二十二話 Happy Birthday
※一章、最終話です。
晩餐会の翌日に春の神殿に帰ってきた。戻ってから季節が変わった事に、ようやく気付いた。ずっと街の中にいたので、季節感が今ひとつ分かり難かった。
エフィルさんも溜まっている公務、主に報告書の処理に終われている。
ボクとプリムラはセレヴィアンさんの宿題、前の世界の知識を整理して、書き出す作業をしていた。根を詰めても良くないから、森へも出かけるし、趣味になった地図作りも進めている。
林檎の事であちこち行ったので、地図はかなりの進展があった。フレイの森も中央と西側以外は、位置関係がだいぶ分かってきた。
こうして日常が戻ると、安心感があって心がたゆーんとする。ナウラミアが倒れてからは、忙しかったとあらためて思う。精神的に張り詰めていたと、今ならよく分かる。
農作業に関しても、やらなきゃならないし、化学分野は開拓が必要な事が多すぎる。ドワーフなら詳しそうだなぁとか、錬金術が得意な種族はいないのか? とかいろいろ考える事が多かった。
他にも疑問がある。ボクの記憶に関する事だ。
ネーミアの話を聞いた時にも思ったけど、自分の記憶が精確すぎる気がする。
脳は全ての信号を保存していて、潜在意識はそれら全ての記憶の影響を受ける、と言う考えがある。
自覚している記憶は、顕在意識からアクセス出来る一部の記憶だけで、アクセス方法が失われた、或いはアクセスしにくい記憶が、莫大な量保存されているとする考えだ。
今のボクは、何かを思い出したいと意識すれば、スルッと記憶を取り出せる。有るのか無いのかも瞬時に分かるし、かなり古い記憶でも集中すれば思い出せる。
以前のボクはこんなに頭が良かった、或いは記憶力が高かっただろうか。その事を思い出そうとしも、自分に関する記憶は曖昧で、どうだったと言える思い出が無い。
思い出はエピソード記憶という形で保存される。自分の記憶の中では、この部分が特に失われている、そんな気がした。
全体図を眺めながらいろいろ考え込んでいたら、ナウラミアがボクを呼びに来た。
「リィ~いるぅ? 孤児院へお手伝い行くよ~」
「はーい、いま行く~」
地図は人目に付くと面倒なので、エフィルさんの事務室の壁に掛けてある。普段は裏返して予定表にしているので、よほどの事が無いとバレないと思う。
最近は以前と逆に、ナウラミアと一緒にいるのが増えた。アルフェルが正規の神官になる為に、試験勉強をしているからだ。それに、あれから事ある毎に誘われるようになった。彼女なりのやり方で、ボクとの距離を縮めたいのだろう。
ボクも彼女の知らない一面が見られて、楽しい変化だと思う。プリムラも、誤解を解く良い機会だよね。
あれ? プリムラ?
『……えぇ、そうね。子供らしくて可愛いじゃない。楽しみだわ』
何か気に障る事でも、言ってしまったかなと思いながら、孤児院へ向かう。ナウラミアは先生をするより、一緒に遊びたい年齢らしい。鬼ごっこやかくれんぼをして、楽しく過ごした。
「おねーちゃん!」
鈴を転がす声でボクを呼んで、胸に飛び込んでくる。プラチナホワイトの髪が揺れて、こぼれそうな笑顔がボクを見上げた。
「よく来たねー、ネーミア」
あれ以来時々、と言うより週に二回、多いと四回はネーミアが遊びに来る。王都では年の近い子がいないのか、何かと理由を付けて姉に会いに来る。
なぜかボクは懐かれたみたいで、こうして毎回抱き付いてくれるのだ。
子犬がじゃれつく、そんな気持ちで受け止めている。さらさらの髪を撫でていると、眼を細めて気持ち良さそうな表情になった。
「ほら、ネーミア、お姉ちゃん困ってるでしょ。こっちいらっしゃい」
「やっ! おねーちゃんと、あそぶの!」
プイッと顔を背けて、いっそうしがみついてくる。慕ってくれるのは嬉しいけど、このままだと家のお姫さまが……
お姫さま公認なのかな? ネーミア可愛いし、むしろバッチコイなのか。
◇
今日は朝から森に来ている。相変わらずスクテラが不足しがちで、ナウラミアと治療院のネネルさんと、三人で東の森に来た。
アルフェルがいてくれれば、ユールに空から見付けて貰うけど。ボクとプリムラで精霊に聞きながら探していた。
「……そう、ありがとー、お姉ちゃん、ネネルさん、向こうの小川の方だって」
プリムラは不調なのか、精霊から話を聞けていないようだ。ボクは以前より精霊が見えるようになって、花や木や石の精霊とも話が出来るようになった。
見付けたスクテラを採取していると、遠慮がちにナウラミアが話し掛けてきた。
「最近あまり話さないよね、プリムラと」
「あれ? 気付いてたの。もしかして見えるように?」
「あ、ううん、まだ精霊の姿は見えないよ。リィの視線とか考える仕草とか、そういうので分かるんだ」
意外としっかり見ているなぁ。ナウラミア、恐ろしい子っ!
