太りカエル
これは、とある人から聞いた物語。
その語り部と内容に関する、記録の一篇。
あなたも共にこの場へ居合わせて、耳を傾けているかのように読んでくださったら、幸いである。
ごっこ遊び。
長い人生の間で、体験しない人はそうそういないんじゃないかと思っている。
何かしらの真似をする、あるいは○○といったていで演技をする、というのはお遊び、余興の一環として、とりいれられる機会が多いからだ。
あるいは表現力の補強。身振り手振りも、なにかしらを真似ることで相手に伝えようとする仕草だ。ときに会話よりも強烈に印象付けられる力も秘めている。
ただ、それには受け取る側の感性も高いレベルであることが求められる。ときに、自分が伝えたいと思ったことが、相手になかなか伝わらずもどかしい思いをしたことはないか?
自分の技術や配慮のつたなさもあるかもしれないが、相手のそもそもの教養基盤ができていないのもあるんじゃないかと思う。こちらが無意識に知っている前提で話すことを、相手は前提すらしらない。
信教の自由の弊害的なところかもしれないな。全員が把握している根本原理を持てない、というのは。かえって伝えるほうも受け取るほうも、十全にコミュするには広い知識が求められる。
その多様性すらねじ伏せる、問答無用のインパクト。こいつがかえって大事かもね。
僕が小さいころ、体験したことなんだけど聞いてみないか?
はじめて見たのは、遠足を翌日に控えた日の午後だったな。
明日は天気が崩れ気味になるってことで、学校のみんなでてるてる坊主を作って、窓際に吊るしたんだ。
おまじないとしては典型的だけど、すでに大吉おみくじの内容をことごとく外された経験のある僕にとっては、懐疑的なものだった。
結局、どのように願ったところで、全部は神様が勝手に決めること。その結果を自分たちは享受するしかないのだと。ただ、聞きたいときに少し結果について教えてくれれば、いい具合に覚悟なりを決められるのだけど……などとも考えていたなあ。
そう思っていた矢先。
帰り際に、一緒に帰っていた友達がふと足を止めた。
「あ、『太りカエル』だ」
そう独りごちて、ちょっと道を外れていく友達。そこには小さい水たまりと、その中央でひっくり返っているカエルの姿があった。
いや……カエルなのだろうか。
普通、カエルといったら緑色とか茶色とか、自然に多い色と同化しやすいような色合いをよく見てきた。
しかし、このひっくり返っているものは全身が目に痛いばかりのピンク色。やたらと目立つ体色をしていたんだ。
四肢を広げて倒れているものの、その天を向いたお腹に関しては異様なほど膨れている。僕たちの親指の腹よりも、膨れているくらいだ。
「『太りカエル』を見るのははじめて? こいつはね、お祈りどころか予報よりも確実なんだよ」
いうや、友達はポケットから小さいカッターを取り出し、刃を出すやスカッと音が出そうなくらい、迷いなく膨らんだお腹を裂く。
すると、ぱっくり開いたお腹の中からするすると、煙のように立ち上がる糸のごとき紙が一枚。身体の中にあったとは思えないほど、汚れなき白色をたたえるそれを、友達はぷつりとちぎり、しげしげと眺めたあとにこちらへ見せてくる。
その糸には、こう書かれていたんだ。「アス、ハレ」てね。
「こいつに出たなら大丈夫。明日の天気はよくなるよ:
ニコニコ笑う友達。ふと、目線を水たまりへ落としたとき、例の太りカエルの姿はもうなくなっていたんだ。
太りカエルについては、幼稚園にいるときに友達がたまたま見つけた存在らしく、そのことを話してくれたのは、僕がはじめてらしかった。
ピンク色の太りカエルのお腹から出てくるこの予言、外れたことはないとのこと。少し前まではおとなしかったものの、ここのところ数を増しているとも話してくれた。
聞いた当初こそ面白いと思ったけれど、不思議なことに太りカエルは友達と一緒のときしか姿を見せなかった。そして、そのお腹から出る糸の内容は確かに外れることはなくって、僕も占い系統に対する不信が少しずつ和らいではきたのだけど。
あるとき。
太りカエルのお腹を割いて、糸を見た彼の表情が一気にあおざめてね。僕には見せてくれることなく、その場から走り去ってしまったことがあった。
ポカンとした僕が、ふとカエルを見直すと、普段はぱっと消えてしまうピンク色のカエルが、きちんとお腹を下に向けてその場に座り直していた。
友達の去っていた方向をじっと眺めながら、やがてぴょんぴょんとそちらへ跳ねていく。
翌日に、友達は事故に遭って亡くなったのを知ったよ。そうなると太りガエルが報せたものはおそらく……。
あれは死神のやる「ごっこ遊び」だったのかもしれないな。




