぜかいつもと違う気がした。

 部屋で感じた違和をより大きく視認しやすくしたような錯覚に陥り、直後に理解した。

 音が聞こえないのだ。蝉の声も車の音も木々のざわめきもその他生き物の発する音という音がないのだ。


「…………」


 有り得ない、と男は考えた。蝉の鳴かない夜もあるかもしれないが、一切の音が無くなるなど有り得るはずがないのだ。

 だからこの今の状況は、夜更かしで脳内物質が乱れ出来上がった妄想、または奇跡に奇跡を上塗りした、しかし奇跡の無駄遣いでしかない世界が無音になる時間なのだ。


「ミンミンミンミンミン……」


 と、男は初めて音を耳にした。間違えようのない、それはまさしく蝉の鳴き声だ。

 部屋で聞いた時より大きく聞こえるそれに安し、さてどこで鳴いているのかと探してみる。


「ミンミンミンミンミン……」


 しかし探せど探せど、蝉の姿は一向に見当たらない。

 木の幹にくっついていて気付かないのかもしれないが、それでもこんなに必死に探しているのだから、一匹くらいは見つかってもいいのではないか。


「ミンミンミンミンミン……」


 その鳴き声は耳に痛いくらい響いてくる。なのに見つからない。なぜだろう、なぜだろう、意味が分からない。


「ミンミンミンミンミン……」


 街灯の白熱灯の光が、赤く様変わりした気がした。しかし勘違いだともすぐに気付き、前を向けば赤い光が見えた。


 何の光だろう、非常灯の光にも似てるが、だが何と言うのだろう、もっとオレンジに近い気がする。

 そうか、あの光はカレンダーで見た文字の色と同じなんだ。つまりあの光は『暁』色なんだ。


「ミンミンミンミンミン……」


 蝉の声はなおも続く。しかし待て、さっきから身体が妙に重い。動きづらい。

 視界も徐々にぼやけてきて、腰が曲がってきている気がする。

 ふと手を見て男は驚愕した。

 自分の手が枯れ枝のようにしおれて、カサカサで、見るも醜悪な姿に変わっていたのだ。

 熱にうなされているような気がする、現実でなく夢の中にいるような浮遊感がある。

 その嗄れた手で頬を触る。皺が幾重にも刻まれた皮膚がそこにはあり、張りのない肌は触れた箇所をへこませる。


「ミンミンミンミンミン……」


 蝉の声も小さく弱くなった気がする。それは自分の耳が遠くなったのか、蝉が鳴かなくなったのかは分からない。

 分からない、自分の今の状況が分からない。 自分は何をしていた、部屋で二時半まで起きていて、止まった時計の電池を買いに外に出た。

 その結果がこの老いぼれた手と頬、いや、全身である。 ふと、いや違うなと考えた。おかしいのはあの文字を見つけた時からだ。カレンダーに書いてあった、あの『暁』色の文字を見てからだ。


「ミンミンミンミンミン……」


 蝉がうるさい、考えたい時の蝉の声ほど煩わしいものはない。

 とにかく歩き出そうと思う、問題を先延ばしにするのは良くないが、これは妄想だ。

 時間が経てば全てが終わる。

 男はそう考えて歩き出す。一瞬家に帰ろうかと思ったが、ここまで来たのならコンビニまで行こうと思う。 前で光っている『暁』色には近づく事になるが、だから別段何があるという訳でもないだろう。

 まずは電池を買って、夜食も買って、雑誌もアイスも欲しいな。


「ミンミンミンミンミン……」


 蝉の声が大きくなった。何だ、蝉も元気を取り戻したな。

 その鳴き声を聞いていると自分の身体が軽くなっていく気がする。 羽根でも生えているようだ。服がこの上なく不快になってきた。

 誰もいないのだ、脱げばいい。


「ミンミンミンミンミン……」


 歩くのがきつくなってきた、そこの木で休憩しよう。


「ミンミンミンミンミン……」


 自分は生きている、自分ハイキテイル、ジブンハイキテイル、ジブンハイキテイル、ジブンハ……


「ミンミンミンミンミン……」


 ヒカリナカニ、ジョセイガミエル。

 キミハダレダ――ワタシハ、ナンダ。



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