「リィも何か悩んでるっぽいし、どうしたのかなって」
そうか、そんなに周りに心配されていたとは失敗だった。今夜あたり、プリムラにしっかり話を聞いてみよう。
必要な量を採取し終わって、談笑しながら神殿へ戻る。プリムラはやっぱり静かで、話し掛けてこなかった。
皆が寝静まった頃、プリムラに声を掛ける。この頃、夜にプリムラを呼んでも現れない時がある。朝になると隣にいるから、どうしたのか聞いても答えは無かった。
今夜はどうだろう。
『……なぁに?』
けだるそうな声だ。怒っているようにも感じる、眠そうな声だった。
プリムラさ、最近変だよ? 時々いないし、声かけても返事しない時あるし。
どうしたの? なんかボク、やらかしちゃった?
『そんなんじゃないよ……ちょっと、限界かなぁ』
限界? プリムラ、その言葉すっごく不吉に感じる。限界って何が!?
『えっと、うん、ごめんね、もうすぐ会えなくなるかも』
……え?
『ごめん、眠いからまたね……』
◇
ちょっと待ってくれ、どういう事だ?
プリムラは再び消えて、呼びかけても答えない。何か異常な事が起きている。
どうしよう、どうすればいい?……セレヴィアンさんか!
困った時に尋ねてこいって、まさかこうなると知っていた!? 彼女なら何か知っているかもしれない。
悪いと思いながら寝ているエフィルさんを起こした。事情を説明して、大至急セレヴィアンさんに会いたいと伝えると、エコー瓶で連絡してくれた。幸い今の時間なら、王都行きのタリル・リングも使えるそうだ。
「気を付けて行ってらっしゃい。セレヴィアンさまにもよろしくね。リングはあと二刻くらいの間使えるから、早めに戻って」
エフィルさんと幸運に感謝して、急いで身支度を調えて、王都に向かった。二刻と言うと四時間くらいか。
急な訪問を侘びて、急ぎ足でセレヴィアンさんの部屋へ向かう。何度も来ているから、勝手知ったると言うやつだ。
「こんばんは。遅くに済みません」
彼女はベッド脇のチェストに置いた、シダの鉢植えに水をやっていた。
「こんばんは。どうしたのかしら、連絡を貰って驚いたのよ」
「実は、プリムラの事でご相談が……」
セレヴィアンさんに最近の状況を話して、プリムラの姿が時々見えなくなる事、特に夜は呼びかけても、現れない場合がある事を伝えた。
「そうねぇ、あなたたちの普通は、普通の召喚師には普通じゃなかったし」
普通が多すぎて頭がこんがらがる。
「召喚師が呼び出す意思のない時は、召喚精霊は術者のフェア(精)と同化しているのは知っているわね?」
知っている。アルフェルとユールの関係もそうだ。
「だから、あなたの今の状態は、少しもおかしくはないのよ。ただ、精霊の機嫌を損ねたわけでもないのに、呼出に応じないというのは変ね」
それに、ボクはプリムラが消えたように感じるのだ。呼んでも答えない時のプリムラは、存在その物が消えてしまったように。
「わかったわ。リィ、いまこの場にプリムラさんを呼べる?」
「やってみます」
心の中でプリムラに呼びかける。何度か呼んでいると、彼女が現れた。
『……久しぶりね、セレヴィアン。話は聞こえてたよ』
「二人とも、少しの間じっとしてね」
初めてあった日のように、セレヴィアンさんの指が、ボクとプリムラ二人の額に触れる。指先から流れるものが何か、今ならセレグ(生命)とフェアの混合した波だと分かる。細い糸のような波が枝分かれして、頭の中と、胸の辺りに伸びていく感じがした。
「……そう、やっぱりそうなのね」
「何がそうなんです?」
「二人のアノア(霊体)が、完全に一つに融合しようとしているの。最初に見た時の状態は不安定だったのよ。一部だけくっついた状態は、いずれ大きいアノアが小さい方を取り込んで融合するの」
それは、何かに似ている、似た話を聞いた事があると思った。
「プリムラさんは、消えてしまうわけでは無いのよ。アノアの融合はフェアの融合も引き起こすから、二人は完全に一つの存在になるの」
それじゃプリムラの意識は……
「記憶や技能はリィに受け継がれて、リィのものになるわ。でも……」
『わたしの人格は、消えるってことよね』
そんな!? プリムラが消えるなんて……
『リィ、黙っていてごめん。いずれこうなるのは、分かってたんだ。だから、ごめん』
「分かってた!? どうしてもっと早く言ってくれなかったの!?」
『だって、リィが悲しむでしょ? そんなの、わたしもいやだし……』
このままだとボクの魂に取り込まれて、プリムラの存在は消える。
嘘だと思いたい。嘘だと言って欲しい。
でもプリムラの、セレヴィアンさんの言葉が、それが真実だと教えている。
『いいじゃない。わたしの魔法、使えるようになるよ。便利じゃん。そうだよね?』
『浄化』も『透視』も使えるよね、プリムラはそう言った。
セレヴィアンさんは、無言でうなずいて肯定する。
『なら……思い残すこともないか。あっと、最後にリィに頼みがあるの』
やめろよプリムラ、最後なんて言うな。
『この、林檎をね、あの子に食べさせて欲しいんだ。わたしがいなくなると、リィも寂しいでしょ。双子のあの子が一緒なら、きっと寂しくないと思う』
あの子、ドライアードの村で出会った、ボクによく似たあの子か。眠り続けたまま目覚めない女の子。
『本当なら、あの子がリィと一緒にいるはずだったんだよ。わたしはあの子の場所を、取っちゃったんだ。だからね、返して上げないとね』
今夜のプリムラは、初めて会った時のように良く話す。最近は一言、二言話せば十分通じ合っていると思った。
でも違ったんだ、彼女の中には、もっとたくさんの言葉があったんだ。
『イドゥンさま言ってたよね、黄金の林檎は、命その物だって。これを食べれば、あの子は絶対目を覚ますよ。だから、お願いね……』
その言葉を最後に、プリムラの姿が霞むように薄くなって、目の前から消えた。
大丈夫だ、存在は感じられる。本当に消えたわけじゃない。
「リィはどうするの? プリムラさんの願いを、かなえて上げる?」
もちろんそうする。それが彼女の願いだから。
セレヴィアンさんにお礼を言って、南の神殿へのリングが使えないか尋ねた。
残念ながら王都のものは、五日後まで繋がらない。春の神殿なら明日の朝には繋がるそうで、急いで戻る事にした。
エフィルさんに戻った事、ドライアードの村に向かう事を伝えて、明日に備えてベッドに潜る。でも、まったく眠れそうに無かった。
プリムラが消えてしまう。そして彼女もそれを受け入れている。
本当にそれしか無いのだろうか。そんな事ばかり考えて少しも眠くならない。
落ち着こうと思って、部屋から庭に出た。
王都行きのリングは、まだ淡く光っていた。空には目眩がする程の星。ほぼ真上にきれいな満月が照っていた。
そっか、この世界にも月があるんだ。
夜には出歩く事が無かったから、月がある事さえちゃんと認識してなかったな。十五夜って、もっと先だっけ。十月の行事だったよな。
懐かしいなぁ、お月さまきれいだな……
地面に座ってしばらく月を見上げていた。ふと右手が、服の上から何か硬いものに触れた。ポケットの中に、ドライアードの双子から貰った琥珀が入っていた。
すっかり存在を忘れていた。偶然この服のポケットに入っていたのか。村に行った時に着ていた服がこれだったのかも。
でもこれ、どんな石なんだろう。ちゃんとユールに聞いておけば良かった。親愛の証を示す石だって話だけど……RPGゲームなら、石に対して念じるとか?
そんな馬鹿な、と思いかけた時、目の前の林がザザッと左右に割れて、見覚えのある双子がいた。そう言えばこの林は、外の森と繋がっている。
「やっと呼んだー」「待たせすぎー」、「ちっとも来ない」「来てくれない」
ドライアードの双子は、ちょっとむくれた顔でボクを責めた。もしかして、ボクが呼ぶのをずっと待っていてくれたのか。
「おちびちゃん、いないね」「おちびちゃんは?」、「へんだよ」「へんだね」
彼女たちにもプリムラが、良くない状態にあるのが分かるのだろうか。ボクは二人に、ドリュアデスさんに会いたいと言った。
「お母さまね」「お母さまなら」、「分かるかも」「知ってるね」
一緒に来て、と二人でボクの手を取ると、ドライアードだけが通る道、森の小道を一気に通り抜ける。左右に並ぶ林がめまぐるしく種類を変えて、あっという間にガジュマルの林になった。
そしてみた事のある木々に囲まれた空間へ出た。
「お母さまー」「お客さん」、「リーグラス」「来たよー」
プリムラを呼ぶと、身体が透けて見えた。顔色も良くないし、辛そうにしている。
でも彼女の望みなのだ。わがままで勝手な態度を取っても、いつもボクの側にいてくれた、彼女の最後の望みなのだ。
叶えて上げなければと思った。
◇
再会したドリュアデスさんへの挨拶もそこそこに、ボクはプリムラが消えそうな事、そして彼女が望む事を伝えた。
「黄金の林檎ですか。これならば、眠り続ける娘にフェア(精)を与える事が出来るでしょう。生まれる時には、まっさらな赤子の心を持って生まれましょう」
ただし、と言って間を置く。
何か重要な事を伝えたいのだろうか。
「生まれ落ちる際に、胎内に他のフェアが存在しなければ、という事です。もし精霊が一緒であれば、その精霊を宿して生まれましょう」
……なん、だ、と? それはつまり、プリムラが一緒なら、プリムラがこの子の身体を得て、生まれるって事なのか?
「それ……だめよ、リィ。ドリュアデスさん、早くあの子に食べさせて……」
プリムラの言葉を受けて、ドリュアデスさんが中央の太い幹を開く。
中から眠り続けるあの子を取り出して、大事そうに抱えて娘の頬を撫でる。
戻ってきたドリュアデスさんの腕の中に、ボクによく似た女の子が眠っていた。
ドライアードだから、『女の子』は適切では無いかもしれない。
「プリムラさん、本当に良いのですね?」
プリムラの決意が本当のものか、後悔しないかの問いだろう。
辛そうに見えるプリムラは、途切れ途切れに、でもはっきりと答えた。
「いいわ。この林檎を、この子にあげる」
それは彼女の決意の表れ。彼女の言う、正しいあり方に戻すための選択だ。
自分は本当は消えるはずの存在だった。それが何かの間違いでこの世界にいる。そのせいで、本当は生まれるはずの存在が、もう一人のボクが生まれなかった。
彼女はその思いに、強い罪の意識を感じていた。
だからプリムラは、自分が消える事を選択した。
でもそれって、ボクとサヨナラするって事だ。ボクの気持ちはお構いなしに。
「……だめだよ」
「え? なによ、リィ」
「いなくなっちゃ駄目だっ!」
せっかくドリュアデスさんが教えてくれたのだ。わざわざ言わなくても良い事を、プリムラの為にあえて言ったのだ。
それは彼女の、ドライアードの母としての思い。プリムラを迎え入れても良いという、気持ちの表れではないのか。
「この身体に宿れば、この身体を貰えば、ドライアードとして生きられるんだよ!」
「だめだよ、リィ。貰うんじゃない、奪うんだよ。命を自分の都合で奪ってはだめ」
「そうじゃないよ! 命は、この子の命も、プリムラの命も、一緒に生きるんだよ!」
「違うのよ、だめなの、ダメ……」
なぜ分かってくれないのか。この子の身体には、元から精神、フェアが欠けている。
プリムラはその替わりをするだけだ。奪うわけじゃない。
「それにねリィ、わたしが精霊じゃなくなったら、きっと『浄化』も使えなくなるよ」
「そんなの、どうだっていいじゃないか!」
「良くないよ……このままリィのアノア(霊体)と一緒になれば、使えるだろうって、セレヴィアンも言ってたじゃない」
『浄化』なんて正直使えなくていい。
唯一無二の技能かもしれないけど、プリムラだって唯一無二の存在なんだ。
「お願いだから……プリムラ、この子として生きて」
「……そんな資格、無いよ」
頑なに拒む理由がボクには分からなかった。
ボクは前に、目の前の転生をただ喜んで受け入れた。
それは誰かの命を奪う事だったのか? それは悪い事だったのか?
「資格なんて関係ない、プリムラが生きたいかどうかだ。ボクと一緒にいたいかどうかなんだよ」
「リィ……」
「ボクの為に生きて。もう、一人にしないで……」
プリムラの閉じた目から、涙が一筋流れた。
「わかった。一緒にいたいよ……」
ドリュアデスさんは全てを見越していたのだろう。抱えていた女の子は、既に幹の中に戻っていた。
「よい選択をしました。私たちも新しい家族を祝福しましょう」
それから手順を説明してくれた。
ボクも一緒に裸で中に入って、プリムラ、ボク、女の子の順に林檎を食べる事。
女の子には口移しでいいので、ボクが食べさせる事。
最後に残った全ての林檎はプリムラが食べる事。
「あなた方はもう一度生まれ直すのです。本来のドライアードとして、かけがえのない双子として」
手を引かれて太い幹の前に来た。開いた中に、もう一人のボク、眠り続ける女の子がいる。この子と一緒に、もう一度やり直すんだ。
服を脱いで、身体が透け掛かって見えるプリムラを胸に抱いて、ボクたちは樹の中に入る。そこは光で満たされて、心地いい暖かさだ。
樹の中なのに、不思議な弾力があって、ふかふかしていた。
隣には目を閉じたままの、もう一人のボクが眠っている。
少しだけ罪悪感があるけど、ボクはプリムラを選んだ。もう迷わないし後悔しない。
「プリムラ、いいね?」
「……うん」
林檎を二口、プリムラが齧ってボクにわたす。ボクも三口齧って、口移しでもう一人のボクの口に、林檎の欠片を押し込む。
甘酸っぱい果汁が口の中に広がって、今まで味わった何より美味しいと思った。
最後に残った全部を、プリムラに食べさせる。
ボクともう一人の胸の間で、プリムラがゆっくりと咀嚼して飲み込んだ。
プリムラをはさんで、もう一人のボクの身体を強く抱きしめた。失敗は無いと思う。たぶん大丈夫だろう。でも、無性に不安だ。このままプリムラが消えたら、ボクは耐えられるだろうか。
いやだ、消えて欲しくないよ!
更に力をこめると、ついにその時が来た。
胸の奥がズキリと痛んで、首の後ろから何かが引っ張り出される感じがする。
胸と首の痛みがどんどん強くなって、頭も痛くなって、そうして視界が白く塗り潰されて意識が途切れた。
白くなる視界の中で、一瞬何かを見た気がしたけど、それが何か分からなかった。
ただ、どこか懐かしく感じる、女性の名前を思い出した。
『小桜』と言う名前を。
◇
ゆっくり目を開ける。ここは、ドライアードの森だ。
全身が少しぬめって濡れている。でも冷たくは無くて温かい。身体の下には青葉が絨毯のように敷きつめられている。
つま先から膝、太もも、おへそが目に入る。手を伸ばして指を広げて、幼児のままの身体に安心した。良かった、赤ちゃんに戻るわけじゃないんだ。
ため息と一緒に吸い込んだ空気は、じっとりと蒸し暑くて少し泥臭い。常夏の森の匂いがした。
「……んっ……」
左手に触れる熱と、静かな息づかいに気付いて身体を起こす。
そこに彼女がいた。ボクと同じ緑の髪と緑の瞳で、ボクを見上げていた。ただ前髪の一房が薄いピンク色に変わって、元の姿の名残を残していた。
「ちょっと、裸なんだから、こっち見ないでよ」
恥ずかしそうに身体をよじる仕草も、少しだけ上目遣いの視線も、とても可愛らしかった。
「ボクも裸だから、お互いさまだよ」
おかえり、プリムラ。ただいま、プリムラ。
そして、Happy Birthday.
ここまで読んで頂いてありがとうございました。
これで一章完結です。少しでも楽しんで頂けたでしょうか。
引き続き読んで頂ければ嬉しいです。




